「草津バッシング事件」の教訓…「推定有罪」に疑問を抱かない人びとの恐ろしさ
12/8(木) :現代ビジネス
「告発すなわち真実」という風潮
2020年12月、群馬県の草津町議だった新井祥子氏が、同町の町長から性被害を受けたと告発したことに端を発する「草津MeToo事件」。
あれからおよそ2年を経て、その事件が大きな転換点を迎えた。
前橋地検が2022年10月31日に、当時町長を「性加害者」として告発していた新井元町議を名誉棄損と虚偽告訴の罪で起訴したのである。
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〈群馬県草津町の黒岩信忠町長(75)から町長室でわいせつな行為をされた、と訴えていた元町議の新井祥子氏(53)について、前橋地検は31日、新井氏を名誉毀損と虚偽告訴の罪で在宅起訴し、発表した。
新井氏は2021年12月に強制わいせつ容疑で黒岩町長を告訴し、直後に黒岩町長が「虚偽告訴だ」と新井氏を告訴。
地検は同月、黒岩町長を嫌疑不十分で不起訴にしていた〉(朝日新聞デジタル「「町長から性被害」訴えた元草津町議を在宅起訴 名誉毀損罪などで」2022年10月31日)
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新井氏が起訴されたことを受け、黒岩町長が会見を行い、その内容はYouTubeで配信された。
また会見にともない声明文も発表された。
会見や声明文において町長は、新井氏だけでなく氏を支援した人びと、あるいはネット上で草津町長を「女性をレイプしておきながらその告発を握りつぶした」とし、加害者として断定し糾弾する論調を展開したり、果ては「草津はセカンドレイプの町」などと町や住民全体に対する侮辱的なキャンペーンをSNS上で展開した人びとに対しても、はっきりと批判的に言及している。
覚えている人も多いかもしれないが、2020年12月当初、SNS上 PCプレビュー では被害を受けたと告発する新井氏に同情的な論調が巻き起こり、その申し立ての真偽が法的になんの立証もされていないうちから論ずるまでもない真実だと断定された。
さらに町長に対して「推定有罪」と言わんばかりのバッシングが展開され、新井氏をリコールした町議会や草津町全体に対して暴言を浴びせる人が後を絶たなかった。
だが新井氏の申し立てが不起訴となった一方で、逆に新井氏が虚偽告訴で起訴されたいま、ハッシュタグ・アクティビズムの熱にうかされ、町長の名誉、あるいは草津町全体や住民の名誉を損なうような言説の流布に加担した著名な学者や社会運動家などに対して、町長はなんらかの言明を求めている。
「しかるべき手段を取る用意がある」と申し添えながら。町長や草津町に対する誹謗中傷は海外メディアにも波及したのだから、毀損された名誉を回復させる権利が町長には(そして誹謗中傷に加担してしまった人には、回復に協力する道義的責務が)あるだろう。
町全体まで「加害者」扱い
しかしこれに対して、誹謗中傷やネガティブキャンペーンに2020年当時加担していた学者・著述家・批評家・ジャーナリスト・政治家・文化人といった社会的影響力を持つ人びとから、自分たちが「女性が被害を訴えているのだから真実に違いない(≒加害者が男性だからクロに違いない)」という偏見にもとづき、町長や草津町を断罪するムーブメントに加担したことについての真摯な謝罪は一切なく、きわめて不誠実な対応を繰り返している。
これまで新井氏を徹底的に擁護し町長や町全体を「加害者」として非難してきた「新井祥子元草津町議を支援する会」のアカウントは、あっという間にアカウントを削除してその行方をくらませた。
町長が不起訴になってなお、「推定有罪キャンペーン」に加担したことについてろくに謝罪もせずに逃走するかだんまりを決め込み、中にはようやく口を開いたかと思えばまるで他人事のように無責任な放言を続ける著名人もいるなど、目に余る光景が広がっている。
この程度の浅薄な責任感の人びとが集まって、国内外に不正確な情報を拡散し、「MeToo」アクティビティを展開していたのだということを、我々ははっきりと記憶に留めておく必要があるだろう。
この「草津MeToo事件」が起こった2年前、私はこの現代ビジネスにおいて、おそらく日本の言論業界ではたったひとりだけ、草津町を「推定有罪」「セカンドレイプの町」と決めつける論調の盛り上がりに、下記のようにはっきりと異論を呈した。
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〈女性が「被害を受けた」と申し立てれば、法の手続きもすべてスキップし、被告発者の司法上・憲法上の権利の一切が剥奪され、抗弁の余地もなく「性犯罪者」であると断定されてしまう――現在の社会的状況は、端的に異常であるとしか言いようがない。
とても人権国家であるとは思えない光景だ。
「疑わしきはすなわち有罪である(推定有罪)」と言って憚らないのが、国家主義者やあるいは全体主義者であれば、なるほど一定の筋は通っているかもしれない。
しかしいま「推定有罪」のシュプレヒコールの中心にいるのは、平時には「人権の保護」や「法の下の平等」を訴え、また警察や検察の強権的なふるまいを批判し、「疑わしきは罰せず(疑わしきは被告人の利益に従う)」と喧伝していたはずの「リベラル」な人びとである〉
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これによって当時の私は「セカンドレイパー」「性犯罪者予備軍」「差別主義者」などとメディアやネットの各所で散々にバッシングを受けたが、しかし私はこの記事を世に出したことを微塵も後悔していない。
後悔するどころか、法治国家に生きる者として、なおかつ「言論の自由」の恩恵を一般の人より多く享受している者として、当然に果たすべき責任を全うしたとむしろ胸を張っている。
逆に、言論業界では、このムーブメントを内心では苦々しく思っていながら社会的立場が危うくなることを恐れ、なにも発言しなかった者たちばかりだった(それどころか草津町を「因襲まみれの陰湿な田舎」などと揶揄したりする者さえいた)ことには失望を禁じ得なかった。
「推定無罪の原則」や「手続き的公正」があっさり省略され、人が私刑にかけられている様子を、わが身可愛さのあまり黙って眺めているようでは、言論人をやる資格はない。
歯止めが効かなくなっていた
もっとも「MeToo」という営為に、一定の社会的意義があったことは事実だろう。
このような社会的ムーブメントが盛り上がる以前であれば、圧倒的な権力の非対称性によって泣き寝入りを余儀なくされていた人びとにも、「MeToo」はその被害を救済する機会を与え、あるいはこれまで顧みられていなかった「性的被害を生み出しやすい構造」そのものにスポットライトを当てるきっかけともなったからだ。
だが、その社会的意義を維持するためには、同時に「MeToo」というムーブメントそのものがはらむ超法規的で破壊的な性質が暴走しないよう絶えず監視し、これをコントロールする社会的・道義的責務も負わなければならなかっただろう。
考えてもみれば当たり前のことだ。
「MeToo」とは早い話が「被害を受けた!」と言いさえすれば、その告発を受けた側は、法治国家であれば本来なら当然に付与されているはずの権利の一切を省略または著しく制限されてしまいうるものだからだ。
これは告発者側に途方もない権力を付与する。
その扱いがきわめて厳重になされるべきであることは言うまでもない。
告発を受けた者は、告発内容に対して申し開きの機会もなければ、公正な裁判を受ける権利もなく、一方的に「加害者」として断罪される。
さらに一般的な裁判と異なり量刑も決められていないがゆえに、その「断罪」には落としどころもなく、「社会的生命の死」にいたるまで制裁が収まることはない――
つまるところ「MeToo」とは、被害者救済の名のもとに正当化された、法治主義の原理原則をすべて無視する自警団主義(ビジランティズム)の発露である。
たとえ被害救済が目的であろうと、「MeToo」というロジックは、本質的にはひとりの人間の権利や自由などたやすく踏みつぶす、超法規的で圧倒的なパワーを有する「自警団的な暴力」になりうる。
だからこそ、このムーブメントを支持し、その社会的必要性を強調する者ほど、「MeToo」が法治主義社会とどうにか折り合いがつけられるよう、公正かつ妥当に運用されるよう努力を惜しんではならなかった。
たとえば虚偽の告発などによって「ハック」されるリスクを厳重に監視し予防していく必要があった。
そのためには「被害者」に対しても、その告発を一度落ち着いて受け止めた上で、「本当にそのような被害があったのか?」と批判的で客観的な視座を持つことも不可欠だっただろう。
またかりに告発者の側に立つとしても、被告発者の言い分はどうするのかとか、落としどころはどうするのかとか、告発が間違っていた場合はどうするのかとか、そういった“課題点”や“着地点”についても継続的に議論し、自己批判していかなければならなかった。
比類なき権力には、相応の責任と監査が求められるのは当然のことだ。
――だが「MeToo」を支持した人びとは、これらの一切を怠った。
怠っただけならまだしも、そうした相対的で批判的な議論が起こりそうになろうものなら「二次加害をやめろ!」といった声を上げて、これを封殺する側に回ってしまった。
かれらは、告発の妥当性そのものではなく「MeToo」という運動の問題点を指摘する者に対してすら「二次加害者も同罪だ!」として激しく糾弾してきた。
ゆえに自己批判が不可能になり、運動の内部で「相対的議論」を提起することすらできなくなるという自縄自縛に陥っていたのではないだろうか。
「検証」すら許されない空気
力の暴走をどうコントロールするのか、虚偽の告発をどう検証するのか、落としどころはどうするのか、告発を受けた者の人権や権利とはどう折り合いをつけるのか――といった論点を含む内部批判のブレーキを「MeToo」はすべて失った。
まるで下り坂を暴走する無人のトロッコのように際限なく加速しながら、「女性が声を上げた」という見出しだけを見て、共感に突き動かされるまま告発を「真実」と断定し、被告発者をSNSで「加害者だ!」と反論の余地を与えず吊るし上げ、仕事を奪い、名誉を奪い、社会から追放する、さながら魔女裁判のような様相をますます呈するようになっていった。
いうなれば「草津MeToo事件」とは、社会運動がそのメリットと併せ持っていたリスクを、運動を援用していた内部のメンバーのだれもコントロールできない(外部の人びとも自分が二次的性加害者としてレッテルされることを恐れて沈黙した)まま暴走させてしまい、その超法規的な権力と暴力性だけが際限なく肥大化して爆発した帰結だったといえるだろう。
本件は最初の「告発」があった当初から、新井元町議の供述が二転三転していたこと、証拠があやふやなことなどから、告発そのものの信憑性を訝しむ声もあった(実際にその後、町長は不起訴になった)。
だが、こうした懸念や冷静な議論・検証を呼びかける声すらも、二次加害や三次加害といって退けていったその果てに、このような結末が待っていた。
本事件に対して、共感のおもむくままナイーブに「推定有罪論」に加担してしまった人びとは、草津町長の言うとおり、なんらかの言明を出すべきだろう。
それが「法治国家」の仲間に戻るために必要な矜持である。
この世に「法」がある理由
思うに「MeToo」を含め、SNSのハッシュタグ付きのコメントで連帯感を味わいながら「世直し」気分に浸るなどという、2010年代後半から盛り上がってきた「ハッシュタグ・アクティビズム」についても、そろそろ検証の時期が近づいてきているのだろう。
これまで「MeToo」に無邪気に賛同していた者たちがもっとも重い責を負うことはいうまでもないが、しかし同時に、こんな幼稚で無責任なムーブメントを真に受け、右往左往していた世間にも相応の責任はある。
私たちの社会には、長い年月を経て築きあげてきた「法」という秩序が存在している。
「法治国家」の土台をつくった先人たちはなぜ、その共同体で暮らすすべての人から「自力救済」の権利を取りあげ、有形無形を問わず暴力の行使をきびしく制限し、その救済をわざわざ「法」という名の第三者により間接的に行うように取り決めたのか。
いまならその理由がはっきりわかるだろう。こうならないようにするためだ。
どんな凶悪な犯罪の被告人にも反論の機会が必ず用意される「対抗言論の法理」がなぜあるのか。
だれの目にも明らかな極悪人にであっても公正な裁判を受け、弁護士をつける権利がなぜ憲法で保障されているのか。
繰り返し述べよう。こうならないようにするためだ。
「MeToo」あるいは広義の「キャンセル・カルチャー」は、現代社会の原理原則である「法治主義」に真っ向から対立し、ときにこれを否定するものだ。
だが、たとえそうであったとしても、「それでもMeTooは社会に必要だ」――と支持者たちが主張するのであれば、社会の秩序や規範と調和するようなものとしていく不断の努力が必要だった。
告発者だけでなく被告発者にも人権や尊厳があることを考慮し、申し立てられた事実関係を冷静かつ客観的に検討し、万が一誤った(虚偽の)運用がなされたときには、問題の徹底的な検証や批判を行い、そして謝罪や賠償を行う用意が不可欠だった。
だがそれらを一切せず「異論や批判を向ける者はみな二次加害者・差別主義者だ!」などと居直ってしまうようであれば、それはもう私たちの社会の秩序とは相容れないものと言わざるを得ず、消え去ってもらうほかない。
御田寺 圭