2023年05月18日

リベラルな社会にこそ「保守の価値観」が必要な訳

リベラルな社会にこそ「保守の価値観」が必要な訳 2
多様性が「対立」ではなく「共存」するための条件
2023年05月17日 東洋経済オンライン

グローバル化の問題点は「新しい階級闘争」を生み出した。
新自由主義改革がもたらした経済格差の拡大、政治的な国民の分断、ポリティカル・コレクトネスやキャンセルカルチャーの暴走である。
アメリカの政治学者マイケル・リンド氏は、このたび邦訳された『新しい階級闘争:大都市エリートから民主主義を守る』で、各国でグローバル企業や投資家(オーバークラス)と庶民層の間で政治的影響力の差が生じてしまったことがその要因だと指摘している。
中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)など、気鋭の論客の各氏が読み解き、議論する「令和の新教養」シリーズに、今回は井上弘貴氏(神戸大学大学院教授)も参加し、同書をめぐって徹底討議する。今回はその後編をお届けする(前編はhttps://toyokeizai.net/articles/-/671282)。

民主主義が機能するための条件
古川:
民主主義が機能するためには、多様な集団が意見を主張し合う多元主義が必要で、そのためには中間団体の再生こそが不可欠だというのがリンドの主張です。
中間団体とは、国家と個人との中間に存在するさまざまな共同体のことで、地域のコミュニティや労働組合、農協や漁協などの職業団体、教会などの宗教団体がそれに当たります。

リベラルな社会、つまり自由で民主的な社会が成り立つためには、その条件として、自律的な中間団体が多様に存在することこそが必要だ、という主張は最近よく見られます。
それだけ危機感が高まっているのでしょう。
たとえば、パトリック・J・デニーンの『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(2018年、邦訳2019年)もそうです。
デニーンは、リベラリズムというイデオロギーこそが、むしろリベラルな社会の前提条件を切り崩してきたのだと批判していますが、その最たるものが中間団体です。

中間団体は本来、国家と個人との間に挟み込まれたクッションのようなもので、それによって、個人は国家の専制的な権力から守られますし、自分の意見を政治に反映することもできます。
それがなくなってしまうと、個人は寄る辺を失って国家に依存し、従属するほかなくなります。
そこに到来するのが全体主義です。

ところが、リベラリズムは、このリベラルな社会の前提条件であるはずの中間団体を、むしろ破壊してきました。
国家から個人を守る中間団体を、むしろ個人を抑圧する圧力団体とみなしたわけです。
その結果、リベラリズムこそが全体主義を呼び寄せてしまいました。
したがってデニーンも、自治的な地域共同体などの中間団体を再活性化する以外に、民主主義の未来はないと考えているようです。

中間団体の再生によって、国家の専制的な権力に対する「拮抗力」を取り戻すべきだという、リンドの見方と同じです。
それはそのとおりだと思うのですが、しかし、国家と中間団体との関係はもう少し複雑で、必ずしも拮抗関係だけではありません。
たんに拮抗力としての中間団体を再生して多元主義を実現するだけなら、国家は多様な利益団体に引き裂かれてバラバラになってしまうでしょう。

つまり、本当に多元主義を実現するためには、多様な中間団体が自律的に存在して国家と拮抗すると同時に、それらが同じ1つの国家の下に統合されていなければならないという、矛盾した両面が必要だと思うのです。
その点についてはいかがですか。

中野:
おっしゃるとおりで、よく言われる多元主義の弱点として、中間団体がそんなにいいんだったら、じゃあ、ヤクザはどうだと(笑)。
すごく中間団体が結束しているぞ、とかね。
それこそ、陰謀論者の集まりとか、特にSNS上では、すごく多元になっています。
だけど、お互いまったくコミュニケーションが取れなくなっちゃっている。

多元性を「多元主義」に高めるもの
佐藤:
「多元性」と「多元主義」は同じではありません。
多元主義というからには、さまざまな意見の対立はあっても、それを最終的には統合して、全体が機能するようになっていなければならない。
まさにアメリカ建国のモットー「多をもって一となす」ですが、今や統合の枠組みが解体された結果、意見がちょっと違っただけでも、不倶戴天の敵だという話になりかねなくなっている。
リンドは本書で、トランプをヒトラーのごとく見なす傾向を批判していますが、これは確かに正しい。
くだんの見解はトランプへの過大評価であり、同時にアメリカが抱える危機への過小評価です。
政治学者バーバラ・ウォルターが『アメリカは内戦に向かうのか』で指摘したとおり、専制的な権威主義体制のもとでも社会の統合は保たれます。

トランプが真に独裁者の器で、専制支配を確立できるんだったら、ある意味、まだいいんですよ。
真の問題は、民主主義と権威主義の間にあるアノクラシー(不完全民主主義)の状態を回避できるか。
アノクラシーになった国は、最も内戦に陥りやすい。そして「ポリティ・スコア」という評価基準にしたがえば、トランプ政権末期のアメリカはアノクラシーに陥りました。
その後はとりあえず民主主義と認められる域に戻ったものの、デマゴーグとしての彼の存在は引き続き問題視されている。

ゆえにトランプをヒトラー扱いするのは、アメリカを権威主義体制に移行させるだけの力を持っていると見なす点で過大評価であり、世の中には権威主義より恐ろしい状態があることを見落としている点で過小評価となるわけです。

「多元主義」が成り立つための条件
井上:
これは多元主義を可能にしている制度的な枠組みを破壊することが、多元主義に許されるかという話だと思うんですね。
今、トランプの支持者は明らかにその枠組みの破壊にまで至る可能性がある。
つまり、多元主義の共通理解を欠いているゆえに、多元主義を超えてしまおうとしている。

中野:
それは非常に大事な論点だと思います。
多元主義は、対立せず共存するための共通理解、凝集力が必要となる。
典型的には言語や文化がその役割を果たしていますが、エスニックカルチャーといったリベラルが容認できない要素が絡むと問題は難しくなります。

1950〜1960年代のアメリカは白人優位で文化的・人種的・宗教的に一致していた。
そのため、多元主義がうまく機能していたけれど、その後、秩序の基盤にあった宗教やエスニックカルチャーが揺らぎ始めてしまった。
保守は、秩序の基盤となるカルチャー、歴史、宗教といった、リベラリズムでは説明できないシンボリックな価値を守ります。
リンドはナショナル・コンサバティズムを提唱し、1950〜1960年代の多元主義を支えたエスニックカルチャーを核とした、アメリカンナショナルカルチャーを重視しています。
リンドはこのカルチャーこそ保守したいと考えているのでしょう。

古川:
リベラルな民主的社会の基盤にはナショナルな文化やアイデンティティの共有が必要だというのは、リベラル・ナショナリズムと呼ばれる理論です。
これは近年では、むしろカナダやオーストラリアの多文化主義者たちから支持されています。
多元性を尊重すればするほど、それを1つのネーションを統合する共通文化の必要性が、よりいっそう切実になるわけです。
それが自然に存在しないなら、教育を通じて人為的につくり出すしかないとまで彼らは考えています。

利害や価値観が異なっても、同じ歴史と運命を共有する仲間なのだという同胞意識があってはじめて、対話したりお互いに譲り合ったりしながら利害を調整することが可能になります。
そうでなければ、どうして見知らぬ他人のために俺がゆずらなきゃいけねーんだという話にしかならない。
見知らぬ他人を我が同胞だと想像する、まさに「想像の共同体」としてのネーションが、リベラルな社会には必要不可欠なのです。

施:
リンドはこの本ではあんまり強調していないですけど、やっぱりリンドはナショナリストなんですよね。
リンドが90年代に書いた『ネクスト・アメリカン・ネーション』(未邦訳)という本があります。
その中で、最初はアングロサクソン的なネーションであったアメリカが、次第にマイノリティや移民を取り込んでいき、人種の坩堝として発展していったことを説明しています。
アングロサクソン的なエスニックカルチャーが大本であるものの、さまざまなエスニックグループがアメリカのネーション形成に貢献し、多様な人々を取り込む国として進化してきたことが強調されているわけです。

しかし、『新しい階級闘争』では、民主的多元主義が成り立つためには、ネーションという大きな枠があって、そこで得られるナショナルな連帯意識が基盤として必要だということが、あまり触れられていません。
その連帯意識が、さまざまな利害を表明する中間共同体同士、ともすれば労働者と資本家であったとしても、同じナショナルなカルチャーやネーションを共有する仲間として、相互の調整も可能になるというのが民主的多元主義だと思うんですね。
だから民主的多元主義というのは、私は根本的にナショナルなものだと思います。

中野:
多元主義の基礎にある「ナショナルなもの」というのは、何か。
一昔前のアメリカではよく、自由や平等といった、リベラル的価値観で集まったネーションだというふうに言われていました。
けれども、実はかなり西洋由来の、あるいはキリスト教的なエスニックカルチャーが基盤にあってのリベラリズムだったということが、今回、決定的に明らかになってしまった。
だとすると、エスニックカルチャーをコアにした「ナショナルなもの」が破壊されたんだとしたら、もはやリンドに処方箋が出せるわけがない。
そんなもの、人為的につくれないんだから、ということなんじゃないですか。

解決のヒントは「労働者階級の二面性」にある
佐藤:
みなさんが問題にしていることに答えを提示しうるのは、労働者階級が真に抱いている価値観、より正確にはその二面性かもしれない。
アメリカ社会が輝いていた1950〜1960年代に、伝統的価値観を擁護する人たちが反発した文化現象の代表例はロックンロールです。
ところがご存じのとおり、ロックは労働者階級が生み出した音楽。
「労働者=地域に根ざした伝統的価値観の担い手」というリンド式の解釈では説明がつきません。

この点をみごとに説明したのが、労働者階級出身のロック評論家デイヴ・マーシュ。
彼はこの時代の若者文化を「パンク(不良)」と「ヒッピー」に分けて論じました。
パンクは労働者階級に属し、ヒッピーは中産階級に属します。
両者は何が違うのか。
中産階級のヒッピーには、社会を全否定できるだけのゆとりがあるんですよ。
ところがパンクの場合、社会の崩壊はすぐ自分の懐に響いてくる。
貧しく抑圧されているのだから、反抗するのは必然としても、社会への尊敬もまた必然だった。

リンド風に言えば、まさに「拮抗力」が働いているのです。
それも内面で。 ロックはこのような反抗と尊敬の葛藤から生まれたのですが、人気が高まって大金が動くようになると、どうしても中産階級化、つまりヒッピー化が進む。

尊敬なしの反抗に走ってしまったものの、これでは長続きしません。
かくして1970年代前半、ロックは停滞に陥るのです。
当の状態に活を入れた「パンク・ロック」が、アメリカ以上に階級格差の際立つイギリスで生まれたのも偶然ではないでしょう。
その意味でパンクの精神にこそ、対立と葛藤を統合に導く多元主義の基盤が見出せるかもしれない。
現にロックンロールは、貧しい白人の音楽であるカントリーと、黒人の音楽であるブルースが融合したもの。
エルヴィス・プレスリーが「黒人の音楽性と、黒人の感触を持った白人」と位置づけられたのは有名な話です。
つまりエスニックの枠を超えている。

リンドが満足な処方箋を提示できないのも、労働者階級をロマンティックに美化したあげく、物の見方が一面的になったせいかもしれませんよ。
これはエリートが民衆に肩入れする際の通弊です。
ただしアメリカには、管理者エリートへの抵抗が広まるのを阻害する要因もあります。
怒りの葡萄』で知られるノーベル文学賞作家のジョン・スタインベックいわく。 「なぜアメリカには社会主義が根づかないのか。この国の貧しい人々は、自分たちを搾取に苦しむプロレタリアートではなく、一時的な不運に見舞われた億万長者だと思いたがるのさ」。
-ボロを着ていても心は管理者というわけながら、これでは階級闘争になりません。

慣習や文化による連帯意識が秩序を安定化させる
施:
中野さんの主張に重ねると、
リベラルと保守の連帯意識の違いは、リベラルが政治的原理への同意に基づく連帯を強調する一方、保守は慣習や文化など、半ば無意識なところで培われてきた連帯意識に着目し、それを重視するという点です。
保守は、こうした慣習や文化に基づく半ば無意識の連帯意識がなければ、安定した秩序を維持できないと考えます。
『ナショナリズムの美徳』を書いた保守派のヨラム・ハゾニーが、保守主義は秩序の哲学だといっています。
リンドのいう民主的多元主義もネーションの重要性を認識している点で、共通していると考えられます。

大戦時にも、社会主義者は階級闘争がネーションを超えると思っていましたが、結局、階級の絆よりもネーションの絆のほうが強く、ネーションのほうが階級を超えてしまいました。
そういう意味で、ネーションには階級闘争を緩和する効果があるといえる。
だからこそ、ハゾニーやリンドがいうように、多数のネーションが併存・共存する世界を目指すべきであり、グローバリズムによるネーションの境界の取り払いは望ましくないと思うのです。

中野:
最後に、アメリカの保守の政治思想を研究されている井上先生に全体的な総括をいただけますか。

井上:
はい。みなさんがおっしゃるように、アメリカの多元主義は、ドーピングをした多元主義だったと思います。
やはり、抜きがたくホワイトネスによってつなぎ留められていた。
それ以外のエスニシティは、巧妙に周辺化されていたというのが正直なところです。
もちろんどこまでを白人に含めるのかについて、長い葛藤の歴史がアメリカではありました。
アイルランド系も長らく苦労がありましたし、東欧系やイタリア系などもなおさらで。

中野:
俺たちは、入らないんだ(笑)。

井上:
そうしたアメリカですから、アイデンティティ・ポリティクスが出てくるのは、つねにある種必然です。
ただ、マジョリティとマイノリティの関係は確かに重要ですけど、階級の問題が見えなくなってしまった。
したがって、リンドがこの本で階級の問題を再び取り上げ、アメリカに限らず収拾がつかなくなっている現在の社会で、共通の土台を探すために階級的平和の活路を示唆しているのは意義あることだと思います。

大学教員やメディアが改めるべき態度
私は先ほど中野さんがおっしゃっていた、個別具体的な問題解決に対して非常に共感を持っています。
私の政治的本籍地はたぶん左なのかもしれませんけれども、SNSのなかだけで昔の啓蒙知識人のような発言をしている人がもしいたとしたら、それはとんだお門違いだろうと思います。

右であれ左であれ、個々の問題や課題のなかですり合わせをしていく必要を感じます。
特に大学教員とメディアは、いまだに戦後の時代に縛られて、知識人然として人々を先導するというスタイルをとってやしないか、ということなんだと思います。
だから、大学生が民主主義は嫌いか、好きじゃないか以前に、面と向かっては言わなくても大学の先生に対して冷ややかな気持ちをもっているかもしれない。
あるいは、メディアが「マスゴミ」だと言われるのかもしれない。
われわれは抜きがたくニュークラスであって、その階級意識をきちんと自覚していく必要があると思います。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする