2021年04月12日

「桜田門外の変」で食べ物の恨みは怖いと思う訳

「桜田門外の変」で食べ物の恨みは怖いと思う訳
4/11(日) 東洋経済オンライン
青沼 陽一郎 :作家・ジャーナリスト

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』は、江戸幕府の最後の将軍となる徳川慶喜に仕え、のちに「日本資本主義の父」と称された実業家の渋沢栄一の生涯を追う物語。
4月11日は幕末の政局を変える桜田門外の変が描かれる。
この歴史的事件の裏には、おそらくはドラマで語られることのない、深い食べ物の恨みが絡んでいる。

 水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が、大老の井伊直弼を暗殺した桜田門外の変。背景には開国に端を発する、慶喜の実父である水戸の徳川斉昭と井伊大老との対立があったことで知られる。
 水戸の御老公と呼ばれた斉昭の好物は牛肉だった――そういうと違和感を覚えるかも知れない。
そもそも牛肉を食べる習慣は、明治維新によって広まったはずだし、仏教信仰が広く浸透していた江戸時代には、ほとんどの日本人は肉食を忌避していたとされる。

 ところが、江戸時代には肉を食べていた。
それも「薬」として。
例えば、安永年間(1772〜1781年)には、麹町平河町に「山奥屋」という店があった。ここに通う武家たちは「紅葉」や「牡丹」という料理を食べていた。
鹿や猪のことをしゃれや隠語でそう呼んでいたのだ。これを「薬喰(くすりぐい)」といった。

■牛肉生産を認めていた彦根藩
 その江戸時代に、代々にわたって牛の屠畜と牛肉生産を認めていた唯一の藩があった。彦根藩だった。  それこそ、『忠臣蔵』で知られる大石内蔵助は、堀部弥兵衛に牛肉を送っている。
弥兵衛は赤穂浪士四十七士の中で最年長の討ち入り当時77歳で、その娘婿が高田馬場の決闘で見そめた堀部安兵衛だ。
このときに大石が送ったのが、彦根名物の味噌漬けだった。
 そのことを記した手紙の一文にはこうある。
倅(せがれ)主税などにまいらせ候と、かへつてあしかるべし、大笑大笑  大石の息子である主税のような若者には、強すぎる薬。
「悪しかるべし」と笑っている。

 彦根藩主の井伊家では、太鼓の張り替えに毎年5枚の生皮と一緒に、牛肉を「薬」として幕府、将軍家に献上。御三家や老中などにも進呈していた。このお裾分けの牛肉が大好きだったのが、水戸の御老公斉昭だった。  ところが、直弼が藩主の座につくと、牛の屠畜を一切禁止してしまったのだ。直弼は、母親が側室で庶子であったことから、家督を継ぐことはないはずだった。
若い頃から井伊家の菩提寺に入り、袈裟血脈を許された僧侶の資格を持っていた。
 その後も「埋木舎(うもれぎのや)」と呼ばれた邸宅で、世捨て人のように暮らしていたが、兄の死により人生が一転する。それでも敬虔な仏教徒だったから、殺生を忌み嫌ったのだ。

 そうすると、斉昭のもとに牛肉が届かなくなる。
毎年、寒い時期になると彦根から届く牛肉の味噌漬けを楽しみにしていた斉昭。
ところが、どうしたことか、その年はやって来ない。
事情を知らない斉昭は、直弼に使いを出す。毎年楽しみにしていたのに、今年はやってこない。何卒お送りください、と。
  すると直弼から、今年から領内の牛を殺すことを禁止いたしましたので、牛肉を差し上げられません、お断りいたします、との返事がくる。

■特別扱いを申し出た斉昭
 それでも諦めきれない斉昭は、再び使いを出す。
領内の牛を殺すことを禁じたのであれば、しかたがないが、これまで毎年食べていることで、特に江州の牛肉は格別だから、私のためだけにでも特別に手配していただきたくお頼みします、と。
つまり、特別扱いを申し出たのだ。

 これを直弼が承知するはずもなかった。
なんと言われようと、領内の禁止事としたので、そんなことはできない旨を伝え、「たつて御断り申し上ぐる」と厳しく断っている。
 このやりとりを記録した『水戸藩党争始末』の「老公と大老の不和」と題する項目の原書は、こう結んでいる。
かくのごとく、公よりたびたび御頼みありし事を、さらに承知せざりしかば、さすがに不快に思召されしとなむ
 水戸の御老公と大老の不仲は牛肉から始まっていたのだ。

 記録に残るくらいだから、好物を分けてくれない相手をなじるくらいのことはしただろう。
上司の吐いた言葉が部下の耳に伝わり、言葉だけが広がっていくことは、どの時代にもある。
私怨がいつしか大義と入り乱れ、相手への恨みが膨れていく。
それが究極の事件となる――。

 そんな事情もあって、斉昭に近い諸侯は直弼のことを「愛牛先生」と呼んだ。やはり直弼から処罰を受ける福井藩主の松平慶永(春嶽)が斉昭に送った書面にも、また、土佐藩主の山内豊信が慶永に送った書簡の中にも「愛牛」の文字を見ることができる。
 それだけ諸侯の間には、彦根の牛肉事情は知れ渡っていた。
 もっとも、大名の多くは直弼の牛への愛情をして、「佞佛(ねいぶつ)」と呼んでいた。
「佞」とは、へつらう、おもねる、の意味。
つまり、仏をおもねるあまり、道理を欠いた仏徒のことをさしている。
牛の屠畜を禁じながら、安政の大獄で反対派の首を次々とはねていったのだから、そう呼びたくもなる。

 斉昭にも劣らず、肉好きだったのは息子の慶喜も一緒だ。
のちに慶喜が、江戸の街火消しだった新門辰五郎を、京に連れてきていたことは広く知られる。
その辰五郎に2分ずつ渡して「今日も買ってきてくれ」と、牛肉を買いにやらせていた。
生粋の江戸っ子の侠客が、寺社仏閣の建ち並ぶ京の都で、四つ足の肉を買い漁るのだから、京童部たちに嫌われていたのも無理はなかった。
 一橋家に奉公するようになった渋沢栄一も、京都滞在中の月の手当が4両1分で、抱えた借金返済のために節約を心がけ、「朝夕の食事も汁の実や沢庵を自分で買出しにいって、時々竹の包みに牛肉などを買って来た、それが最上の奢りであった」と自伝『雨夜譚』に記している。
栄一も牛肉をごちそうとして味わっていたことがわかる。

■豚肉も大好きだった慶喜
 ただ、慶喜は牛肉もさることながら豚肉も大好きだった。
そのことは市中にも知れ渡っていたようで、ついた渾名が「豚一殿」。
豚が好きな一橋のお殿様、という意味だ。

当時、豚は薩摩藩の名産だった。
統治していた琉球の文化の影響もあって、薩摩では古くから豚肉を食べた。
西郷隆盛の好物も「とんこつ」という豚料理だったことで知られる。
 もともとは、薩摩藩主だった島津斉彬が水戸の斉昭に豚を送っていた。
そこからはじまる慶喜の豚好きが薩摩を困らせる。
弱冠28歳の若さで薩摩藩の家老に就いた小松帯刀が、元治元年(1864年)に京の屋敷から郷里に送った手紙に、慶喜からたびたび豚を所望されて困っていることを、まさに愚痴のように書いている。
 帯刀は自分が持っていた豚肉を3回も慶喜に送ったこと、それで手持ちがなくなったこと、それでも使いを寄こして催促してくることなどを書き連ね、「大名と申者不勘弁之者、大キに込入申候」と締めくくっている。
大名とは、どうしてこう聞き分けのないわがままなのか、大いに困り入った、というわけだ。

 肉をしつこくねだる姿は、父親の斉昭にそっくりだ。
ひょっとしたら、この豚肉が由縁で倒幕につながるのかもしれない。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(1) | 教育・学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする