人生の失敗・不幸はすべて自分の責任?安易な「自己責任論」が追いつめる先
1/22(金) 現代ビジネス..吉野 なお(モデル)
生活の困窮、パートナーからのDV、予期せぬ妊娠……コロナ禍で苦境に立たされる人が増えている。
SNSやネットニュースのコメントでそんな状況の告白に対して、自己責任や考えの甘さを指定するレスが、増えている。 SNSを中心に、体型に関するポジティブなメッセージを配信し続けている、プラスサイズモデルの吉野なおさん(モデル名:Nao)のところにも、自己責任論を突き付けられて苦しむ人たちからの悩みが増えているという。
「太ったのはだらしない生活のせい」「デブと言われるのは自業自得」「心が弱いから摂食障害になる」といった刃物のような言葉たち。
今回は、ネットに増加する、呪いの「自己責任・自業自得」について、自らの経験とともに執筆してくれた。
人生の失敗や不幸はすべて自分の責任なのか?
あなたはこれまでの人生で「あのとき、あんなことしなければよかった」「別の選択肢を選べばよかった」と後悔したり、反省した経験はあるだろうか?
就職した会社がブラック企業だったとか、良い人だと思って付き合ったらモラハラ男だったとか、安く買えたと思った物がすぐ壊れてしまったとか。
物事の程度に差はあれ、後になってもっと良い選択に気づくパターンは、誰もが身に覚えがあると思う。
日本人の私たちは、日常生活で悪いハプニングが起きると、その人自身の過去に悪い原因を探してしまいがちだ。
「日頃の行いが悪かった」「因果応報だった」「自業自得だった」などの言葉で受け入れ難いことをまとめようとしたりもする。
でも、何も悪いことをしていなくても、良い行いをしていても、悪いことは起きるし、止むを得えず導き出した答えの後、ハプニングが起きることだってある。
最近、ニュースやSNSをみていてちょっとモヤモヤすることがある。
それは『その状況にならざる負えなかった人』が傷付き助けを求めているときに、「あなた自身に問題の原因がある」と責め立てる人を見るときだ。
例えば、コロナ禍で生活が困窮している人に「貧乏は個人責任。仕事はいくらでもある」、モラハラ夫に苦労している人に「悪い人だと見抜けず結婚したあなたが悪い」、コロナ感染した人に「そこへ行ったあなたにも責任がある」などなど……。すでに傷ついている人の傷を更にえぐる言葉が最近、あまりに増えている。
人の人生は簡単に他人に語れるほど単純ではないのに、表層の情報とイメージで他人を解釈し、傷ついた人を説教するくだりには、傲慢さを感じてしまう。
もう変えることができない過去の原因や選択を責め続けても、困っている現状は変えられないのに……。
『自己責任』という言葉が人をより孤独にさせる
人から非難やマウントをさけて、声に出せなくなっている人も……。
かくいう私も、『自己責任』『自業自得』という言葉に囚われ、人を頼りにできなかった経験が何度かある。
私は、昔から人を頼りにするのが下手だった(今でも得意な方ではないけど)。
例えば、オフィスワークの仕事をしていた時には、『他人に頼むより自分がやればいいや精神』『頼まれたら断れない性格』で仕事を抱え込み、キャパオーバーになって体調を崩した。
摂食障害だったときには、余計な心配をされないよう他人の前では『大丈夫な人』のフリをして明るく自分のキャパ以上に明るく振舞っていたが、心の中はまったく大丈夫ではなかった。
モラハラ男性にひどい扱いをされたときも、その事情を知って助けてくれようとしてくれた人がいたのに「いいのいいの、大丈夫!」と頼らず自己解決しようとしたことで、状況が悪化した。
あのとき素直にその助けに乗れていたら、どうなっていただろうかと思う。
でも当時の私は、例え目の前に自分の声に耳を傾けてくれる人がいたとしても「自分の性格や考え方が悪いのだ」「相手に迷惑をかけてしまうかもしれない」という思考になっていて、悪い状況であっても今のままでいるほうが、リスクを減らすことができると感じて、頼ることができなかったのだ。
過去の私のような思考に陥っている人は少なくないように思う。
いざ勇気を出して相談してみたところで、万が一『つらい人はもっといる理論』や『根性論』を持ち出されたりすると「もう誰にも話さないでおこう」となってしまったり、相談すべき相手を間違えてしまう場合もある。
よく「独りにならないで」という言葉があるが、これは物理的に誰かと一緒にいることが大事なのではない。
本当の孤独や不安は、誰かと一緒にいるときにも感じるものなのだと思う。
仕事・人間関係・子育て・介護など、自責して自己解決しようとしたことで心身の病を患ったり、『正しい人』を頼れず物事がもっと悪い方向へ進んでしまったという話は、枚挙にいとまがない。
切羽詰まった人間は、他の選択肢に気づけなかったり、判断力が鈍ってしまうからだ。
家族の無理解な助言が孤立を深めてしまうことも 認知のゆがみが起きている摂食障害。
ここへの理解なく、食べろ食べるな、そんなことになるのはおかしい! という声は逆に症状を悪化させてしまう。
過去に私自身が摂食障害だったこともあるので、摂食障害に苦しむ女性からよく相談を受けるのだが、よく聞くのが、家族に過食症の症状を否定されるという悩みだ。
過食症は、理解の無い人からすると『単なる大食い』だと思われることが多い。
そういった無理解な人が身近な存在の家族にいると「また食べてるの!? 太るよ!」「いい加減にしないと怒るよ!」と呆れられたり、ひどいときには家族の勝手な判断で食べ物を隠されてしまったりする。
こういった否定や拒否行為は、本人にとっては相当つらいことになり、逆効果になることも多い。
本人にとっても過食症は辞めたいことであり、自責していることであり、そして、自分の意思ではコントロールできないから困っているのだ。
また過食症のことを家族に説明しても「考えすぎ。あなたがそんな病気なはずはない!」(家族は励ますつもりでこういった言葉を使いがちだ)なんて言われると、家庭の中で落ち着く場所が無くなっていく。
『過食症』を知らない人には、過食という行為自体に問題があるように見えるが、そういった症状が起きている背景に、このようにもっと複雑な問題が起きている場合がある。
これでは逆効果で、本人はますます一人で我慢していくことになる。
この場合だと、理解のない家族と距離を置けるような、働いていて自立できるような状況であればまだ良いが、働く気力も金銭的余裕もない場合は、八方塞がりになってしまう。
また、過去の私のように「これは自分の問題で、人に話しても解決しない」と思い込み、友達やカウンセリングに相談しない人も多い。
傷ついた人が求めているのは「共感」
周囲の声を恐れ、相談できず孤立してしまったり、間違った相手に相談をし、闇の中に埋もれてしまうケースも。
そういった“心の居場所”の無い状況下で、SNSを通して話を聞いてくれる男性が現れ「可愛いのに、かわいそう」「僕なら理解してあげられるのにな」「そんなに困ってるなら、家においでよ^^」と言われたら、フラっと行ってしまう人もいるかもしれない。
側から見たらどう考えても怪しいのに、本人からすると藁をも掴みたいみたい状況なのだ。
心の居場所の無い女性を探し当て、利用したり支配しようとする男性は残念ながら実在する。家出したい少女をSNSで待ち構えている輩や、「自信がない女は褒めればすぐに落とせる」と解説する輩までいる(裏を返せば、それは対等な立場の女性と向き合えないということでもあるのだが)。
「でも、需要と供給があってるんだからいいだろう」と弁明する男性もいるが、彼女たちが本当に必要な繋がりは、もっと別なところにあるのではないだろうか。
1月5日に死刑確定した『座間9人殺害事件』が過去に発生しているが、こういった犯罪に巻き込まれる可能性は大いに高くなる。
また、これは女性に限ったことではないが、金銭的余裕の無い人に対し投資という名目の詐欺や、犯罪の共犯を持ちかける行為も存在する。
「誰にでも出来る簡単な仕事です! スマホ一台で完結します!」という言葉に誘われ、怪しいネットワークビジネスに契約させられたり、何かの運び屋や振り込み詐欺の出し子になってしまった話もある。
日本でも少しずつカウンセリングに行く人が増えてきたように感じるけれど、まだまだ心に抱える悩みを自己解決しようとする人は多い。
私も以前は『人に相談すること=意味がない』と諦めていたので、その気持ちはよくわかる。
しかし今思うと、身の回りの人やカウンセリングに相談することだけが選択肢ではなかった。
当時は知らなかっただけで、ピアサポートや悩み相談ホットライン、NPO支援団体など、利用できるサービスが様々あったのだ。
そういったところを当たってみれば、生きやすくなる選択肢がもっとあったのかもしれない。
『自立とは、依存先を増やすこと』という言葉を最近よく耳にする。
主催したワークショップイベントや講演に参加した女性たちからも「自分以外にも同じように悩んでいる人がいると知れてよかった、共感できて少し安心した」などと言われることがよくある。
コロナ禍の今、SNSなどのネットツールがコミュニケ―ションの大きな柱になっている。
だからこそ、他者への言葉には心を砕きたいと思う。
困った人や傷ついた人にまず必要なことは、少なくとも「自己責任でしょ」「自業自得でしょ」と責められることではなく、『共感』という癒しなのだと思うのだ。