2022年01月07日

日本人が「バカげた迷信」を頭から信じてしまう謎

小だぬきのとまどい
クリニックに通院するたびに 入り口で体温、手の消毒 これには慣れましたが、なじめないままでいるのが 受付で聞かれる「風邪の症状はありませんか?」の問い。
考えずに「ありません」と答えているのですが・・・。
風邪なら優先的に診療しますでないことは確かなようです。
風邪症状ならコロナ検査をして陰性なら「診療します」ということでしょうね。
ほとんど全員といってもいいほど「ありません」と答えています。それなのに待合室で 鼻をかむ人や咳をする人がいるのです。「本音とたてまえの乖離」「問いの儀式化」、感染対策として 正直に申告するものだと考えているのなら違うと思う小だぬきです。
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日本人が「バカげた迷信」を頭から信じてしまう謎
「煙をありがたがる」のは信仰との深い関係からか
2022/01/05 東洋経済オンライン
今野 圓輔 : 民俗学者

科学がどれほど進歩しても、人間の精神性は簡単には変わらない。
かつて折口信夫に師事し、柳田國男に薫陶を受けた、今野圓輔という民俗学者がいた。
今野は、民俗学の中でも俗信と呼ばれる分野(怪談、迷信、幽霊、妖怪など)に強い関心を持っていた。
そんな今野が、民俗学の立場から俗信を収集し、解説した『日本迷信集』(1965年刊)が、56年の時を経て、初めて文庫化された。
未だに全く古びることのない迷信の数々に驚きを覚えるが、その中でもとっておきの俗信をお届けする。

「おありがたい」さまざまな煙
このごろの都会のスモッグなどは、ありがたいどころか、市民生活にとってはどうにもならない公害で、限度以上にひとところに集まりすぎた悪影響のひとつである。

しかしわれわれにとって、こういう近代生活がはき出す有害な煙のほかに、日本人を、直接に幸福にしてくれると信じられている、いわば「おありがたい」さまざまな煙も存在する。

東京の例をあげてみよう。
巣鴨の「とげぬき地蔵」や浅草の観音さまの前には、線香立ての大きな香炉が据えてある。必ずしも熱心な信者ばかりにはかぎらず、多くの参詣者や、見物人や、ただの通りがかりの人たちが、この香炉から立ちのぼる煙の上に手をかざしたり、煙をすくいとるような仕草をしながら煙の恩恵に浴している。
思い思いに頭や胸や腰など撫でている光景は、いまも変わることなく繰り返されているにちがいない。
この煙を手に受けて、体の悪いところや、弱い部分につけると、病気がなおったり、もっと良くなったりするといわれている。
頭につけると頭痛病みがなおったり、利口になる。

立ちどまって観察していると、中年の婦人だったら、肩や腕を撫でる人が多く、老人たちは、どうしても腰や足を撫でまわしている人が多いようである。
子どもを抱いた若いおかあさんたちは、ハンカチを煙にかざしてから、そのハンカチで、わが子の頭をすっぽり包んでやったりもしている。
自分が供えた線香の煙も含まれているだろうが、煙の大部分は、他人があげた線香の煙にちがいない。
病気の療法からいえば、「煙療法」とでもいうべきだろう。
それなら、買ってきた線香を、勝手に自分の家で煙らせて、その煙で、頭を撫でたって、優秀な成績がとれそうなものである。
煙に効果があるのだというなら、なにも仏様用の線香でなくても、あるいは蚊取線香の煙でも、焚き火の煙でも、紙くずやゴミを燃やした煙でも、効果はありそうなものだが、そんなことは誰もしない。
理屈ではなくて信仰だからである。

そんなことで病気がなおったり、学校の成績がオールAになるといったら、百人が百人とも「迷信かぶれだ」と、非難するにちがいない。
つまり人気のある観音様や、地蔵様の境内にあって、みんなの熱心な祈りのこもっている煙だからこそ、病気がなおったり、苦しみも楽になったりする効果があるのだ、という解釈になるのだろうと思う。
このような信仰上の、聖なる煙でないとしたならば、それこそ大都会の、スモッグの成因である工場や、暖房から出る煙とちっともちがわないことになる。

だから、この例で考えてみると、観世音菩薩や地蔵菩薩の、ほんとうに熱心な信者たちが、御仏のありがたい恩寵なり加護を期待して、香炉の煙に手をかざすということなら、それは迷信というべきではあるまい。 われわれは昔から神秘的な煙の効果を信じてきた しかし、そうでなくて、ただ、あの観音様や地蔵様の境内にある香炉の煙は、病気に効くそうだからというので、誰でも、その煙を利用しさえすれば、ききめがあると信じて、出かけて行ったとしても、いくら慈悲深い仏様だって、そんな奴の面倒まではみきれまいから、まず効果はないにちがいない。

いったいわれわれ日本人は、こんな煙のほかにも、昔からさまざまな、神秘的な煙の効果を信じてきた歴史を持っている。
すこし違った方面の煙の例を考えてみよう。
たとえば、これは一種の文芸作品だろうが、落語の「反魂香」では、その線香をたくと、きまって煙の内から幽霊が現われる筋になっている。
また若い人たちにとっては身近な、しかも考えてみると気味の悪いような煙もある。
受験生が利用するという火葬場の煙である。
いつごろからこんなことをいい出したものか、今でもさかんなマジナイなのかどうかまでは、わからないが、たぶん入学難がひどくなってからのことにちがいない。
火葬場の煙がかかる家に下宿して受験勉強すると、めざす試験に合格するという縁起かつぎの迷信は、東京でもかなり知られているらしい。
ともかく、見も知らぬ学生が「お宅では貸してくださるような部屋はありませんか」と突然訪ねてくるという。
「私んとこでは下宿人を置いたり貸室の広告など出してませんが、どうして?」ときくと「いや火葬場の煙が風向きによっては、お宅の方にも流れてくるようですから。私の家も東京なのですが……」というような具合らしい。

死んだ人を焼く煙を浴びると、死線を越える力が身につくのだという解釈なのだそうだ。
祖先たちも神聖な煙の効果を期待してきた 葬式のときの、さまざまな、やかましいしきたりを考え合わせると、ふつうならば、何とかして死の穢れに触れまいとしていた昔風な暮し方からは、想像もできないような種類の迷信ともいえよう。
いうなれば積極的に死の穢れを身につけることによって、自分の体を一度、死者と同列に置いたあげくに、その死を超越し、克服する。そうして別な新しい自分に生まれ変わる。そうして強烈な力を身につけて試験を突破しようという覚悟だとでも解釈すれば、そんな悲愴な決心には心うたれるようなものである。

昔からやってきた年中行事や祭のなかでも、火を燃やす行事や神事が少なくない。
そういうのを眺めると、そこにも神聖な煙の効果を期待してきた祖先たちの生活の歴史の一端をうかがうことができる。
たとえば、小正月とよばれる1月15日に行われる左義長・トンド行事などの火または煙がある。
この火であぶり、煙にいぶされた餅や団子を食うと、その年中は馬鹿にならないとか、風邪をひかないとか、病気にならないなどというのは、ほとんど全国的な習俗である。

こうして例をあげてみると、煙だけの効果というよりは、神仏に関係ある神聖な呪力の効果を昔から信じていたので、煙というのは、あるいは、その効果の延長なのかもしれない。
線香が非常に貴重な品物だった時代も長く続き、火に対する強い信仰が何千年も続いた事実なども合わせ考えないと、こうした民間信仰の正しい説明はむつかしい。

ともかく迷信くさいとよばれるものには、信仰と関係の深いものが多いのである。
こんな話をして、読者を煙にまくつもりなどは初めっからないのだが、ともかく、すっかり生活様式の近代化された大都会の読者たちには、もうほとんど理解しにくくなった昔風のさまざまな暮し方が、少なからずナンセンスな、馬鹿げた迷信らしく感じられてくることは、他の多くの例話で、だんだんにわかってくることと思う。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする