「五輪派遣にNO!」看護師たちの厳しすぎる現実
日本看護協会への不満から、退会する人も
2021/05/12 東洋経済オンライン
小林 美希 : ジャーナリスト
ツイッターデモ「#看護師の五輪派遣は困ります」が、4月28日から短期間で44万ツイートを超えて話題になっている。
職能団体である日本看護協会(会員数73万人以上)に五輪派遣の要請があったことから起こったツイッターデモだが、日本看護協会がはっきりとしたスタンスを示さないことから、「現場は限界!」という無言のメッセージとして看護協会を退会する看護師が続出している。
5月12日はフローレンス・ナイチンゲールの誕生日にちなむ「看護の日」。
現場の声に耳を傾けてみたい。
看護師の過酷な労働時間と環境 「現場の看護師はもう限界です」
都内の有名病院で働く川野洋子さん(仮名、30代)は、なんとか職場に踏みとどまっているが、この春、職能団体である看護協会を退会するという“立ち去り型サボタージュ”を決行した。
かつて病院の勤務医が過酷な労働に耐えきれず、黙って病院を辞めて当直のないクリニックに移ることが「立ち去り型サボタージュ」と呼ばれ、注目を集めた。
もちろん看護師の場合でも同様のことがあるが、今、注目されるのが、看護職の約半数が入会している看護協会を退会するという「無言の抵抗」だ。
病院勤務の看護師の管理職のなかには、大病院の看護部長を経て看護協会の役員になることが出世コースと捉えるケースもあり、部下を協会会員に強制加入させることも少なくない。
上下関係が厳しい看護の世界で、上司が入会を勧める看護協会を退会する。
こうした看護師版の立ち去り型サボタージュ現象は、オリンピックへの看護師派遣の要請をきっかけに目立っている。
その背景にあるのは、この何十年と変わらない看護師の過酷な労働実態だ。
冒頭の洋子さんの配属先は循環器内科病棟。病院内で最も忙しい病棟だという。
心筋梗塞や心不全など心臓の病気で入院する患者は急変しやすく、救命処置に当たらなければならないことが多く、ナースコールは鳴りやまない。
ましてや夜勤ともなれば、50人以上の患者を看護師4人体制で看護するため激務となる。
夜勤の間は16時間以上、ずっと病棟を走り回っている状態だ。
夜勤については、看護師不足、労働条件の改善を目的にした「看護師確保法」(看護師等の人材確保の促進に関する法律、1992年制定)の基本指針で具体的に定められている。
3交代の夜勤は1回当たり約8時間で月8回以内が努力義務とされている。
2交代の場合は1回の夜勤が16時間以上に及ぶため月4回以内となる。
洋子さんの病棟では1回16時間以上に及ぶ2交代夜勤が月5回に上る(3交代の換算で月10回)。
それでも洋子さんは、「友人は2交代夜勤が月7回というケースもあるので、まだマシ」と苦笑いする。
東京都からの要請で洋子さんの勤める病院でもコロナ患者を受け入れ始めると、ただでさえ激務だった病棟が、まるで野戦病院と化していった。
コロナ病棟だけでは患者を受け入れきれず、循環器内科病棟で個室が空くと、そこにコロナ患者が入れられる。
洋子さんら看護師は、循環器内科の患者を受け持ちながら、防護服を脱いでは着ての繰り返しで、個室にいるコロナ患者も看護しなければならなくなったのだ。
「コロナの患者を看ている最中に循環器内科の患者が急変し、ほかのスタッフから呼び出しのコールが鳴っても、すぐ駆け付けられないのがつらいです」
16時間以上続く夜勤、残業代は支払われず休日出勤
過酷な労働に見合わない待遇も精神的な負担になる。
コロナ患者を受け入れている病院は、手術の延期、外来診療の抑制など感染予防対策をすることで赤字に陥っている。
洋子さんの病院も赤字になり、残業代が支払われなくなった。
業務は増える一方で、毎日、タイムカードを押してから2〜3時間残業せざるをえない状況だ。
休み返上で呼び出されることもある。
感染予防のため患者の家族が面会できず、そのストレスの矛先が看護師に向き、看護師が罵声を浴びせられることも多い。
コロナ患者の受け入れ病院だということを理由に、中堅以上でスキルのある看護師たちは辞め、美容関係や夜勤のないクリニックに転職していった。
4月に新卒の看護師が入ったが、コロナの影響で実習を経験できずに就職したため、病棟に配属されても何一つできない。
かといって洋子さんらには新人を指導する余裕もない。
そうしたなか、ワクチン接種後に体調が悪くなった看護師が相次ぎ、残った看護師に大きなしわ寄せがきた。
洋子さんは夜勤明けの日にまた夜勤をせざるをえないことも。夕方4時頃から16時間以上も続く夜勤が連続することもあり、疲労困憊状態となった。
コロナ患者を受け入れる前までは、夜勤明けの翌日と翌々日は休みをもらえていたが、今は人手不足で2日連続の休みはとれない。
疲れ果てて、休みは眠り続け、疲れが取れないまま出勤して看護しなければならない。
たまの休日。
つい先日も入院患者がPCR検査を受けて陽性反応が出たため、担当した洋子さんもPCR検査を受けなければならず病院に向かった。
休みがあってもまったく体は休まらない。
感染予防対策で頻繁に行う消毒で手指の関節が切れて出血。
皮膚科でステロイドを処方してもらって塗っても治らない。
洋子さんは、労災申請してもいいのではないかとさえ思えてくる。
「こうして日々、耐えながら働いています。
それなのに、オリンピックのためにボランティアで看護師を派遣してということの意味がわかりません。
派遣を要請された看護協会が私たちを守ってくれると感じることができないのです」
東京に日本看護協会の本部があり、看護師は都道府県ごとにある看護協会に入会して協会に所属する。
会員数は全国に73万人以上。
日本で就労している看護師と准看護師は約150万人いることから、約半数が加入していることになる。
都道府県によって金額は異なるが年間に約1万5000円の会費を納入する。
看護協会の活動内容には、
@看護の質の向上、A看護職が働き続けられる環境づくり、B看護領域の開発・展開、を掲げている。
質の向上の一環として、独自に「認定看護師」などの資格認定制度を作っている。
看護協会は独自に看護師の労働環境の整備に取り組むほか、厚生労働省や都道府県の事業を受け、都道府県ごとに無料職業紹介「ナースセンター」を運営するなどしている。
洋子さんは病院看護部によって看護協会と、政治団体である「看護連盟」にも強制加入させられ、長年、会費も病院がまとめて徴収していた。
オリンピック派遣の要請に即座に異を唱えなかった日本看護協会の姿勢に疑問をもった洋子さんと同僚は、「今はWEBで入会や更新ができるようになったので、師長に気兼ねすることもなくなりました。
だから、この春、思い切って抜けました」と退会した。
一斉退会で無言のメッセージを発信
中国地方の公的病院で働く看護師の山本久美子さん(仮名、40代)も意を決し、看護協会を退会するつもりでいる。
「私たち現場のナースにとって、看護協会のおかげで何か労働環境が改善したとは思えないのです。
だから、職場の仲間たちと会員の更新をせず、脱会しようかと話しています。
1人でやめてもきっと協会は何も感じてくれないだろうから、一斉退会することでメッセージを送ろうと考えています」
4月下旬、自治体の要請によって、久美子さんの病院にコロナ病棟ができて患者を受け入れ始めた。
東京や大阪ほどの状況ではないものの、ICU(集中治療室)の一部を使って重篤患者の受け入れ体制をとっている。
久美子さんが勤める病院には600人以上の看護師が働き、産休や育休中で未加入状態の看護師以外で少なくとも400人は看護協会に入っている。
この病院だけで年間600万円も上納する計算だ。
もっと大きな病院では年間の会費の合計が1000万円にもなる。
病棟スタッフには看護業務以外に委員会や勉強会を行う「係」がある。
それと同列で会費を集める係がいて、毎年の更新時期の会費徴収は「春のお仕事」と呼ばれていた。
協会に未加入だと師長から「入ってないよね」とプレッシャーがかかり、逃げられない。
病棟には協会に加入しているかどうかの一覧表があり、やめるにやめられない状態だった。
看護部は新人看護師に看護連盟について説明し、事務室には与党の国会議員のポスターが貼られていた。
看護の現場に政治を持ち込まれることに久美子さんは抵抗感があり、仲間と抗議した。
こうした経験もあり、オリンピックへの看護師派遣要請がニュースになると久美子さんは「看護協会は本当に現場で働く看護師のための団体になっているのだろうか」と疑問が膨らんだのだった。
「看護は犠牲的行為であってはならない」
また、災害ボランティアに参加した経験のある久美子さんは「同じ“ボランティア”といっても、政治的な意味合いが強く見えるオリンピックへの看護師派遣の要請と災害時の看護とでは、まったく意味が違います。
自己犠牲で看護をしてはいけない。そう言ってくれない看護協会に入会している意味はない」と怒りをあらわにする。
折しもSNSでは、医療や介護従事者の労働組合である愛知県医労連(愛知県医療介護福祉労働組合連合会)によるツイッターデモ「#看護師の五輪派遣は困ります」が瞬く間に広がり、4月28日の投稿以降、ツイートが44万件を突破。
フローレンス・ナイチンゲールの「看護は犠牲的行為であってはならない」という名言が添えられ、拡大している。
ツイッターデモが国内外のメディアからの注目を集めたことから、東京五輪・パラリンピック組織委員会が看護師500人の派遣を要請したことについて菅義偉首相が「休んでいる方もたくさんいると聞いている。可能だと考えている」と官邸で記者団に語ったことが、現場の看護師の怒りを増長させた。
「なぜ辞めて、資格を持っていながら看護師として働かない『潜在看護師』になっているか、首相はわかっていない」と──。 ツイッターデモを行った愛知県医労連の西尾美沙子書記長が訴える。
「現場は今、精いっぱい。1人たりとも看護師を派遣なんてできない状態に陥っています。
もともとの人手不足にコロナが追い打ちをかけ、休みの日が月に1日しかない看護師もいます。
看護師は、コロナで今まで以上に業務が増えているのにボーナスがカットされ、周囲からは感染を疑われ差別もされる。
心身ともにバーンアウトしています。
その大きな矛盾のなかで懸命に患者を看ているのに、オリンピックのためにボランティアで派遣されてよいはずがありません。
オリンピックを優先するよりも命を守ることが大切だとツイッターを通して伝えたかった。
看護協会には毅然として看護師の派遣要請を断って現場を守ってほしい。
ツイッターデモをきっかけに、一般の多くの人にも看護現場が抱える労働問題の本質を考えてみてほしいです」
新型コロナウイルスの感染拡大が起こるずっと以前から看護師は不足しており、長時間労働や夜勤回数の多さで看護師の7割が「辞めたい」と思いながら働いている。
実際に辞める看護師も多く、毎年、平均して10人に1人が離職している。
看護師派遣は地域医療の質の低下につながる
コロナで一層、看護師は追い詰められているが、それでも目の前の患者を救いたい一心で辞めない看護師もいる。
退職する以外の方法で意思表明できるのが、看護協会の退会だったのだ。
救命救急の最前線にいるある医師は、「オリンピックにスタッフを派遣できるとすれば、この窮状でスキルのある人は出せない。
スキルあるスタッフを出せというなら、地域医療は守られず、オリンピックのために自分や家族に対する医療の質が落ちるということへの国民的コンセンサスが必要なくらい大変なこと」と憤る。
そして、全国の医療従事者から「オリンピックに動員できる医療従事者や費用があるなら、今、目の前の患者を救うためにあててほしい」という強い要望の声が聞こえる。
看護師の「立ち去り型サボタージュ」。
たとえその数が少なかったとしても、大きな意味があるだろう。
本稿執筆現在、日本看護協会の広報部は、今春の退会状況について「公表しておりません」とし、オリンピックへの派遣要請については「(日本看護協会としての)状況や見解は公表しておりません」としているが、今後の対応に注目が集まりそうだ。
5月12日はフローレンス・ナイチンゲール生誕にちなんだ「看護の日」。
前述した看護師確保法が制定されてから30年という節目の年だが、依然として看護師の労働は過酷だ。
日本医療労働組合連合会が行った「2020年度 夜勤実態調査」では、3交代病棟の夜勤で月8回以内が守られなかったのが24.8%、2交代の夜勤で月4回以内が守られなかったのが35.6%という状態だ。
これをきっかけに、看護師不足が引き起こす看護労働の本質的な問題に目を向けたい。