2022年05月01日

岸田首相が突き進む「自公国路線」落とし穴…蠢く参院選“大惨敗”シナリオ

岸田首相が突き進む「自公国路線」落とし穴…
蠢く参院選“大惨敗”シナリオ
2022年05月01日 週刊実話Web

ロシアによるウクライナ侵攻が激化する中、岸田文雄首相はひたすら「自公国路線」に突き進んでいる。
夏の参院選に勝利し、名実ともに本格政権になるためだ。
しかし、原油高や円安、経済の失速など懸案事項は多く、油断すると足元をすくわれることになる!

「参院選は大変重要な選挙になる。政治の安定のために、ぜひとも協力と力添えをお願いしたい」
岸田首相は4月16日、自民党山形県連の政経セミナーに、わざわざオンラインであいさつを寄せて訴えた。
山形市内の会場で聞いていた地元選出の遠藤利明選挙対策委員長も、深々と頭を下げた。

首相が「政治の安定」と強調したのには訳がある。
日に日に深刻さを増すロシアのウクライナ侵攻や、収束が見えない新型コロナウイルス感染といった重大案件に、迅速かつ的確に対応するには、まさに政治の安定が必要となる。
首相はそのために、野党である国民民主党(以下、国民)の協力を確かなものにしようと、参院選で山形には公認候補を立てず、同党の現職、舟山康江氏に議席を譲る方針を固め、反発を強める県連に理解と協力を求めたのだ。

遠藤氏は谷垣グループの代表世話人でもあるが、岸田首相が会長を務める岸田派と同じ宏池会を源流としており、遠藤氏はいまや首相の側近の一人だ。
首相は2日前の14日、遠藤氏を官邸に呼び寄せ「選対委員長の立場で、お膝元の山形なのに、大変申し訳ない」と詫びた。
遠藤氏は「ボコボコにされてきますから」と、逆に首相を気遣った。

自民党から国民の玉木雄一郎代表にアプローチを仕掛けたのは、麻生太郎副総裁だった。
麻生氏に近い自民党関係者によると、今年に入って東京都内で玉木氏と密かに会い、同氏が訴えるガソリン高対策のための「トリガー条項」凍結解除の検討や、今回の山形選挙区の件を持ち掛けたという。
国民は昨年12月、衆院憲法審査会の与党協議に、日本維新の会とともに出席。
国会を常時開催し、憲法論議を促進していく方針で一致するなど、「与党接近」への素地はあった。
麻生氏によるアプローチは「効果てきめん」(先の関係者)で、会談後には岸田政権への接近に拍車が掛かり、トリガー条項を巡る自民、公明、国民の3党協議を開始。
国民は野党でありながら、2022年度予算案に賛成する異例の対応に踏み切った。

当初、トリガー条項の凍結解除に、公明党は難色を示していた。
だが、公明党が参院選で議席維持に全力を挙げる兵庫選挙区を巡り、公明党の支持母体と国民を支持する民間労組が「選挙協力」の密約を締結。公明党の現職候補を支援することで手を握ったという。
公明党が凍結解除で足並みをそろえたのは、この直後からだ。

「国民民主党はもはや与党」 この情勢に立憲民主党と共産党は「国民民主党はもはや与党」として、野党共闘の枠組みから事実上排除した。
だが、それでも首相を支える岸田派幹部は「国民にはもう2回、踏み絵を踏んでもらう」と話す。
「22年度補正予算案に賛成することが1つ、もう1つは内閣不信任決議案を与党とともに否決してほしい」というのだ。
前出の岸田派幹部は皮算用する。
「そこまで国民がやってくれれば、かつて民間労組が支援した旧民社党との『自公民路線』の復活と言っていい。
参院選後は3党連立もあり得る」

この路線は「岸田首相の方針」であり、すでに閣僚ポストの話も内々に進んでいるという。
首相が、国民の取り込みに力を入れるのはなぜなのか。
7月の参院選で勝利を確実にするため、勝敗の行方に直結する32ある1人区での野党共闘に、くさびを打ち込みたいとの思惑があるのは間違いない。
参院選1人区は、過去2回の選挙で自民党はいずれも20勝以上しているものの、共闘の成果もあり10選挙区で野党に負けている。
しかし、今回の選挙で、取られる選挙区を5程度に抑えることができれば、定数124議席(非改選を合わせ248議席)のうち、自民党単独で60議席は獲得できるとの計算も成り立つ。
公明党がこれまでと同様に14議席を取れれば、自公で74議席、非改選を合わせれば140議席以上となり、過半数の125議席を大きく超えることになる。

狙いは共闘分断だけではない。
首相にしてみれば、ギクシャクしがちな公明党との関係もやっかいだった。
そりの合わない山口那津男代表は今夏に70歳を迎えるため、参院選後に石井啓一幹事長と交代するとの見方が出ている。
とはいえ国民との関係が強まれば、公明党へのけん制にもなる。
首相は、公明党が4月に入り、今国会中に22年度補正予算案をまとめるよう要求を強めていることに対し、周囲に「また創価学会に言われているのか」と不快感を示しているという。

だが、国民を取り込む最大の理由は別にある。
国民を支持する連合傘下の民間労組のうち、自動車総連やUAゼンセン、電機連合、電力総連といった、公称で20万〜180万人もの構成員がいる大規模労組を引き込むために他ならない。
国民と3党連立を組んだとしても、議席数は衆院で11、参院は今回が前回並みの5議席なら計10議席。連立に加わらない議員も出るとみられるので、それほど大きな勢力にはならない。
しかし、旧同盟系を中心とする民間労組の支援が得られれば、もともと安全保障を含めて政策も近く、政権の安定感は計り知れないものになる。

小池百合子都知事との連携も可能
さらに、国民が東京選挙区で共闘する地域政党「都民ファーストの会」が、参院選後に国民と合流すれば、小池百合子都知事との連携も可能だ 「安倍・菅政権では、安倍晋三元首相と菅義偉前首相との人間関係で、野党の日本維新の会が政権運営に協力していた。
岸田首相も独自の『自公国』の枠組みをつくれれば、どこにも気兼ねすることなく政権運営の自由度を高められる」(前出・岸田派幹部)
しかも、大規模労組と小池都知事も味方に付くなら、まさに「鬼に金棒」状態である。

もちろん岸田首相は、自民党最大派閥の安倍派を率いる安倍氏を、敵に回すようなことはしない。
ウクライナ情勢への対応は政権の最重要課題であり、米国との太いパイプを維持し、外交・安全保障政策に強い影響力を持つ安倍氏との連携は、今後も不可欠だ。
首相は4月10日夜、都内ホテルのステーキ店で安倍氏と会談した。安倍氏に近い関係者によると、首相は引き続きロシアへの対応と、安保政策での助言を要請。
参院選後に内閣改造を行うと耳打ちし、岸信夫防衛相を交代させるとして「後任は安倍派から出してほしい」と伝えた。

内政において自公国路線が確立すれば、首相は中間層育成に重点を置く「新しい資本主義」や、活力を失った地方の発展を図る「デジタル田園都市国家構想」など、自身の経済政策を押し進める考えだという。
これは「アベノミクスの転換」を意味しており、来年春に任期を迎える日本銀行の黒田東彦総裁の交代が視野に入る。

首相は「異次元緩和」の「出口」を探っているとみられ、「早ければ秋にも日銀プロパーと交代する」との観測もある。
さらに、首相が参院選後の実施をにらむのは、東京電力福島第一原発の敷地内に保管する大量の処理水の海洋放出だ。
ウクライナ侵攻を受けた原油高とエネルギー需要のひっ迫で、原発再稼働も急務となっている。
中でも喫緊の課題は、世界最大級の出力を誇る東電柏崎刈羽原発(新潟県)の再稼働に道筋をつけることだ。
ここに電力総連を引き込む狙いがある。

政権幹部は「労組も一丸となって国民世論に訴えれば、処理水放出と柏刈再稼働も実現できる」と期待を込める。
国民は参院選の比例代表で「500万票」獲得を目標とする。
組織内候補4人の議席確保を目指すためだが、永田町では「2〜3議席がせいぜい」との声が大半で、構成員が相対的に少ない、電力総連の新人候補が落選する可能性が出てくる。
そこで自民党内では、今回の候補が東電出身でもあることから、「自民党から50万票ほど電力に流すことも検討されている」(党選対関係者)という。

岸田首相の野望がどんどん大きくなっている… 宏池会のベテラン議員は話す。
「岸田首相の野望がどんどん大きくなっている。
関係改善のため中韓歴訪に行きたがっているし、来年のG7サミットは地元・広島での開催を望んでいる。
24年秋の自民党総裁選で再選し、25年は夏に衆参同日選を仕掛けたい。
憲法改正の国民投票と、トリプル選挙になるかもしれない」

内閣支持率は高く、政権発足当初は誰も予想しなかった順風満帆ぶりだが、本当にこの先、岸田首相が描くようなシナリオで政権運営が進むのだろうか。
首相が描く青写真の前提は、自公国路線が完成することだが、国民が想定以上に失速し、3議席程度しか取れずに惨敗する可能性は否定できない。
そうなれば玉木氏の責任が問われるのは必至で、自公国路線は白紙になりかねない。
報道各社の世論調査でも、国民の支持率は1%台に低迷したままだ。
失速分を自民党がカバーできればいいが、実のところ不安要素は少なくない。

コロナ感染者数はいまだに全国で5万人を超える日があるなど、収束が見通せない。
感染者数と内閣支持率は相関関係にあると言われ、より感染力の強い変異株が出現すれば、感染拡大「第7波」の最中に参院選を迎えることになる。
さらに懸念されるのは経済だ。
原油高と円安が止まらず、賃金が上がらないまま物価だけが上昇する「悪いインフレ」に陥れば、立ち直りかけた経済が息切れし、生活不安は増大する。
安全保障への不安も尽きない。ロシアが日本への軍事的圧力をさらに強めてきた場合、岸田政権はどう対処するのか。
中国や北朝鮮の脅威にもさらされており、対応を誤れば選挙を前に痛恨の失点となりかねない。

先の選対関係者は、これらの懸念材料が参院選に集中したら、「自民党は50議席を割り込んで惨敗する事態もある」と話す。 首相の求心力が低下すれば、安倍氏の発言力が増すのは確実だ。
岸田政権が継続したとしても、これまで以上に安倍氏に配慮せざるを得なくなる。
菅氏は党内無派閥グループを束ねつつ、「河野太郎党広報本部長と小泉進次郎前環境相の二枚看板を手元に、今はじっと政局をうかがっている」(菅氏に近い無派閥議員)ようだ。

選対関係者によると、首相サイドは二階俊博元幹事長に対し、今国会中の「電撃引退」を促しているという。
参院選の特例として衆院補選も同時に行えるため、「二階氏の和歌山3区への出馬を狙う世耕弘成党参院幹事長を出し抜き、息子に地盤を譲ることができる」からだが、二階氏は政局をにらんでか首を縦に振らないという。

参院選が岸田首相にとっての「天王山」になるのは明白だ。
勝てば長期政権が視野に入る。
しかし、負ければ、すべては「絵に描いた餅」に終わることになる。まさに正念場だ。
posted by 小だぬき at 12:34 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「愛国心やナショナリズムは危険だ」という大誤解

「愛国心やナショナリズムは危険だ」という大誤解
ウクライナ問題で露呈、「大人の道徳」なき日本
2022/04/30  東洋経済オンライン
古川 雄嗣 : 教育学者、北海道教育大学旭川校准教授 /
大場 一央 : 中国思想・日本思想研究者、早稲田大学非常勤講師 

ロシアによるウクライナ侵攻に伴う混迷は、深まる一方だ。
グローバル化が進んでいたはずの世界はかつての冷戦期さながらに色分けされ、互いの「不正義」を糾弾し合う。
そのような中、欧米諸国と歩調を合わせるばかりの日本の対処方針は、過去の有事で繰り返された泥縄そのもので、戦後70年を超えても、国家として主体性を持つ「大人」になり切れていないのではないか。
こうした現状を打破するには、どのような思考が必要か――。
『大人の道徳: 西洋近代思想を問い直す』著者の古川雄嗣氏と、中国思想・日本思想研究者の大場一央氏がオンラインで対談した。
両氏の熱い議論の第1回(全2回)をお届けする。

帝国主義 vs ナショナリズム
古川
今回のウクライナ戦争に関する報道をみていて、私は主に2つのことを感じています。
1つは、あえてナイーヴな言い方をしますが、祖国防衛のために戦うウクライナ市民の勇敢さに感じ入ったところがあります。もちろん、その裏にはロシア軍による「虐殺」として報じられている悲惨な状況もありますが、それについてはあとで触れます。
ともかくも、ロシアの侵攻に対して丸腰の市民でさえ立ち向かおうとする姿には、先に出版した『大人の道徳―西洋近代思想を問い直す』でも強調した、いわゆる共和主義的精神の発露をみるような思いがしています。
ここでいう共和主義というのは、「公の事柄(レス・プブリカ)」に対する市民の積極的な参加を重視する考え方で、そこには「共和国(リパブリック)」の自由と独立を守るために、市民は時として武器をとって戦わなければならない、ということも含まれます。
これは戦後の日本にもっとも欠けている考え方だと思います。

あともう1つは、今回の戦争は、おおまかにいえば帝国主義とナショナリズムの戦いであるということです。
ナショナリズムをどうとらえるかということも、日本人は問い直されていると思います。

大場
『大人の道徳』で提示された議論に引き付ければ、この問題は異なる歴史意識・世界観の戦いと言えるでしょう。
中国思想史で「帝国」を定義する場合、民族や地域共同体などで培われた、固有の感覚や常識を超越するイデオロギーを提示し、それを破壊する存在、と考えられます。
そうした意味で、帝国は地域に根ざすナショナリズムと対立関係になりますね。
それをロシアに当てはめれば、ウクライナだけでなく、ソ連時代のフィンランドやポーランド、アフガニスタンへの侵攻など、「共産主義」「スラブ」「ロシア」などの観念を覆い被せて、固有の価値観を破壊、吸収しようと振る舞う帝国としての性格を持つことは明らかです。

古川
日本の学者や知識人のなかには、愛国心やナショナリズムは危険だ、悪だと思い込んでいる人が、いまだに多いようですね。そんなイデオロギーはとっくに前世紀で終わったものと思っていたのですが、どうもそうでもないようです。
最近も、私の学生が論文のなかで「自由で民主的な社会を作るには一定のナショナリズムが必要だ」という、ごく平凡な主張をしただけで、審査委員の教授からやたら感情的な批判を浴びて、話になりませんでした。
「ナショナリズム」という言葉を聞くだけで、反射的に拒絶反応を起こす人が、まだ一定数いるんですね。
そういう人たちは、ロシアに抵抗して戦っているウクライナ人のことも、「危険なナショナリスト」だといって糾弾するのかと問いたいです。

ワイドショーをにぎわした「奴隷」たち
古川
それにも関連しますが、日本のワイドショーやメディアでは一部のコメンテーターが「ウクライナ政府は早々に降伏すべきだ」と主張して炎上騒ぎになっていたようですね。
彼らがいうには、「国家の戦争で市民が犠牲になるべきではない」と。
たしかに、最近の悲惨な虐殺の報道をみていると、そういいたくなる気持ちもわからないではありません。

けれども、考えるべきなのは、そもそも近代国家において「国家の戦争」と「市民の犠牲」を分けて考えることができるのかということです。
近代国家の基本的な論理は、国家の主体(主権者)は市民であるということです。
だから当然、国家の戦争はただちに市民の戦争でもあります。
「戦争は政治家や軍隊だけがやればよい。市民は関係ない」というのは「戦争は王や王の軍隊だけがやればよい。庶民は関係ない」という中世国家の論理です。
「政治の主体は市民だが、戦争の主体は市民ではない」などといった論理は成り立ちません。
市民の主体性を否定するなら、それは民主主義の否定ですよ。

大場
国家や社会の運営に主体的に参加せず、自身の身体的快楽を満たすために、経済的利潤を追求してばかりの人々と言えるでしょうか。
『大人の道徳』で古川先生が厳しく批判された「奴隷」そのものでしょう。

古川
彼らの主張は、戦後日本の思想界や社会科学を支配してきたイデオロギーを端的に露呈させていると思います。
それは、「国家は市民社会を外部から統治する権力機構であり、したがって国家と市民社会は対立する」という考え方です。 さらにその背景には、「戦前の日本では一部の狂信的な政治家や軍部が始めた誤った戦争に国民が巻き込まれた。国民は国家の犠牲者であり、アメリカがそれを解放したのだ」という、戦後アメリカが喧伝した歴史観があります。

市民が国家に支配される無力な犠牲者でしかないのであれば、いつまでたっても市民は国家の政治的主体として自立することはできません。
戦後日本に民主主義が根づかない、いちばんの原因は、この「アメリカの物語」だと思います。

大場
あのような言説に対し、江戸時代に荻生徂徠や会沢正志斎ら錚々たる儒学者が説いた「武士土着論」を対比させるとはっきりと問題が見えてきます。
いま、産経新聞(大阪本社版夕刊)で『日本の道統』という連載を担当していまして、その中でも触れたのですが、大まかに言えば、この議論は、地域共同体を主力に、足腰の強いナショナリズムを構想しようとした際、理論的なバックボーンとして機能していたものです。
天皇に対する忠誠心をかきたてて、一気に「日本」という中央集権国家を志向する観念的なナショナリズムとは対照的な発想です。
同じ「愛国心」といっても、両者の想定するものの間には深い断絶がありますね。

今回の件であれば、ウクライナの人々からは、土地に対する愛着を基盤としたナショナリズムの影を見ることも不可能ではありません。
しかし、あの類のコメンテーターからは、たとえ彼らが「愛国心」を打ち出したとしても、抽象的な「日本」といったイメージに対する愛着は認められても、一人一人の生活や、思い出を投影した具体的国土への思いはなかなか見えてきませんね。
だから平気で降伏しろなんて言えるのでしょう。

しかし、ロシアは歴史的に土地を奪ったら絶対に返さない国です。
故郷を失うということは、自分自身のアイデンティティを失うことを意味します。
ゼレンスキー大統領も英誌『エコノミスト』のインタビューで「ここがわれわれの家であり、土地である」と抵抗への強い決意を述べていますね。
こうしたことがわかっていないのではないでしょうか。

ナショナリズムの再評価
古川
帝国主義とナショナリズムという観点についていうと、そもそもこの両者が混同されているという思想状況があると思います。
たしかに連続する面もあって複雑ですが、原理的には、帝国主義はナショナリズムを破壊するものであり、両者は本来、対立するものです。
わかりやすい例でいうと、日本の左翼は総じて、戦前の日本の帝国主義とナショナリズムを、もろともに批判しますね。
ところが彼らは、朝鮮の三一独立運動など、植民地側の民族主義運動は肯定的に評価するわけです。それは要するに、「台湾や朝鮮のナショナリズムはけっこうだが、日本のナショナリズムはダメだ」といっているにすぎない。明らかにダブルスタンダードなんですよ。
彼らは帝国主義に抵抗するナショナリズムを肯定しているわけですから、はっきりと「自分はナショナリストだ」といわなければならないはずですし、日本のナショナリズムだって正当に評価しなければならないはずです。

大場
例えば半島統治時代、ハングルなど文字の体系化に朝鮮総督府が果たした役割は大きいですね。
また、先の大戦も表看板≠ヘすべての民族が西欧化されるのを防いで、固有の文化に立脚して独立することを目的にしました。
世界を見ても、古くはフランスのナポレオンが、すべての民族がそれぞれの国で市民革命を起こして独立し自由になる、としてナショナリズムを輸出≠オ、ベトナム戦争も英米型の資本主義で分断され、均質化された民族の伝統・文化を社会主義によって取り戻すためのものだった、と言えます。

帝国主義とナショナリズムに相互補完的な要素がある点が、理解を複雑にしているでしょう。

古川
多様な文化・伝統を大事にするといっても、それだけなら果てしない分裂しかもたらしません。これがいわゆる多文化主義が陥った状況です。
だから今日の多文化主義者たちは、むしろ国民の共通文化の創出や共通言語の教育を重視するナショナリズムの方向にシフトしてきています。
それをも同化主義だというなら否定はしませんが、それなくして国家は成り立ちません。
ある程度の同化主義的な側面ももちつつ、同時に多様な文化的アイデンティティを保障する、という両面で考えていくしかないと思います。

そうすると、「多様な民族的・文化的な集団が、同じ一つの国を作っている」という意識を、ある程度、人為的に創り出していく必要があります。
そのときに、「歴史」をどう語るか、つまり大場先生がおっしゃった「歴史意識」という問題が、決定的に重要になると思います。

「アイヌは存在しない」という「逆張り保守」
古川
ところで、大場先生は札幌のご出身で、私も大学の教員として旭川に7年ぐらい住んでいます。
北海道に縁がある2人としては、歴史意識を論じるうえで、アイヌの問題は避けられないですね。
最近、一部の「保守」と称する人たちが「アイヌは存在しない」などと主張しているそうで、困ったものだと思っているのですが、大場先生はどのようにみておられますか。

大場
北海道の地名一つとってもアイヌ抜きに考えることは無理ですからね。
確かに松前藩などにいた「内地人」と狩猟民族であるアイヌは生活文化や価値観が大きく違ったでしょう。
しかし、幕末の探検家、松浦武四郎の著書『アイヌ人物誌』では、日露雑居の樺太にいるある民族が「私たちは皇国の民だから、日本に帰属したい」などと訴えたエピソードを記すなど、同じ日本人であるという理解をしながら生きようとした姿も描かれている。
もちろん、場所請負制のもと奴隷のように扱われたケースもある。
良い話、悪い話両面あって、「北海道」は形作られてきた。
それが日本と北海道を語るうえで欠かせない歴史意識でしょうね。

古川
プーチンはすでに2018年に「アイヌ民族をロシアの先住民族に認定する」という意向を表明していますから、今回のウクライナ侵攻と同じ論理で、「アイヌ民族保護」を名目に北海道に侵攻する可能性も否定できないでしょう。
にもかかわらず、日本がアイヌを排除していたら、ますますその名目に正当性を与えることになってしまいます。
そういう観点からも、まずいと思いますね。

大場
アイヌに限らず、異なる価値観の民族を内に含みながら、日本という国を、確固とした価値観で成立させなければなりません。
異なる価値観を無視すると「日本民族は他民族を抹殺する」と左翼に利用されるだけです。
そのカウンターで例えば「アイヌは左翼で反日だ」などと世界観を逆張りするだけの集団が「保守」を謳っている状況も危うい。
ただ、いわゆる「つくる会」運動以降の主流は、逆張り保守になっているような気がしてなりません。

「歴史学」が「歴史意識」を破壊する
古川
しかし、いまの若い世代と話していると、歴史をどう語るかという問題以前に、そもそも歴史意識そのものというか、自己の存在を歴史においてとらえるという観念そのものが、もう根本的になくなってしまっているような感じがします。
たとえば、私の大学の学生はほとんどが北海道の出身ですが、彼らは自分のルーツも全然知りませんし、当たり前のように「日本は単一民族国家です」というんです。

大場
う〜ん。『わたしたちの札幌』とかで郷土史をやったはずなのに……。

古川
君たちは学校でアイヌのことを教わらなかったのかと聞くと、はじめて「ああ、そういえばそうでしたね」と。もう自分には何の関係もない話になってしまっているんですね。

大場
それは「歴史学」のあり方も影響しているかもしれませんね。
膨大な史料をもとに、通説の「事実」をひっくり返していく学問上の仕事は、確かに刺激的です。
ただ、思想を専門に研究している私としては、「事実はこうだった」と言われたところで、「だから何なの」となってしまう。
むしろ、私が私自身を、そして世界を考える時に、過去はどういう意味を持ち、将来にどのような価値を示してくれるか、ということを期待しています。
例えば、『三国志演義』はしばしば「作り話で、事実でない」などと評されますが、あの作品の主題は、事実の提示ではなく、世界観をどう持つかということでしょう。
司馬遷の『史記』でも色濃く出ていますが、何を善とし、悪とするのか。
そして世界はどう動かすべきかという物語の提示が目的ですね。
「物語」というとフィクション、おとぎ話のように聞こえますが、歴史という素材を加工し、ストーリーを作りながら、思想を表明しています。
全知全能の神でない限り、すべての「真実」を並列して語ることは不可能でしょう。
歴史意識をつむぐ物語は、そうした限界を前提に、世界をどう見るのか、どう生きるのかを示そうとするものだと思いますね。

古川
まったくおっしゃるとおりです。
ナショナリズム研究者のアンソニー・スミスも典型的な例として挙げていますが、たとえばスイスの英雄、ウィリアム・テルの物語を知らないスイス人はいません。
しかし、では彼は本当に息子の頭上のリンゴを射抜いたのかといえば、もちろんそんなのはフィクションに決まっていますし、そもそも歴史学的には彼の実在さえ証明されていません。
しかし、そんなことはどうでもよいわけです。
ウィリアム・テルの物語が重要なのは、それが、不当な支配には断固として抵抗するとか、祖国の自由と独立のためには命懸けで戦うとかといった、スイス人の共和主義的な国民的価値を表現しているからです。
歴史の諸事実を客観的に明らかにすることは、学問としての歴史学の大事な仕事ですが、それとは別に、歴史をいかに語るかという思想的な問題も同時にあります。
歴史学と歴史認識、あるいは歴史教育は、異なる次元の問題なのに、歴史学者の多くが、もっぱら歴史学が語る歴史だけが歴史だと思っているのは大きな問題ですね。

「プロレス」としてのナショナリズム
古川
歴史をどう語るかという問題において重要なのは、「フィクションか、フィクションでないか」ではなくて、「どのようなフィクションを語るか」です。
歴史は物語られる時点ですでに本質的にフィクションなのですから、それをフィクションだといって批判したって何の意味もありません。
これはまさにナショナリズムの問題です。
大場先生と私は同世代ですが、ちょうど我々が学生の頃、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が流行って、日本の知識人はこぞって「ネイションなど想像の産物にすぎない」と、そのフィクション性を批判していましたよね。

大場
鬼の首でも取ったかのようにね。

古川
そうそう(笑)。あれほどバカバカしい言説もなかったと思います。
アンダーソンがいいたかったのは、ネイションは想像力――私は「構想力」といったほうが適切だと思いますが――の産物であるがゆえに、むしろ強いリアリティをもつということです。
最近、ある政治学者と話していておもしろかったのが、ナショナリズムというのは、いわばプロレスみたいなものだ、という話です。
子どもは、リアルに殴り合っていると思ってプロレスに熱狂しますよね。
ところが、少々知恵がついてくると、「あんなのはショーにすぎない」などと小賢しいことをいって、熱狂している子どもをバカにするやつが出てくる。
けれども、大人になると、プロレスがたしかに一種のショー、つまりある意味ではフィクションであることを理解したうえで、しかしそのフィクションを命懸けで真剣に演じるところにこそ、プロレスの本当の魅力があることがわかってくるわけです。
大人はそのへんのことを全部わかってプロレスを楽しんでいるのに、それを「リアルな格闘じゃない」などと批判して、いい気になっているやつこそが、実はいちばん子どもなんですね。

ナショナリズムもまさにそうで、ナショナルな物語を文字どおりの真実として信じ込むのはたしかに子どもですが、それをフィクションにすぎないなどと批判して知的ぶっているのは、もっと子どもです。
フィクションをフィクションと知りつつ、あたかも真実である「かのように」真剣に引き受ける、というのが「大人」の態度ではないでしょうか。
そういう意味で、私の『大人の道徳』の続編は、『大人のナショナリズム』にしようと思っています(笑)。

歴史と思想がもつ「力」
大場
おっしゃるとおりだと思います。「フィクション」というと、嘘だと思って拒否反応を示す人がいるかもしれませんが、そうではない。
たとえば祖父母や父母の話を子に伝える時、立派なエピソードや仕事の話をして、子どもが楽しんだり憧れたりします。
そこで自分もそうした人になりたいと思って向上するものであって、わざわざどうしようもない性格や失態を話しません。
これはある意味「フィクション」ですが、嘘ではない。
「あいつもこいつもただの人間だった」では、「自分がこうなのも仕方ねえや」で進歩がない。
こんなものは文明ではなく、祖先も親もなく、ただ生まれて死んでいく動物と同じです。

やはり人間が文明を作り、進歩するには物語が必要なのです。
そうした意味で今必要なことは、「自由と民主主義を奉じる世界の人々の連帯の表明」といった構図ではなく、われわれ自身の歴史意識に立脚しつつ、ウクライナの問題も同時に語ることができる物語です。
フィンランド、ポーランド等々、ロシアという帝国の圧迫を受け続けてきた国々は数多く、日本も千島列島や樺太での一件を踏まえればその一員です。

今回はたまたまウクライナでしたが、北方領土、北海道への侵攻も、絵空事ではない。
「共同体を破壊してくるロシアという帝国から守るために、国境を接する国々は連帯して抑え込まなければならない」、といった主体的な構図が求められていると感じます。
歴史や思想がリアルポリティクスのうえで意味を持つのは、このような視点を示せるからでしょう。

古川
何しろロシアではプーチン自身が歴史の論文らしきものを書いて物語を作っていますからね。
人文・社会科学、なかでも歴史や思想は、良くも悪くも現実の世界を動かす力をもっているということを、日本の政治家はもっと認識するべきです。
最近は中国も哲学研究や思想研究に相当力を入れているらしいですね。
かたや我が国の政治家は、大学を「稼げる大学」にするのだとか息巻いているようなありさまですから、今後ますます、歴史、哲学、思想などは「稼げない」研究として大学から締め出されていくでしょう。
おっしゃるとおり、国際社会からも蔑まれることになるでしょうね。

  (後編に続く)
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする