芸能人の自死関連報道は絶対に見てはいけない訳
臆測混じりの推察は危険、「相談窓口」誘導への疑問
2022/05/12 東洋経済オンライン
木村 隆志 : コラムニスト、人間関係コンサルタント、テレビ解説者
ダチョウ倶楽部・上島竜兵さんの訃報が伝えられた5月11日の朝以降、テレビの情報番組は大半の時間が割かれ、ネット上のエンタメ記事を埋め尽くすなど、関連ニュースが次々に報じられています。
12日に入っても朝からビートたけしさん、出川哲朗さん、山田邦子さん、松本人志さんらの追悼コメントが次々に報じられているほか、出演番組での姿を振り返り、ギャグなどの芸を紹介し、芸人仲間との絆を採り上げ、著書のコメントをピックアップし、なじみの飲食店スタッフや恩師に話を聞くなど、さまざまな角度からの報道が見られます。
また、自宅へ押しかけるなどの報道姿勢は論外でしたが、それ以外でも、暗に死を選んだ背景を探るような報道が少なくありません。
さらに、俳優・渡辺裕之さんに続く訃報だけに、関連性の有無や連鎖の不安を採り上げるような報道も見られます。
しかし、芸能人の自死にまつわる報道は、見るほどに自分へのリスクが高まる怖いもの。
ショックや悲しさがあっても、できるだけ見ないほうがいいものであり、その理由を2万組超の悩み相談を受けてきたコンサルタントとしての経験、また、メンタルヘルスの取材を続けてきた経験をもとにつづっていきます。
情報がなくても長尺で放送したい
現在、最も目につくのは、「コロナ禍で芸がしづらくなったのでは」「志村けんさんの死去が影響しているのでは」などと死の背景を推察するメディアの多さ。
「それが今回のことと直接結びつくかどうかはわかりません」などの断りを入れつつ、さぞ意味ありげな報じ方をしているのです。
しかし、今それらを急いで推測することで、人々のショックや悲しさを増大させる必然性はどこにもありません。
むしろショックがやわらいだあとに落ち着いた状態で掘り下げていくほうが、故人を偲び、情報の正確性を上げることにつながるでしょう。
ショックを受けた人が多い中、急いで報道を続けるメディアが多いのは、ビジネス的な要素が大きいことを知っておいてほしいのです。
たとえば、今回の上島さんの関連報道でも、ほとんど情報がなかった11日の段階から、リポーターを自宅前に向かわせたり、専門外で親交がないコメンテーターたちに語らせたりなどの内容の薄いシーンが目立ちました。
これは情報番組の制作サイドが、「長尺で扱うほど全体の数字が上がる」「できるだけ長い時間放送しよう」と考えているからにほかなりません。
事実、これまで芸能人の自死に関わるニュースがあったとき、ある情報番組のプロデューサーと編成担当から直接そのような本音を聞いたことがあります。
メディア側も批判を避けるために、以前よりも関係者への取材を減らし、感動寄りの内容を増やすなどの配慮を見せるようになりました。
ただ、彼らも仕事とは言え、極めてセンシティブな内容だけに、「配慮すればいい」というものではないでしょう。
特に今回は、妻の広川ひかるさん、ダチョウ倶楽部の肥後克広さんと寺門ジモンさん、「竜兵会」の有吉弘行さん、土田晃之さん、劇団ひとりさんらがコメントすら出せない状況だけに、憶測混じりの報道を重ねることは明らかに過剰。
偉大な足跡を語り、故人を偲ぶのはもう少し先でいいはずであり、あまりにビジネスの要素が強すぎるのです。
自死が「ありえる」に変わる怖さ
そんなメディアの報道姿勢よりも怖いのは、「本来自分とは縁遠いものだったはずの自死が少しずつ身近なものになってしまう」こと。
好き嫌いを問わず知っている人の自死には、少なからず自分への影響力があり、上島さんのような有名人であればなおのことでしょう。
たとえば、「自分は自死なんてしない」と思っている人も、「あんなに明るい人で仕事や人望もあった人なのに」という意外性を感じてしまうと、心の奥に「自分もそういう可能性はあるのか?」という小さな疑問が芽生えてしまうものです。
あるいは、「自分たち一般人と同じような悩みがあったのかな」などと親近感を抱いてしまうことは、もっと危険。
自死の連鎖につながるリスクが高まります。
いずれにしても、自死報道を見るほど、心の中に少しずつ自死という選択肢を植え付け、それを選ぶリスクを高めてしまいかねません。
そんな心理状態の根底にあるのは、自死報道がショッキングなだけでなく、「起きたばかりの事実」であり、「芸能人は知っている人」だから。
縁遠かったはずの自死が、自分にも起こりえる可能性がある生々しいリアルなものとして心の奥に認識されてしまうのです。
これまで何度か、家族、友人、恋人が自死した相談者さんの悩み相談を受けてきましたが、ほとんどの人が「自死なんてする人ではないと思っていた」などとショックの大きさを語っていました。
また、ある人は「本当に自死するつもりはなく、衝動的だったのかもしれないし、だから『自分はない』とは言い切れない」と言っていたのです。
つまり、身近な人が自死を選んだ場合、「周囲の人々にこんなに悲しい思いをさせてしまうのだから自分は絶対にしない」と思う一方で、「選択肢の1つとして心に刻み込まれてしまう」ということでしょう。
「ありえないもの」が知らぬうちに「あるかもしれないもの」に変わり、「もともとすべての人間が自死という選択肢を持っている」ことを自覚してしまうのです。
日ごろ相談を受けていると、悩みの程度が軽い相談者さんの中にも、「『死んだら楽になれるかな』と思ったことがある」という人が少なくありません。
「死んでしまいたい」とまでは思わないけど、「死んだら楽になれるかな」という思いが頭をよぎる人たちがいるのです。
実はそれくらい自死は身近なものだけに、できるだけ遠ざけておかなければいけません。
余談ですが、人々の悩み相談を受け続けてきた私は、自死という選択肢が頭の中に刷り込まれていて、これを消すことはもはや不可能でしょう。
だから、たとえば肉を食べるときや、虫を退治したいときに、毎回ためらってしまうほど、つねに生と死に向き合いながら生きることで、その選択肢を遠ざけようとしています。
ファンでなくても連鎖はありうる
そしてもう1つ、みなさんに覚えておいてほしいのは、目につかないところで自死の連鎖が起きていること。
身近な人に先立たれたとき、人は自死というものを強く意識するようになりますが、芸能人の自死に関しても連鎖がつきものであり、一般人への連鎖は報じられないだけで静かに進んでいきます。
しかも怖いのは、連鎖が及ぶのがファンだけではないこと。
特にファンではなくても、「この人も自分と同じ気持ちだったのかな」などと自分に関連づけて親近感を抱き、後追いしてしまう人がいるのです。
たとえば、上島さんに対しても、コロナ禍を原因として決めつけたうえで、「自分も苦しめられているから」と関連づけ、自死を選ぶきっかけにしてしまう危険性は否めません。
その連鎖を避けるためには、まずメディアが最小限の情報を報じるストレートニュースに留めること。
人の生死にかかわることだけに、「他社が報じているからウチもいいだろう」という横並びの意識を捨てる姿勢が求められます。
また、関連記事を報じるメディアがあっても、できるだけ見ないようにすることも大事。
生死やメンタルヘルスにかかわることは、「できるだけリスクを減らしておく」
「対策はやりすぎるくらいでいい」が基本の考え方であり、「自分はありえないこと」と過信しないほうがいいでしょう。
その意味で忘れずに挙げておきたいのが、メディア報道だけでなく、一般の人々が書き込むSNSも同様であること。
自死についての是非や背景の憶測などの議論をネット上で交わすことは心を病むリスクを伴うものであり、避けたいところです。
免罪符として添えられる「相談窓口」
最後にもう1つメディアの報道姿勢に疑問を呈しておきたいのが、「相談窓口」の添付という免罪符。
媒体を問わず自死関連の報道には、最後に「いのちの電話」「こころの健康相談」「生きづらびっと」などの連絡先を添えることがお決まりのようになっています。
しかし、当然「これを添えれば、どんな内容でも許される」というわけではなく、そもそも相談窓口は「悩みが解決できる」という前提のものではありません。
精神状態には個人差があり、たとえば相談員に心を開いて悩みを打ち明けられるかは未知数です。
一方、全国に数千人とも1万人以上とも言われる相談員も、全力で対応しているものの、対処能力に個人差や相性があり、必ずしも万能とは言えないでしょう。
さらに連絡がつながらなければ、「ここも私を見捨てるのか」と絶望してしまうリスクもあるだけに、「自死報道でショックや悲しさを増したうえで、相談窓口に誘導する」という現在の流れは看過できないのです。