「保守王国」石川の"空気"から見えてくるもの
「裸のムラ」五百旗頭監督が語る地方局の可能性
松本 創 : ノンフィクションライター
2022/10/23 東洋経済オンライン
目には見えないが誰もが感じ取り、社会や集団を支配する「空気」。
それはどのようにして生まれ、人びとに伝播し、同調圧力や忖度や横並びへと駆り立ててゆくのか──。
全国で順次公開中の映画『裸のムラ』(石川テレビ放送制作)は、北陸の保守王国の県政界から市井の家族まで、さまざまな場に現れる「ムラ社会」の空気を描くローカル局ならではのポリティカル・ドキュメンタリーである。
だが、観る者は次第に気づかされる。
これは石川だけの話ではない。
日本中に通じる「普遍」かつ「不変」の構造であることに……。
監督は2020年春に富山県のチューリップテレビから石川テレビに移籍した五百旗頭幸男氏。
取材を始めるきっかけは新型コロナ禍だった。
「移籍したのはちょうど第一波のさなか。
未知のウイルスで世の中が混乱し、人間や社会の本質がむき出しになっているのを感じていました。
この空気を映像にしたいと思ったんです」と振り返る。
長期県政と市井の家族に共通する権力構造
取材対象はまず、当時現職最長の7期27年目に入っていた谷本正憲知事を頂点とする県政界。
「無症状の方は石川県へお越しを」と失言しても、「4人以下の会食」を呼びかけながら自身は90人以上の会食が発覚しても、知事の権勢は揺るがない。
ずらりと付き従う県庁職員たちが記者会見の質問に目を光らせ、議場では知事の手元に置くガラス製水差しの水滴を恭しく拭き取る女性職員の姿……。
そんな中、8期目出馬を阻止する動きが身内から起こる。
谷本の選対本部長だった自民党の馳浩衆議院議員が、後継者を名乗って知事選出馬を表明したのだ。
掲げたスローガンは20年以上変わらぬ「新時代」ではあったが、これにより谷本は続投を断念、自民党は三つに割れて保守分裂選挙となる。
背後にいたのが政治家・馳の生みの親である県政界もう一人の実力者、森喜朗元首相。
その歩みを振り返れば、首相在任時の「神の国」発言から東京五輪組織委での女性蔑視まで、家父長制の旧弊にとらわれた言動はなんら変わっていない。
と、ここまでのシークエンスだけでも権力に群がる「男ムラ」の空気がわかりやすく目に見える。
富山市議会の政務活動費不正を追及し、コミカルに描いた『はりぼて』(2020年)の五百旗頭監督の新作として、観客は満足できたかもしれない。しかし、それだけでは不十分だったという。
「長期県政はムラ社会の象徴ではありますが、それと対比させ、矛盾を浮き立たせる取材対象が必要でした。
そこでムラ社会からはじき出されたムスリムの家族、さらに、そもそもムラ社会にとらわれないバンライファー(車中生活者)の家族を追うことにしたんです。
為政者の言葉の軽さに比べ、市井の人たちの言葉の手触りはまったく異なっていました。
ただ、二つの取材対象に2年間カメラを向けていくうち、それぞれの家族の中にもやはりムラ社会的な、ある種の権力構造があることが見えてきた。
県政の話だけなら特殊な世界のことと笑っていられるけど、そうじゃない。
男か女かにかかわらず、あるいは自由に生活しているようであっても同じ空気は生まれる。
観ていくうちに永遠のループが見えてくる構成になっていると思います」
ムスリムの家族とバンライファーの家族をどのように取材し、どう描いているかは、朝山実氏によるインタビュー記事に詳しいのでここでは触れないが、この二つのシークエンスが挟まることで『裸のムラ』の作品世界は確実に広がっている。
その一方、ナレーションもなく場面が切り替わっていくため構成が複雑で、据わりが悪く感じる人もいるかもしれない。
「空気ってそんな単純なものじゃないし、そもそも人間は複雑で多面的ですよね。
今の日本のテレビドキュメンタリーはわかりやすく単純化しすぎる傾向があって、視聴者の想像力や考える力を奪っていると思う。
観た人が『あースッキリした面白かった』だけで終わるのではなく、自分ごとに置き換えて振り返り、誰かと議論したくなるような映画にしたかった。
そういう作品を作らないとドキュメンタリーの評価は上がっていかないし、広がってもいかないと思う」
「空気」を描くことは宿命だった
こうしたテレビやメディアに対する五百旗頭監督の問題意識は映画の随所に表れる。
コロナ禍を理由に「更問い」(質問の回答に対して、さらに質問すること)を禁じるなど厳しい取材を避ける政治家と、それを許してしまう記者クラブの空気。
地元政財界を牛耳る地元紙・北國新聞の影響力。
一方で、市井の人への取材においては監督自身が権力性を帯びてしまう姿。
ドキュメンタリーと演出の問題。報道と広報の違い……。
地方紙やローカルテレビ局といった地方メディアの可能性に注目している私は、五百旗頭監督に聞きたかったことがある。
17年間勤めた富山の局を辞めた理由。
その後、東京のキー局や大手の制作プロダクションではなく、よく似た風土の隣県の局へ移ったのはなぜか。
一つ目の答えは前作『はりぼて』の中で示唆されていたが、今作のディレクターズ・ノートにはっきりと記されている。
〈社会を覆う空気はテレビ局をも支配し、(略)忖度がはびこり同調圧力が強まった。
社内の空気はドキュメンタリーの表現領域にまで押し入ってきた。
頭に血が上り、平常心を失った。
私は、報道部会に経営トップを呼び出した。
/表現の自由の前に立ちはだかる経営論理。気づけば言い放っていた。
/「あなたは独裁者です」/表現者として死して、会社に残るか。表現者として生きて、会社を去るか。迷いはなかった〉
退社の経緯を振り返った後、記述はこう続く。
〈今思えば、あの時から世の空気を描くドキュメンタリーを作ることは宿命だった。
(略)ローカル局の内側に染み込んだ空気によって傷を負った制作者として、その源を探り、見えない空気を映像化するのは必然だった〉
新天地もローカル局だった理由
では、その新天地がなぜ、予算やスタッフが潤沢で視聴者数も圧倒的に多いキー局ではなかったのか。
五百旗頭監督は即答した。
「それは明確に、自分の今やりたいことができるのはローカル局だという確信があったからです」。
どおいうことか。 「仮にキー局に移ったとして、今回のようなネタを提案しても、まず通らないでしょう。
組織が大きく、いろんな横槍が入るという話はよく聞くので、容易に想像できる。
政治や行政の権力を扱うとなれば、なおさらです。
もちろんローカル局でも同じことは起こるわけですが、そんなことを気にしない局であれば自由に思い切ったことができる。 石川テレビにはかつて赤井朱美さんという有名な女性のドキュメンタリーディレクターがおられ、『ドキュメンタリーの石川テレビ』と呼ばれた時代があったんです。
それを復活させたい、何でも思い切ってやってくれと言われたのが、とても響きましたね。
実際、今の職場はかなり自由度が高いと感じています」
発信手段が多様になったことも大きい。
これまでは時間をかけてドキュメンタリーを制作しても、キー局の目に留まって全国ネットで放送されるか、業界のコンクールで賞を獲るぐらいしか、広く見てもらう機会がなかった。
それが近年、ローカル局が質の高い作品を映画化する動きが活発になり、ネット配信もあれば、ドキュメンタリー専門チャンネルなどもある。
独自の発信により、国内はもちろん海外にも届く可能性が広がっているのだ。
さらにもう一つ、富山時代から共同作業をしてきた信頼できるスタッフが近くにいることを挙げる。
今作の編集担当は、チューリップテレビから独立して現在はフリーランスで活動する元同僚だという。
五百旗頭監督の言う通り、「空気」は単純に語れない。
権力構造や閉鎖的社会の中に生じる抑圧的な空気ばかり語られがちだが、小さな組織や人間関係の風通しを良くするのも、また空気だ。
そして、空気と一切無縁でいられる人はおそらくいない。
石川県を舞台に地方政治から市井の生活までを子細に見つめた『裸のムラ』はローカル局ならではの秀作だが、本当の主人公は観客である私たちなのかもしれない。