子育て政策の為に「健康保険料」引き上げる大問題
筋違いのところに負担を求めようとしている
野口 悠紀雄 : 一橋大学名誉教授
2023/04/16 東洋経済オンライン
子育て政策の財源として、健康保険料を引き上げる案が浮上している。
とんでもない筋違いの発想だが、実は、同じ制度がすでに年金制度に存在している。
今回の案は、不合理な財政制度を拡大しようとするものだ。
昨今の経済現象を鮮やかに斬り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕する──。
野口悠紀雄氏による連載第92回。
子育て政策財源に、とんでもない筋違いの発想
3月末に公表された政府のこども・子育て政策には、数兆円の財源が必要であり、その大枠は、6月の「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)までに示される予定だ。
4月7日に「こども未来戦略会議」が発足し、議論が始まった。
政府部内では、健康保険に財源を求める考えが浮上しているようだ。
しかし、これはとんでもない発想だ。
およそ筋違いのところに負担を求めようとしている。
こども・子育て政策の内容を考えれば、その財源は税でなければならない。
税は、特定の便益を得られるから負担するのではなく、国民の義務として負担しなければならないものだ。
ところが、社会保険料は、これとは性格が異なる。
医療保険制度は、将来あり得る医療費支出のリスクを加入者でプールするための仕組みだ。
したがって、ここで集められた保険料を他の用途に用いることは許されない。
「子育て政策によって将来若者が増えれば、医療制度を支えられる」と言われることもあるが、そうした論理は成り立たない。
仮に子育て政策で出生率が上昇しても、その人たちが保険料を負担できるようになるのは、何十年も先のことだ。
それに対して、医療費の支出は明日にでも起こることである。
医療保険の保険料を医療費以外の目的に使えば、医療保険制度を根底から破壊することになる。
残念なことに、以上で述べたことは、日本では「書生論」とみなされる。
つまり、現実を無視した原則論に過ぎないとされる。
いまの日本では、原則論では物事は進まない。
財源問題については、とりわけそうだ。
子育て政策のために本来使われるべき財源である消費税について、岸田文雄首相が「消費税は10年程度は上げることは考えない」と明言しているからだ。
消費増税の議論が封印されたままでは、財源探しは迷走せざるをえない。
他の税目にしても、増税を提起すれば大反対が生じるのは、目に見えている。
だから、できるだけ目につかない方法で財源を調達しなければならない。
社会保険料の引き上げは、あまり注目を集めないので、やりやすいと判断されているのだろう。
本来、国民の間で十分な議論が行われるべき重要な問題について、できるだけ議論がされない方法を探っている。
書生論を繰り返せば、これは財政民主主義の根幹にかかわる大問題だ。
子ども・子育て拠出金という大問題の制度がすでにある 現実の日本の財政制度には、以上のような大問題を抱えた財源が、子育て予算にすでに使われている。
健康保険の保険料に上乗せしようとするのは、この延長線上にある発想なのだ。
大問題を抱えた財源とは、「子ども・子育て拠出金」である。
これは、会社や事業主から「社会全体で子育て支援にかかる費用を負担する」という名目で、従業員の厚生年金保険料とともに徴収されているものだ。
これは保険料なのかといえば、年金給付の財源になるわけではないので、保険料ではない。
では税なのかといえば、税法に基づいて徴税機構が徴収するわけではないので、税でもない。
性格がまったくはっきりしない。
拠出金額は、従業員数から計算される。
従業員に子どもがいるかどうかは関係ない。
独身であっても、厚生年金加入者全員が対象となる。
社会保険料は雇用者と従業員が折半で負担しているが、この拠出金は、全額を雇用者が負担する。
なお、国民年金ではこのような負担はない。
だから、公平性の点でも大いに問題だ。
この拠出金は、以前は「児童手当拠出金」という名称だった。
児童手当制度が始まった1972年から存在する。
拠出金率は、2014年度には0.15%であった。
子ども・子育て支援改正法が施行された2015年度以降、「子ども・子育て拠出金」という名称に変更された。
料率も段階的に引き上げられ、2018年度には0.29%になった。
2019年度には0.34%に引き上げられた。現在は0.36%となっている。
0.45%までは、政令で引き上げが可能だ。
拠出金は、年金保険料とともに日本年金機構によって徴収され、年金特別会計の「子ども・子育て支援勘定」で経理される。2022年度では、拠出金0.65兆円のほか、一般会計からの受け入れ2.49兆円などがあり、児童手当交付金1.26兆円、子ども・子育て支援推進費1.63兆円などの財源となっている。
これは、結局のところ、法人税と同じようなものだ。
法人税の増税とすると目につくので、こうした方策が取られたのだろう。
法人の活動に影響がないとは言えない
このように極めて問題が多い仕組みなのだが、料率もそれほど高くはないし、直接に負担するのが事業主や会社であることから、あまり大きな問題にはならなかった。
しかし、法人の活動に影響がないとは言えない。
厚生年金の雇用主負担が重すぎることが、従業員を増やさない大きな原因になっていることは否定できない。
それに加えて、なぜ負担しなければならないのかがはっきりしない拠出金を求められては、従業員を増やす意欲はさらに削がれるだろう。
中小企業や零細企業の場合にはとくにそうだ。
このように全く正当化できないおかしな制度が、日本の財政制度の中にすでに入り込んでしまっているのだ。
これと同じような拠出金を健康保険にも導入するとした場合、どのような制度になるだろうか?
日本には、公的健康保険として、3つの制度がある。
健康保険組合、国民健康保険、後期高齢者医療制度だ。
年金保険の場合と同じような制度にするのであれば、これらのうち、健康保険組合の事業主負担分の保険料率を引き上げるという形になるのだろうか?
それとも、他の保険制度も対象とし、かつ本人負担分も対象とするのだろうか?
現時点では、こうした詳細については、何も分かっていない。
ただ、このような方策によって、増税論議を避けつつ財源を確保することは、不可能ではない。
しかし、それは、以下で述べるような日本の財政が抱えている本当の問題を解決するものではない。
むしろ、日本の財政制度が抱える歪みをますます拡大させるものだ。
財源問題に正面から取り組め
政府は、この機会に、増税問題に正面から取り組む必要がある。
それができなければ、少子化対策の内容を見直すべきだ。
高齢化が進行することは避けられないので、医療、年金、介護の給付は増加せざるをえない。
だから、社会保障制度そのものの財政が問題になる。
消費税の増税は、避けて通れない課題なのである。
今回、増税を避けて財源を調達しても、一時的なことに過ぎない。
それは、未来に対する責任を回避すること以外の何物でもない。
なお、少子化対策財源とは別に、防衛費増額の財源確保も緊急の課題だ。
歳出改革と増税が本来あるべき財源だが、反対が強いため、決算剰余金の活用と税外収入の積立という「筋の悪い」財源が優先して検討されている。
4月6日に「防衛財源確保法案」が国会で審議入りしたが、これは、国有財産売却収入などを貯めるために「防衛力強化資金」を新設しようとするものだ。
その一方で、増税や歳出削減については、議論がなされていない。
増税や歳出削減は、誰にとっても不愉快なテーマだ。できることなら避けたい。
しかし、正面からそれに立ち向かうことこそが、政治の役割なのである。