2021年01月10日

「正義に燃える人」ほど他人に危害を与えてしまう理由

「正義に燃える人」ほど他人に危害を与えてしまう理由
1/9(土)  東洋経済オンライン
弘兼 憲史 :漫画家

正義を尊ぶ気持ちは、時に他者を傷つける刃ともなりうる。
正義感に溺れてしまった人の危うさを、『島耕作』や『黄昏流星群』などでおなじみの漫画家・弘兼憲史氏による新書『弘兼流 やめる! 生き方』より一部抜粋・再構成してお届けする。

 僕は全共闘世代ですから、大学時代には人とぶつかったほうがカッコイイと思って、ディベートなどをやった時期もありました。
 当時、大部分の学生たちは確固たる思想があって討論しているわけではなかったので、自分が間違っていると気がついても突っ張って曲げようとしません。
それで最後はつかみ合いになる。
そんな現場を見ているうちに、「くだらんことだなあ」と思って参加するのをやめました。
「人と言い争ってもプラスになることはない」「人とぶつからないようにしよう」と思うようになったのは、その頃からです。

■「正義」が抱える危うさ
 僕が大学生だった1960年代の後半は、正義の名のもとにベトナム戦争に介入したアメリカが戦線を拡大する一方で、反戦運動が盛んになっていく時代でした。
 「正義」によって戦争をするということは、「自分は正しい」という大前提のもと、「対立するやつらは悪だ」「だから懲らしめる」という論理。
お互いの国に正義があるから戦争になるのです。

だから、正義を声高に主張するのは、相手の立場を受け入れないという意思表示でもあるわけです。
 こういうことに気づいたときから、正論を主張したり正義をかざしたりすることはやめました。
そういう「議(自分の中にある意思)」というものは口に出さず、自分がやるべきことを黙ってやればいいと思うようになったのです。

 「自分からは争いに参加しない」という考え方は、今も変わりません。
誰かとぶつかりそうになったら、その場から逃げるか、話題を変えます。
 新型コロナウイルス感染が広がる中で現れた「自粛警察」と呼ばれる人たちは、感染症という不安や恐怖が根底にあるものの、論理は過激な反戦運動家と同じです。

 感染を防ぐためにはマスクをしていなければいけない、ソーシャルディスタンスを守らなければいけない、他県から移動してくるなんてもってのほかだ、という正義を掲げて、相手にどういう事情があるかということは考えずに懲らしめようとするわけです。
 不安の裏には必ず願望があります。
自粛警察と呼ばれる人たちは、安全でいたい、健康でいたいという「願望=自分の正義」を脅かされることが怖いために、視野が狭くなり、感染症の実情や他人の事情が見えなくなってしまうのでしょう。
まじめに自粛している自分の正義を否定されたくないという願望もありそうです。
 正義を口にしたくなるのは、自分の願望が脅かされることへの恐れから生まれるものだということがわかれば、そこで争う必要などなくなります。
黙って自分の不安や恐れと向き合い、冷静に願望への対処を考えればいいのです。

■争わなければストレスも減る
 テレビの仕事をしている頃、何度もオファーをもらっていたのに、自分の中でこれだけは出るのをやめようと決めていた番組がありました。
深夜から朝まで討論する有名な番組です。
お互いに自分が正しいということを声高に主張し、相手を否定し合う、議論とはほど遠い内容が嫌だったからです。
 視聴者は、論破というよりも、大きな声と矢継ぎ早の口調で誰かが誰かを打ち負かすところが観たいのでしょう。
そんな討論ショーに自分が出ても何のプラスにもならないと思って、ずっとお断りしていました。

 銀座でクラブ活動(笑)をしていた頃には、知らない男から「あんたの漫画はつまらない」などと絡まれることもありました。
 学生時代だったら、正論をかざして相手を論破しようと思ったでしょうけど、「それは失礼しました。これからはもっと面白い漫画を描けるように頑張ります」とあしらって、その場を離れました。
 最初から争うつもりがなければ、ムキになることもなく、ストレスを感じることもないのです。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(2) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする