低所得は自己責任? 自分さえ良ければいい人増殖社会
12/16(水) 日経ビジネス(河合 薫)
今回は「努力と自己責任」について、あれこれ考えてみる。
もうすでにかなり前の出来事のように感じてしまうが、「トランプかバイデンか?
どっちに転んでも、結論が出るのは年明けになるぞ!」と米国大統領選挙に関する報道で、メディアが盛り上がっていた最中、少子化対策を担当する坂本哲志内閣府特命担当大臣(一億総活躍担当)の発言が物議を醸していた。
坂本大臣は、閣議後の記者会見で、現在、中学生までの子供がいる世帯に支給されている「児童手当」のうち、所得が高い世帯にも特例的に月5000円を支給している「特例給付」について、廃止も含めて検討していることを明らかにしたのである。
●「900億円を待機児童解消に充てる」というが……
さらに、支給額の算定基準が「世帯で最も稼ぎが多い人の収入をベースにする方式」から、「世帯全体の収入を合算する方式」に変更することも検討しているという。
これらの2つの案が実際に変更されると、約900億円のお金が浮くため、それを菅義偉首相が掲げる待機児童の解消策に充てるのが目的ということだった。
だがこの「児童手当廃止&世帯収入合算」にはSNSで批判が殺到し、ヤフコメやTwitterは荒れに荒れた。
そこで「まだ検討に入ったというだけで、決まったことではない」と火消しに走ってるらしいのだが……。
いやぁ、マジすごかったです。
コメントの中にはかなり的を射たものも多かったし、実際に子育てをしている人が、いかに子育てに金がかかるかをつまびらかに書いているコメントもあり、大いに学ばせていただいた。
興味ある方はググってみていただくとして、おおまかに批判を分けると3つのパターンがあった。
1つ目は、「削るところはそこじゃないだろ!」「寝てるだけの政治家とか派手な葬儀とか、いらないものもっとあるだろう!」「裁判している議員の給料出すのやめろ!」「もっと先に廃止することたくさんあるでしょうが」といった“そこじゃないだろ!”批判。
2つ目が、「なんで子供のための資金を、子供支援費から賄おうとするんだ!」「マジで少子化対策やるつもりあんのか?」「子育てに金がかかりすぎるんだよ!」などの“子育て環境”批判。
そして、3つ目が「世帯収入合算」への反発だった。
日本は「子供にかける予算」が先進国の中で圧倒的に少なく、親の収入に依存する「家族依存」的な社会経済構造になっているので、基準変更は死活問題となる。
現状では、所得制限は夫婦共働きでも収入が多い方を基準にしており、配偶者と子供2人が扶養に入る4人世帯なら年収960万円が目安となる。
しかし、合算方式になると満額支給されていた手当がゼロとなるケースが生まれる可能性もある。
そもそも菅首相は所信表明演説で「少子化対策に真正面から取り組み、大きく前進させる」方針を出していたのに、子育て支援の予算を削って待機児童対策に付け替えるのはどう考えてもおかしい。
本気で「子育て安心プラン」と胸を張れるものをまとめるのであれば、「子供にかける予算」を増やす議論や、「所得で区切る根拠」をきちんと示した上で検討すべきだろう。
●麻生財務相が“いつも通り”のコメント
くしくも、麻生太郎財務相が少子化の原因について、「一番は、『結婚して子供を産んだら大変だ』ばかり言っているからそうなる」などと、いつもどおり性懲りもない発言をしていたけれど(11月18日の衆議院財務金融委員会)、支給額の算定基準を変えれば、「やっぱ産んだら大変なんじゃん!」と思う人は増えるし、少子化対策に効果的とされる「2人目3人目を産みたい!」という社会は期待できない。
と、あれこれ書いたが、おそらく合算方式の見直しは先送りになる可能性が極めて高いと個人的には考えている。
なんせこれだけコテンパンに集中砲火を浴びたのだ。
なので「児童手当」問題については、政府の方針が決まってから書く。
じゃ、何を書くのかって?
はい、冒頭に書いたとおり「努力と自己責任」についてです。
今回のすさまじい数のコメントの中に、「努力して頑張った人が差別されて、努力もしない人が優遇されるのか?」といった不満が想像以上に多く、それは私がここのところ、肌で感じていた問題そのものだったのである。
つまり、それらのコメントは「児童手当」へのコメントであって、「児童手当」だけへのコメントではない。
「日本は、高所得者に不都合な政策が多すぎる」 「いい生活をしたくて自分の時間を削って働いてるのに、努力もしない人が優遇されるのか」 「収入が少ない人に迎合するような政策を次々と打ち出すのはおかしい」 「努力した人や頑張ってる人ほど年収高いんじゃないのか」 「票集めのために、低所得者を優遇するのやめてもらいたい」 「必死で努力して、実力つけて所得増やしてるのに、好きな時間に自由に働いてる非正規でやってる方が楽じゃん」 ……などなど、「低所得=努力してない人」といった、賃金の低さを個人の努力の問題とする意見が散見されたのだ。
断っておくが、収入を上げるために頑張っている人を批判するつもりは毛頭ない。
その頑張りが報われない社会になっているのは大いに問題だし、その問題についてはこれまで何回もコラムで取り上げてきた。
だが、「報われない社会」問題と「低所得=努力してない人」問題は同義ではない。
ましてや「非正規=楽してる人」でもない。
ところが、悲しいかな、収入の低さは自己責任と考える人が後を絶たない。というか、確実に増えた。
「学校だって、仕事だって、資格だって、自分の頑張りでいくらでも上を目指せるのに、収入が低いと嘆くのはおかしい」「いやだったら転職すればいいし、自分から行動しないでどうする」などと、自己責任にされてしまうのだ。
そもそも単なる雇用形態の違いで、賃金格差、待遇格差をもたらしたのは企業の側だ。
安い労働力を求め、賃金を低くし、昇進や昇給の機会や社内教育の機会をなくした。
散々「非正規雇用は調整弁ではない」といっていたのに、コロナ禍で真っ先に切られたのは非正規だった。
●「自助」は自分だけでは完結できない
コロナ禍では一部をのぞき、多くの人たちの賃金が下がり、ボーナスが下がり、希望退職という名のリストラも拡大した。そんな厳しい状況だからこそ弱者に寄り添うことが大切なのに、なぜか「弱者たたき」が先行し、弱者の話題にすら興味を示さない。
人は誰しも自分がかわいい。
自己利益を最大限守りたいという欲求が基本構造として組み込まれているので、厳しい状況になればなるほど、自分より楽してる人を許せなくなるかもしれない。
だが、自分さえよければいい……そんな風潮が拡大している。そう思えてならないのだ。
くだんの「児童手当」へのコメント欄には、生活保護者たたきもあった。
こんなふうにたたかれたら、「助けて」と言えなくなるよ、と。本当に困っている人ほど「人に迷惑をかけて生きるわけにはいかない」と、自分をそぎ落として生きるしかなくなってしまうだろう。
頑張ること、勉強すること、「自助」の精神は大切ではある。
だが、その「自助」は自分だけで完結できるものではない。
他者が絶対的に必要なのだ。
真の自立とは依存先があることで成立する。
自立と依存はコインの表と裏。表裏一体である。
だいたい「自分の能力や知識」だと信じているものでさえ、他者が深く関係しているのだ。
私たちの重要な情報やスキルの多くは、他者とつながることで共有されている。
互いに刺激しあうことで、自分の能力だって引き出されている。
努力だって同じだ。
自己責任論には、「努力する能力はすべての人に宿っている」という前提がある。
しかしながら、めげそうになっても「頑張れ!」と励ましてくれる他者や、「〇〇にチャレンジしてみろ!」と機会を提供して背中を押してくれたり、サポートしてくれる人がいるからこそ、もうひと踏ん張りできる。
なのに絶好調になると人は、そのことを忘れてしまうのだ。
「他者」というリソースの存在を忘れ、「自分は努力したんだよ。人のせいにするのはおかしい」と批判する。
ちょっとした時間のずれで、努力が実らないことだって往々にしてある。
非正規が量産された氷河期世代は、努力が足りなかったのか?
●「勝ち組・負け組」が流行語だった時代も
思い起こせば、日本で格差への関心が高まりはじめたのは、「勝ち組・負け組」という言葉が流行語になった2006年ごろからで、08年の年末に日比谷公園につくられた「年越し派遣村」で貧困が可視化された。
当時は坂本哲志総務政務官(当時)が、「(派遣村は)本当に真面目に働こうとしている人たちが集まっているのか」と述べ、発言の撤回・謝罪に追い込まれるなど、「弱い立場の人を最優先で救済する」という、人間倫理の根幹がまだあの頃の社会では共有されていたように思う。
実際、政府もリーマン・ショックのときには「派遣切り」を問題視し、「やむを得ない事由がなければ、契約期間満了まで解雇できない」ようにする労働契約法の改正や、同じ会社で契約期間が5年を超えた場合は、無期雇用に転換することを義務付けるなど(本人の申し出による)、非正規労働者を守るための法整備を積極的に進めた。
もっとも、法律の隙間をつく“あざとい解雇”は跡を絶たなかったし、正社員化が進む一方で、女性やシニア層の「新しい労働者」の多くは非正規で雇用され、非正規で働く人たちは増え続けた。
それでも、国が「非正規の不安定さ」を議論の俎上(そじょう)に載せ、「人」を主役とするセーフティーネットの整備に動いたことは確かだ。
一方、先日、菅首相が「アフターコロナに向けた環境に投資する」ための経済対策を指示したと報じられたが、そこにはコロナで浮き彫りになった「非正規雇用」問題や、社会福祉政策への言及はなかった。
雇用調整助成金の特例措置は、21年1月以降も延長するとされているが、助成規模は縮小される可能性もあるので、体力のある大企業の正社員以外は「明日は我が身」だ。
同一労働同一賃金はおろか、働く場をどうやって確保するか?
どうやって生活を維持しながら、スキルを磨く機会を得ることができるか?
コロナ解雇にあった労働者も含めた非正規雇用の在り方を、今、議論しなくてどうする? と思うが、そこへの“温度感”が全く伝わってこない。
そう、いつだって政府の方針は「私」たちの写し鏡だ。
もちろん、コロナ禍では「他者と助け合う」人たちもたくさん生まれ、そこに私はアフターコロナの“光”を見た。
だが、同時に厳しさが増す中で、「自分だけ」意識も高まってしまったのではあるまいか。
●日本人の格差意識、なぜ薄い?
格差の測定方法には研究者の専門によりさまざまだが、非正規の増加が日本全体の所得格差を拡大しているという見解はおおむね一致している。
高齢化の影響も指摘されるが、経済産業研究所の報告では、米国や英国、ドイツ、スウェーデンでは当てはまらず、日本では若年層と中年層の所得格差が大きな要因だとしている(「日本の所得格差の動向と政策対応のあり方について」)。
また、日本では「自国を不平等な社会だ」と回答した人の割合が、1999年の39%から2009年には50%と増えているものの、所得格差を表すジニ係数が同じくらいの国と比べると、その割合は低い。
「自国の所得の格差は大きすぎる」という質問でも、「大きすぎる」とする割合が99年の69%から09年には78%に増えているが、ジニ係数が同じくらいの国の中では低い方に属している(格差意識の薄い日本人〜 ISSP 国際比較調査「社会的不平等」から〜)。
さらに、2007年には「所得格差が大きすぎる」と72%が答えていたが、その比率は徐々に低下し、2012年には56%にまで下がっているとの報告もある(東京大学社会科学研究所が継続して実施している「働き方とライフスタイルの変化に関する全国調査(JLPS)」の第6ウエーブ(2012調査))。
実際には所得格差が拡大しているのに、「所得格差が大きすぎる」と答える人が年々減少する“パラドックス”は、その他の調査でも確認されている。
この結果が意味することは何か?
他人のことを気にする余裕がなくなってしまったのか?
はたまた「自分さえよければいい」意識の高まりの表れなのか? あるいは両方なのか?。
一つだけ確かなのは、格差意識の低い社会では機会格差がますます拡大し、格差の固定化が進んでいく。
それははたして「私」たちが望む社会なのだろうか。
私はコロナ禍で見えた“光”を信じたいし、頑張らなかったからダメな人、ではなく、世の中捨てたもんじゃないと思える社会を望み続けているのだけど、「私」はどうなのだろうか。