2023年04月29日

「神」「ヤバい」…現代人の言葉の貧困化が招く末路

「神」「ヤバい」…現代人の言葉の貧困化が招く末路
言葉が「減っていく」ことは何を意味するのか
奥野 宣之 : 著作家・ライター
2023/04/28 東洋経済オンライン

「神」「ヤバい」――。
日々無数に投稿されるSNSだが、実は同じような言葉であふれかえっている。
言葉が貧困化する先には何があるのか。
本稿では出版社・新聞社勤務を経て、読書や情報整理などを主なテーマとして執筆や講演活動などを行う奥野宣之氏が、「読むこと」を通して言葉を育てる重要性について説く(本稿は、『ちゃんと「読む」ための本』より抜粋・編集を加えたものです)。

「1984年」で描かれた世界
「難しい話なんてわからなくても大丈夫。スマホで検索すればいい」と主張する人がいます。
私はこの意見に反対です。
使える言葉が少なくなれば「考えられること」も少なくなっていくから。
よって、知識や語彙は増え続けるよう、学びながら生きていかねばならない。
でなければ、そのうち検索ワードすら思い浮かばなくなってしまうでしょう。

もう少しだけ言葉をめぐる現代社会の問題について考えてみましょう。
『1984年』という有名な小説があります。
1948年にイギリスの作家ジョージ・オーウェルが、(年号の下2桁を入れ替えた)未来社会を描いたものです。
1984年のオセアニア国では、独裁者のビッグ・ブラザーが「テレスクリーン」という機械で家の中まで見張っている。
そして寝言ひとつ漏らすだけで思想警察に逮捕される。
よく「現代のIT監視社会を先取りしていた」と評価される作品です。

作中のオセアニアでは、ニュースピーク(新語法)と呼ばれる「言語」が使われています。
特定の言葉の使用を禁じたりするのは古今東西の専制国家がやってきたことですが、ビッグ・ブラザーは、検閲どころか言語体系を丸ごと作り替えようとしているのです。
目的は国民の肉体だけでなく精神まで支配すること。

「ニュースピークは思考の範囲を拡大するのではなく縮小するために考案された」(『1984年【新訳版】』)というわけです。

私は、今の社会を考えるうえで注目すべきなのは「テレスクリーン」ではなく、こちらの「ニュースピーク」だと思っています。
ニュースピークの基本原理は、言葉を徹底的に刈り込んで最小化することです。
たとえば、作中でニュースピークの辞書を作っている真理省調査局の担当者は、「bad」という言葉は不要だと指摘しています。
理由は「good」に否定の「un」を付けて「ungood(よくない)」と言えばいいから。同様に「excellent」も「amazing」も不要です。
「plusgood」「doubleplusgood」と言えばいい。

「自由という言葉」がなくなれば「自由という概念」もなくなる。
そうなると民主化を求めるデモや大衆運動も起こりえない。
究極の全体主義は、監視や洗脳ではなく言語によって完成する――。

オーウェルはべつに未来を予言したかったわけではありません。
ただ、元ジャーナリストの作家として、こう忠告したかったのでしょう。
言語と思考は、じつは同じもの。
つまり表裏一体であって、「言葉を大切にしないと何も考えられなくなるよ」と。

SNSで使われている言葉の大問題
さて、ここで現代のSNSに目を移せば、膨大なユーザーの書き込みで埋め尽くされています。
パッと見たところ自由で豊かな言語空間のように感じます。
ところが、実際に1つひとつ見ていくと、内容や表現のバリエーションは意外に乏しいのです。
商品やサービスの評価は「神」か「ヤバい」か。
ニュースのコメント欄も一見すると「議論」に見えるものの、実際のところバズワードをみんなでぐるぐる回しているだけだったりする。

幸いにして、現代にビッグ・ブラザーはいません。
少なくとも日本では、インターネット上に明らかな情報統制や検閲、監視システムはなく、表現や思想の自由があります。
にもかかわらず、私たちは自ら進んで言葉を刈り込み、思考の範囲を縮小する道を選んでいるように見える。
ある意味で『1984年』より恐ろしい状況です。

それでも、ネットニュースやSNSのトレンドと無関係に生きていくのは難しい。
そのため一日中、インターネットばかり見ている。
これではじっくり何かを読みながら考えたり、街を歩き回って見聞を広めたりする時間はありません。
先日も「書き手として、こんなことでいいのでしょうか」と相談されたのですが、いいわけがない。
ネット空間で受信と発信を繰り返しているだけでは、言葉が貧困になり、思考も衰退する――。

情報社会で遭難しないためにも、私たちは「ちゃんと読む」習慣を身につける必要があるのです。
ここで、「言葉を扱う力」を伸ばしたいなら、ブログやSNSを「書く」ほうがいいんじゃないの? と思う人もいるかもしれません。
もちろん書くのはいいことです。言語能力が鍛えられるのは間違いない。
ただ、毎日の習慣にするのはハードルが高すぎるのでは? というのが私の意見です。
すみずみまで神経の行き届いた文章を書くのはひじょうに骨が折れるし、だからといって手抜きではトレーニングにならない。
また本気を出すには、題材も「書くに値すること」である必要がある
そんなものを毎日のように見つけられるのか。 というわけで、「××でランチを食べた」とSNSに投稿したり、月に何回か「△へ行った話」といったブログを書くより、毎日コツコツと「ちゃんと読む」ことを習慣化したほうが、効果が望めるのです。

  また「書く力」は、読むことで養えます。
アウトプットの土台に「読む」があり、表現に優れた人はちゃんと読む習慣を持っているーー。
ライター志望者向けのセミナーで講師をやっていると、このことを痛感します。
たとえば、受講生の中にはライター志望ではない人がちらほらいる。
「書くスキルを業務に役立てたい」と考えている会社員などです。
彼らは発信したいわけではないから、ブログやSNSもやっていなければ、文章を書いた経験もほぼありません。
ところが、そういう人に限ってライター志望者より味わいのある文章を書くのですね。
で、少し話してみると、その人から私も聞いたことがないような書き手の名前がポンポン出てくる。

つまり、腕の立つ読み手は「いい書き手」の予備軍なのです。

読む人のほうが仕事ができる
仕事においても、ちゃんと読む人のほうがデキる印象です。
私の業界でいうと、メジャーな雑誌で活躍しているライターや全国紙でコラムを書いているような記者は、ネット上のトレンドに限らず、幅広くいろんなものを読んでいます。
しかもただの情報通ではなく、しっかり腹に入れて自分のものにしている。

私もたまに取材やインタビューを受けるのですが、雑談ひとつでも引き込まれて、つい話に熱中してしまいます。
組織を率いる人にも同じことが言えそうです。
土曜日の『日経新聞』には、トップが愛読書を語る「リーダーの本棚」という連載が載っています。
それを見ていてよく思うのは、やはり「やり手」は読んでいるなあ、ということ。
普段から経済誌のインタビュー記事などで「この社長はちょっと違うな」「この人は何か持っていそう」といった感じで名前をチェックしていた人物は、だいたいバックボーンに独特の読書遍歴があります。

愛読書リストの中に、有名な歴史小説だけじゃなく大学時代の恩師に勧められたアカデミックな文献が紛れ込んでいたりする。
「ああ、どうりで」と膝を打つわけです。
つまり、「書く」前に「読む」が大切なのです。
何かを書いたり話したりするためのもっとも基本的なトレーニングは「ちゃんと読む」ことであって、書かなくても土台は固められる。
「読む」をすっ飛ばして表現しようとするのは、相撲取りが四股を踏まずに番付を上げようとしたり、ボクサーがロードワークをサボってタイトルを狙うようなものです。
言い換えれば、自分の感じていることや考えたことをSNSに書いたり、だれかに話したり、人前でプレゼンしたりといった「発信」は、後回しでいい。
「読む」というトレーニングを通じて力を付け、自分の軸を作り上げてからでいいのではないでしょうか。

読みたいものを読めばいい
ここまで読んで、「読み方を身につけないといけない理由はわかったけれど、じゃあ何を読めばいいの?」と戸惑う人も多いでしょう。
読む対象は、身の回りにある普通のものでOKです。
「××新聞じゃないとダメ」「この名著リストを上から順番に」なんて、うるさいことは言いません。
ただし、手に取るなら「本気で書かれたもの」にしてください。
つまり、だれかが頭をひねり汗をかいて作り上げた文章です。

本でもネットでもいいけれど、「手抜き仕事」にはなるべく関わらないようにする。
目の前にあるテキストは、自らの時間とエネルギーを費やして読むに値するものかどうか――。
この意識をつねに持ち続けてください。

そのうえで、これから皆さんにやってもらいたいのは、日常的に触れる文章との関わり方を変えることです。
ちゃんと読むことで表現の土台となる「文字を扱う力」を養っていくのは、同時に何かを真剣に考えることでもあります。
最終的な目標は、自分の頭の中にあることを自分で納得のいくかたちで表現できるようになること。
何か文章を書いたり、人前で考えを発表したりといったとき、「自分で考えたことを自分の言葉で表現できた」と思えれば、それで十分です。

「いいね」や閲覧数より、自らの感覚を大切にしてください。
「今回の表現は、以前より確実に前に進んでいる」 「目的に合わせて中身のある発言ができたと思う」 「ほんとうに書くに値することを自分の言葉で書けた」 このような手応えが得られれば、間違いなく自信になる。
そんな意識や心の余裕は、読む側・聞く側にも伝わるもので、周囲の反応や評価も変わってきます。
このことは、私たちを取り巻くネット空間の知的退廃、それにSNSでの受信と発信の繰り返しに空虚や閉塞を感じ取っている人にとって、「人生が変わる」といっていいほどのインパクトがあるでしょう。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育・学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする