自虐笑いや土下座すらネタにできない空気の正体
弱者が弱者として語ったり、演じたりもNGとなる
2022/03/10 東洋経済オンライン
坂口 孝則 : 調達・購買業務コンサルタント、講演家
かつてのNGコンテンツ
案件 読売新聞はかつて「美女と醜女とは犯罪に縁が深い」とする記事を載せたことがある。
美女とは多数の男女が見目麗しいと感じる人、醜女とは……この説明自体がもはや難しい。
美女と醜女とも、それぞれの理由によって男性から犯罪に巻き込まれるとする内容だ。
といっても記事の発表は1934年。
現在、外見との因果や相関を大手メディアが述べるのはご法度だろうが、先の大戦の前には、この表現も認められていたということなのだろうか。
ところで現在、ある有名な企業がある。
ここの販売会社の部長を経験した男性の本がある。
書籍中の節タイトルに驚愕する。
「ついに掴んだ恍惚の大処女集団」とある。
この男性はある製品(Aとしよう)を販売する仕事をしていたのだが、女性の独身寮をたまたま見つけて、売り込みの機会を得ることになる。
<さて皆さん、あなた方はいずれはお嫁に行く。そして必ずAを使う必要ができてくる(中略)何せこの寮には無慮三千人という大処女群がある。
その何割でも攻略したら、こいつはすごい成績だと、思わず生唾を飲み込む思いであったからだ>。
きっとこれは現代なら大炎上する記述だろうが、私の有している本の奥付によると45版(45刷ではなく45版なので相当な売れ行きだ)で1980年代後半までベストセラーを続けていた。
おそらく、この記述も現在では許されないばかりか、きっと不買運動まで引き起こすに違いない。
さすがに、さきほどあげたコンテンツは現在から見たら完全にNGとなるだろう。そもそも校正段階で許されない可能性が高い。
ところで、弱者ならば発言しても許される時代が続いていたように思う。
つまり差別されている側が、自虐ネタを語るなら大丈夫だったように感じる。
「モテない自慢」も笑いとなりえた。
ただ、弱者であっても自らを自虐的に語ることはできなくなるだろう。
自らを弱者と思っていても弱者に対する軽口は社会的に受け入れられない。
これまでは弱者とは正義のことだった。
しかし弱者であっても弱者自身を自虐するのは許されないようになってきている。
象徴的なのは、土下座だ。
本来、土下座とは高い身分の人物に大いなる敬意を示すためのものだった。
その後、謝罪やお願いを意味するために土下座されるようになった。
つまり土下座する側は弱者となる。
土下座の扱いですら難しくなっている
そしてドラマ『半沢直樹』がそうだったように、土下座は屈辱の意味で使われる。
またビジネスのシーンで土下座を見る機会はなくなった。
私は一度だけ「どうぞこの取引を実現させてください」とお願いする場面に立ち会ったことがある。
それに企業の謝罪会見で土下座を見せるニュースも見た。
しかし、現在はおそらく実際に土下座を見る機会はほとんどない。
また相手に土下座を要求する人もほとんどいないのではないだろうか。
企業の謝罪会見で土下座させてしまうと、見ている側は「土下座させてしまった」側として心穏やかではいられない。
ところで土下座は弱者といったが、日本のメディア、とくにお笑い番組で演者が、意図的に土下座する場合がある。
しかし、そのような弱者のフリをする行為も許されなくなっている。
たとえば年始のお笑い番組で、芸能人のスポーツチームが負け、相手チームに再挑戦をお願いするシーンがあった。
敗北者=弱者、とあえて構図を単純化する。
これまでなら延長戦を土下座して懇願していた。
しかし、今年からは土下座はなし。コンプライアンスを重視した結果だった。
弱者が土下座をすることも、それは相手からのパワハラとして認められないわけだ。
敗北者=弱者の自発的な土下座であっても、弱者にそういうことをさせるのは許されないのだ。
少し話題がずれるかもしれないが、たとえば<「ローマは1日にして成らず」という。
しかし、ローマは雇う人種を間違ったね。日本人ならばすぐ建設できたよ>というジョークがあったとする(これは正確には「日本人」ではなく「メキシコ人」というジョークがある)。
ただ、これは発言者が日本人であってもジョークとして述べるのであれば、現在ではギリギリ、そして近い将来は完全に許されないだろう。
日本とアメリカ、コメディアンの差
ところで、読者の皆さんの中にはNetflixのような海外の動画配信サービスに加入している方は少なからずいるだろう。Netflixのお笑いはスタンダップコメディが多い。
スタンダップコメディとは、いわゆるコメディアンが1人でステージに上がり、そして独り語りで笑いを取るものだ。
実際、私はジミー・カーなどのスタンダップコメディで爆笑した。
日本でのお笑いは漫才形式が大半だ。
これはボケとツッコミにわかれている。
説明するのも野暮だが、冗談を言う側と、それを静止する側に分かれ、そのツッコミによって会場には笑いが生まれる。
なぜ日本でボケとツッコミに分かれているかというと、それは日本人特有の同調圧力にあるものだと考えている。
つまり、ツッコミ側が「笑っていいよ」と聴衆に笑いの許可を与えているように思うのだ。
欧米などでは、聴衆が自分の判断で笑える。
しかし、日本では場の雰囲気が必要だ。
と思えば、ボケとツッコミが分かれているのは、日本人的にすぐれた笑いシステムではないか。
ただ、そんなことを考えていると、日本人でアメリカのスタンダップコメディアンとして活躍しているSaku Yanagawaさんは、さらに新たな観点を付け加えてくれた。
彼は、欧米でツッコミによる笑いを作るのが受け入れられない理由は、聴衆へ笑いの価値観を強制しているからだという。
この彗眼には驚いた。
どこを笑うかどうかも、漂白化される社会においては強制されてはいけないのだ。
<これほどまでに「ダイバーシティ」と言われている中で、ツッコミという「観客全員と視点を同じにする人物」という構図が成り立ち得るのかということだ。
本来ならば「視点は人それぞれでいい」と叫ばれているはずの今、ツッコミが正した内容を、別におかしく感じていない観客だっていてもいい。>(『Get Up Stand Up!たたかうために立ち上がれ!』Saku Yanagawa)
これはきわめて重要な指摘だと私は思う。
これまで会場の一体感を醸成し、笑いを作り上げるのがコメディアンの力量だった。
現在でもアメリカのコメディアンは場を支配するよう努めている。
ただ、笑いのトリガーは、演者たちが完全に規定できるわけではない。
なお公正に付け加えておけば、Saku Yanagawaさんは単純にツッコミの役割を軽視しているわけではない。
むしろ演者がジョークを語る内容として、いかにギリギリを狙っていくかを試行錯誤している。
コンテンツの漂白化にあたって ここまでいくつかの例をあげてコンテンツの漂白化について述べた。
コンテンツはつねに現代の価値観にアップデートされなければならない。
同時に、弱者が弱者として語ったり、演じたりすること自体に再検討を促す。
多くの企業は多様化(ダイバーシティ)を語っている。
企業は、その意味を、男女平等とか国籍を問わないとか、学歴や出身地を問わないとか、宗教とか価値観もバラバラでいいはずだ、といった基準として認識している。
しかし、アメリカのスタンダップコメディと、日本のお笑いを比較したように、もっとも根源的な感情の発露にさえ多様化(ダイバーシティ)が求められている。
笑う行為だけではない。
速い車、痩せている体型、豊かな生活、快適な住空間……。
それらを是とするのも1つの価値観の押し付けにすぎないかもしれない。
少なくとも、消費者にとっては、その可能性がある。
私は、この漂白化する社会を嘆いているわけではない。
嘆いてもおそらくこの潮流は変わりそうにない。
それならば、善悪を超えて、これらに追随する必要がある。
コンテンツの漂白化――これらは企業の価値観に根源的なフラット化を求めている。