2021年12月16日

権力維持の道具となった「民主主義」という言葉

権力維持の道具となった「民主主義」という言葉
アメリカも中国も勝手に定義し叫んでいる
2021/12/15 東洋経済オンライン
薬師寺 克行 : 東洋大学教授

胡錦涛国家主席時代の2009年、中国の北京大学で講演する機会があった。
約200人の学生に「中国が民主主義の国と思うか」と聞いたところ、ためらいながらだったが2人の学生が手を挙げた。
すると他の学生から「何を考えているのか」などというヤジが飛んだ。
手をあげなかった学生に意見を聞くと「民主主義は統治形態の1つにすぎない。中国は共産党による統治で成果を上げている」「統治のあり方に絶対的なものはない。国民がそれでいいと考え受け入れることが重要である」などと答えた。
つまり学生らは中国が民主主義国ではないことを否定的にはとらえていなかったのだ。
当時はそういう教育を受けていたのだろう。

胡錦涛時代にはそれなりに自由な空気があった。
中国を訪れると中央政府や地方政府の幹部に会うことができ、内政外交について率直に話を聞くことができた。
大学の研究者らにも会え、政府や共産党の問題点や批判を聞くこともできた。

ところが習近平政権になって空気は一変した。
私に民主化の必要性を語ってくれたジャーナリストや弁護士が拘束されたという情報が何度か届いた。
メールでやりとりすることもはばかられるようになってしまった。
ウイグルの人権問題に焦点が当たっているが、ごく普通の言論や表現の自由さえ認められていないのが今の中国だ。

中国の白書は「民主主義」の普遍性を否定
その中国政府がいま、「自分たちこそ民主主義を大事にしてきた国だ」というキャンペーンを展開している。
12月4日には『中国の民主主義』と題する白書を公表した。
例によって長文でかつ意味不明の用語が列挙され、極めて読みにくく理解しにくい文書だ。
いくつかのポイントを紹介する。

まず結党100年を迎えた中国共産党は一貫して人民民主主義を掲げ積極的に推進してきたことを強調している。
毛沢東による反右派闘争や文化大革命、ケ小平時代の天安門事件など、反体制派の粛清と民主化運動の弾圧を繰り返してきた中国の現代史を振り返ると、民主主義とは無縁なはずだがそうではないらしい。
そもそも彼らのいう民主主義の定義が異なるのである。

白書は、「民主主義はそれぞれの国の歴史や文化、伝統に根ざすものでありさまざまな道と形態がある」として、その普遍性を否定している。
では中国はどういう形態かというと、中国共産党のほかに中国共産党に緊密に協力する8つの政党があるとしている。
しかし、中国には与党も野党もなく、共産党のリーダーシップのもとの複数政党制であるとしている。
もちろん共産党以外の政党は形式的な存在にすぎず、あくまでも共産党一党支配のもとでの「民主主義」であることに変わりない

共産党一党支配も専制主義も否定せず、選挙による政権交代などはまったく想定していない。
こうした「中国流民主主義」は西側からの批判の対象になるが、白書は逆に欧米の民主主義を批判している。
「ある国が民主的かどうかは、その国の人々によって判断されるべきことで、少数の部外者によって判断されるべきではない」
「世界にはすべての国に適用できる政治システムはない。各国はそれぞれが自国の発展に適した民主主義の形態を選択する」 「中国は民主的モデルを輸出しようとはしない。そして、中国モデルを変更しようとする外圧を受け入れない」

民主主義は普遍的なものではないのだから国によってさまざまな形があって当然だ。
したがって人権問題などを理由に外からとやかく注文をつけ、改革を求めることは内政干渉であり、これを拒否する、というわけである。
民主主義をうたう文書であるにもかかわらず、あくまでも党や国家が最優先される内容であり、民主主義にとって最も重要な個人の尊重、基本的人権が無視されておりとても納得できるものではない。

なぜ今、中国が「民主主義」を持ち出したのか 疑問なのはしばらく前まで民主主義などまったく気にしていなかった中国政府がなぜ、今、自分たちは民主主義を大事にしてきたと言い始めたかということだ。
公表のタイミングはアメリカが世界各国に呼びかけた「民主主義サミット」開催の直前だったことからサミットの対抗策としての公表だという見方も出てくるが、白書はかなり入念に時間をかけて作成されているようにみえるため、サミットへの対抗策という単純な話ではなさそうだ。
このところ習近平主席は、ケ小平氏以来の改革開放路線の結果生じた貧富の格差などの社会問題に対処するために「共同富裕」を前面に打ち出し、さらに11月に発表した「第3の歴史決議」では、中国流の共産主義やマルクス・レーニン主義を強調するなど、イデオロギー的な色彩を強めている。

2013年、習近平政権が大学教師らに対し、学生と議論してはならない7項目を伝えたことが広く報じられたことがある(「七不講」と言われた)。
それは普遍的価値や報道の自由、市民の権利、党の歴史の誤りなどだった。
過去にこのような指示をしておきながら、あえて民主主義キャンペーンを開始した背景には、共産党一党支配の継続と自らの権力維持のために「民主主義」が利用できるという判断があるのだろうか。
それともウイグルの人権問題などで高まる西側諸国からの批判への対抗措置なのか。引き続き注意深く見ていく必要がありそうだ。

ドゥテルテ大統領などが一方的に放言
そして中国との緊張を強めているアメリカのバイデン大統領も「民主主義」に力を入れている。
大統領就任当初から打ち上げていた「民主主義サミット」が12月に開催されたが、予想通り内外からの評判は芳しくなかった(12月1日のコラム「アメリカ主催の民主主義サミットが不評な理由」参照)。
サミットは共同声明のようなものはなく、結局、オンラインを使っての各国首脳らの一方的な発言に終わった。

政府批判を繰り返すメディアの弾圧など強権的な姿勢で知られるフィリピンのドゥテルテ大統領が「フィリピンは報道の自由、表現の自由が完全に享受されている」と発言するなど、独裁的な指導者がサミットに招かれ発言することで自らを正統化する場になるというお粗末な結果も生じた。
たまたまだろうがドゥテルテ大統領の弾圧に抵抗し続け今年のノーベル平和賞を受賞したネットメディア「ラップラー」のマリア・レッサ氏の授賞式が、このサミット期間中に行われており、「真実が伝わらなければ民主主義など存在しない」とスピーチしたのは、皮肉なことだった。

バイデン大統領は最後に、中国の顔認証システムなどを意識した監視技術の輸出管理を強化するための「輸出管理・人権イニシアティブ」の発足などを打ち出したが、このイニシアティブへの参加はアメリカを含めわずか4カ国にとどまり、アメリカの求心力や説得力が弱まっていることを示す結果に終わってしまった。
アメリカ国内では、トランプ大統領時代の1月に起きた議会襲撃事件の真相がいまだに解決されないままだ。
さらに共和党知事が率いるテキサス州など共和党が議会多数を占める多くの州では、民主党支持層が投票しにくくなるよう選挙法改正が相次いでいる。
議会や選挙という民主主義システムの根幹をなす制度が、民主党と共和党の対立によって徹底的に破壊されつつある。
そんな国を民主主義のリーダーだとみなすことはできない。

定義も行動も勝手なもの
アメリカと中国が同じタイミングで「民主主義」を政治的に標榜しているのは誠に奇妙な状況だ。
まるで「民主主義」という言葉が神棚に祭られている神様のように、あがめたてられている。
しかし、それが何を意味しているかは不明であり、それぞれが勝手に定義している。
しかも実際にやっていることは民主主義とはかけ離れているのだがお構いなしだ。
そういう意味では「民主主義」という言葉はまことに便利なものだ。

バイデン大統領、習近平主席、ともに経済や安全保障政策など内政や外交で困難に直面し、国民の支持をつなぐことに汲々としている。
国際社会での陣取り合戦も熾烈を極めている。
この状況を少しでも有利に展開するために「民主主義」という便利な言葉を持ち出したのだろう。

民主主義という言葉を都合よく振りかざしながらアメリカと中国の二大国が理念なき理念の争いを繰り広げている状況の先にはどんな国際秩序が待ち構えているのか、不安が募る。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 | Comment(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする