2023年07月02日

70代以降に「イライラした高齢者」と「ニコニコした幸齢者」がはっきり分かれていく"ささいな理由"

70代以降に「イライラした高齢者」と「ニコニコした幸齢者」がはっきり分かれていく"ささいな理由"
和田 秀樹(わだ・ひでき)精神科医
2023年07月02日 プレジデントオンライン

日本では、「老い」に対しネガティブなイメージを抱く人が多い。
高齢医療の専門家・和田秀樹さんは「70歳以降は幸せを感じながら生きる『幸齢者』と呼んではどうか。
幸齢者自身には『年を取ってもできること』の価値を見つめ直してほしい」という──。 (4回/全4回)
※本稿は、和田秀樹『幸齢者』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■「幸齢者」を目指した賢明な生き方
人間、70代にもなれば、以前ならできていたことが次第にできなくなっていきます。
そのことを思い知らされるような体験をすると、つい腹立たしくなったり、悲しい気持ちになったりする。
当然のことかもしれません。
とはいえじつは、70代でもかなりのことがまだできるのです。
ですから「できないこと」はもはやできなくなったのだ、と受け入れつつ、まだ残っている「できること」、つまり残存機能を今後も維持したり、いまの自分に何ができるのかについて、じっくりと見つめ直したりする――。
これが、「幸齢者」を目指した賢明な生き方だと思います。

■「できること」は立派な取り柄
パラリンピックは、障碍者に残された機能をいかにフル活用できるかを競う大会です。
高齢者には、この「パラリンピック的発想」が必要です。
「できること」を現在の自分の取り柄として目を向ける姿勢が、自分を助けることになるはずです。
なにも“ずば抜けた才能”である必要はありません。
若い人から見れば傑出した能力とはいえないようなことでも、この年代以降の人にとっては、「できる」ことそれ自体が立派な取り柄になるのです。
40代のころは、周りの人と同じスピードで歩けることに喜びを感じることはまずないでしょう。
しかし70代になって40代の人と同じ速度で歩くことができれば、それはとても素晴らしい残存機能ではありませんか。
毎日のごはんを料理して、たまにお客さんに自分が漬けた漬物を出すことができる。
一人で買い物に行くことができる。
誰とでも分け隔てなく話をすることができる。
素直に人を頼ることができる……。

そうした、ごく“ささやかなこと”ができるだけで、人生の支えになります。
裏を返せば、そうした“ささやかなこと”に幸せを感じられるようになる。
それこそが、年をとることのよさでもあると思います。

■「ものわかりのいい高齢者」を装うのはやめよう
“ささやかなこと”に幸せを感じられるようにしたいと言いつつも、だからといって必要以上に丸くならないようにしてほしいものです。
「もう70を過ぎたんだから、若い人に合わせなくちゃ」
「世の中のトレンドなんだから、受け入れなくちゃ」などと、ものわかりのいい高齢者を装う必要はありません。
むしろ少しぐらい頑固でもいいから、自分が長く生きて考えてきたことや、経験を通じて培ってきたものを伝えるぐらいの気持ちになったほうが、高齢になっても自然な生き方ができる気がします。

■「年寄りの昔話は嫌われる」は本当か
たとえば50代、60代の現役のころは、若い世代に自分の経験を話しても冷淡な反応しか返ってこなかったかもしれません。 「そんな昔話は聞きたくない」「いまはもう、そういう時代じゃない」…… といった反感も察してきました。
それがわかっているから、「年寄りの昔話は嫌われる」と、ついつい思い込んでしまいます。

現役を退いた70代が何か言ったところで、相手にされない可能性はたしかにあります。
「そんな考え、もう古いですよ」「いまの世の中には通用しませんよ」と否定されるかもしれません。
でも私は、どんなに高齢の方であっても、その人がポツンと漏らしたひと言に「なるほどなあ」「そのとおりかもしれないなあ」と感服することがよくありました。
言われたときはすぐにピンとこなくても、自分自身が年を重ねることで、「そういう意味だったのか」と頷(うなず)いてしまうこともありました。

■自分の思うところを主張し続けていい
ですから、自分が「こうあるべきだ」と思うことを主張し続けていいのです。
それが正しいかどうか、誰にも判断できないことがいくらでもあるのです。
高齢になってくると、何かふと考えが頭に浮かんだときでも、相手の意見に反論したくなったときでも、何も言わずに黙り込むことが多くなります。
自分の考えを「もう古いのかな」「偏屈に思われるかな」と封じ込めてしまうことがあります。
でも、相手や周囲の意見が正しいというわけではありません。
いろいろある考えの中の1つでしかないのです。

まして政治や経済、人生観の問題に、「ただ1つの正しい答え」などあるはずがありません。
答えはいくつもありますし、時代が変わればまた違う答えが出てくるでしょう。
どんな分野の常識でも、数年もしないうちに覆されたり、まったく新しい考え方が出てきたりするのは珍しいことではありせん。

■自分に筋を通す生き方
つまり、唯一絶対の正義が存在しない以上、自分の考えや答えも1つの見方として言葉にしていいはずです。
少なくとも、相手や周囲に合わせる必要はありません。
長く生きてきて自然に備わった考えを、そのまま表に出す。
自分自身に筋を通すとは、そういうことではないでしょうか。

じつは私は、そのことに10年くらい前に気がつきました。
それまでは、勉強するのは「答えを出すため」だと思っていました。
学びたいこと、知りたいこと、わからないことを勉強するのは答えを求めることだと思っていました。
ところがだんだん、「どんなものにもただ1つの答えはない」と考えるようになりました。
医学常識だって変わっていきます。
つまり、どれが正しい答えなのかは半永久的にわからないままなのです。
むしろ、答えや選択肢を複数同時に持っていられること、それが本当の賢さだと思うようになりました。

■70代からの「勉強」とは
そうだとすれば、人生勉強とは、さまざまな可能性を求める行為になってきます。
「こういう可能性もある」「そうはならない可能性もある」と考えながらいくつもの答えを探していく、それが本当の勉強なのではないかと思うようになりました。
自分がいま「確かだ」と持っている答えも、本当は正しくないかもしれません。
世の中にはときどき、一方的に自分の考えを押しつけてくる人がいます。
そういう人に対して、私はこう反論することにしています。
「でも、その説が絶対正しいという根拠はありませんよね」
「その答えは、ずっと先々まで正しいと思っていられますか?」
そう言えば、たいていの人は、「まあ、それはそうですけど……」とおとなしくなります。

■学ぶ楽しさに終わりはない
ただ1つの答えを見つけるのでなく、いくつもの答えを考えられるようになるのが、本当の勉強です。
いろいろな可能性を探っていくのが勉強だとわかれば、学びに終わりはなくなります。
答えが1つ見つかっても、「それだけだろうか」「ほかにも可能性はあるんじゃないか」と考えれば、まだまだ勉強は続きます。

勉強と聞くと、高齢の方は「もういいや」と敬遠しがちです。
「難しいことはもう頭に入ってこない」「いまさら勉強したって目指すものがない」と考えてしまいます。
でも、本当にそうでしょうか?

70代でも80代でも、テーマを決めて勉強に取り組んでいる方はたくさんいます。
みなさん、元気で輝いています。
たとえば、地域の図書館や公共の施設ではさまざまな分野の学習会が開かれて、年代を問わず学んでいる人が大勢います。

■高齢になったからこその「勉強」とは
勉強という言葉は、どうしても受験勉強を想起させます。
答えはたった1つしかない。
その答えをたくさん暗記することで高い評価を得て、ライバルを蹴落とす。
そういうイメージが強いことでしょう。
初等・中等教育の段階では、暗記や詰め込みは大事です。
でも高等教育や社会に出てからは、そういうものはあまり必要ありません。

さまざまな知識を身につけ、答えをいくつも知っていくこと。
さらに、その知識をもとに自分で考えをまとめていくこと。
それこそが勉強だと考えれば、高齢者でも構えないで参加することができます。

■いくつになっても1日1日賢くなるのが人間
実際、70代で大学の科目単位の講義を受けたり、大学院に入り直してやりたかった勉強を再開させたりする人もいます。
そういう人たちに共通するのは、「もっと知りたい」という素朴な向学心です。
ただ1つの答えを探すのではなく、いろいろな考え方や見方を知りたい、いまよりももっと賢くなりたいという、いくつになっても残り続ける向学心が人間にはあります。
本を1冊読む、講義を聴く。
勉強すればそのぶんだけ賢くなります。
1日1日、少しずつ賢くなっていく。
70代だろうが80代だろうが、これはやはり大切なことであり、嬉しいことだと思います。
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小だぬきも4月から70歳。
認知症の前兆をしるために「認知症」の学習。
ディケアの聴覚障害の方と話すための「手話」の学習。
永六輔さんの著作の読破。
政治・経済への興味。
「ニコニコした幸歳者」として 出来ることを大切にしていきたいです。
posted by 小だぬき at 12:44 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マイナンバーカードと健康保険証が一体化した「マイナ保険証」のゴリ押しに医師が怒り

マイナンバーカードと健康保険証が一体化した「マイナ保険証」のゴリ押しに医師が怒り
2023年07月01日 日刊ゲンダイDIGITAL

【集中企画・マイナ狂騒】#7
 マイナンバーカードと健康保険証が一体化した「マイナ保険証」のトラブル解消に向け、厚労省は29日、「オンライン資格確認利用推進本部」の初会合を開催。対策がまとめられた。
本部長を務める加藤厚労相は「国民の不安や懸念の払拭を図り、安心して活用してもらえる環境整備を進める」と強調したが、むしろマイナ保険証のゴリ押しが強化され、医療現場は辟易している。
  ◇   ◇   ◇  
マイナ保険証によるオンライン資格確認をめぐっては、被保険者資格があるはずの患者が「無保険扱い」されてしまうトラブルが続出。
患者が医療費10割を請求されるケースが相次いだ。
 その対策として、厚労省は29日の会合で、遅くとも8月から患者負担を本来の3割などにする方針を決定。
患者の加入保険が最終的に不明のままでも、病院が医療費を取りはぐれないよう補填するとした。

初めてマイナ保険証を使う場合、念のために従来の健康保険証の持参も呼びかけるというから“お笑い”だ。
 新たな対策はあくまでも、国がマイナ保険証によるオンライン資格確認の利用を推進するため。
オンライン資格確認はマイナ保険証を使った場合に限り、医師が診察時に患者の薬剤情報や特定健診情報を閲覧できる仕組み。
服薬などの機微な情報を患者と医師が共有して診療に生かすことにより、国は「より良い医療が提供できる」とうたう。

しかし、利用推進を理由にケツを叩かれる病院はたまったもんじゃない。
 問題は、これらの対策によって病院の“面倒”が増えることだ。
医師が患者の薬剤情報などの個人情報を閲覧する際、本人確認と本人同意が必須。
薬剤情報などの活用について、厚労省は次のように掲げている。
〈これまでも、例えば、丁寧な問診やお薬手帳による確認等により、本人であることや実際の薬剤の服用状況、併用禁忌等について確認していることから、マイナンバーカードによるオンライン資格確認により閲覧した薬剤情報等を診察等において活用する際も、同様に確認することが考えられる〉

■あまりにも費用対効果が薄い
裏を返せば、マイナ保険証によるオンライン資格確認を使わなくても、「丁寧な問診」「お薬手帳による本人確認等」でコト足りるというワケ。
マイナ保険証によるオンライン確認を病院に徹底させる必要はないのだ。
 しかも、患者が初めてマイナカードで受診したり、所属する健康保険組合が変わったりした際、オンライン資格確認で得た情報と、診療申込書や問診票に記入された患者情報とを突合するよう、病院の受付窓口に要請。
オンライン資格確認のウリのひとつが「事務作業の手間削減」にもかかわらず、結果として作業負担が増える。
まったくもって本末転倒だ。

 そもそも、オンライン資格確認が、国の言う「より良い医療の提供」につながるかどうかさえ怪しい。
 いとう王子神谷内科外科クリニックの伊藤博道院長がこう憤る。
「端的に言って、マイナ保険証やオンライン資格確認を整備して健康保険証を廃止したとしても、医療の質が向上するとは到底、思えません。

マイナ保険証によるオンライン資格確認は、CTやMRIなどの画像データをオンライン上で共有・閲覧できるようなイメージを持たれていますが、すでに画像をデジタルデータとして閲覧・共有できる別の仕組みが構築されています。
薬剤情報などはお薬手帳で確認できますし、デジタル上で閲覧できてもPDFファイルなので、電子カルテに反映するには、結局、手入力に頼らざるを得ません。
オンライン資格確認は言ってしまえば、デジタルデータを使っているだけで、極めてアナログ仕様なのです。

メリットがあるとすれば、被保険者番号などを入力する受付窓口の手間が減るぐらい。
現行の保険証を廃止してまで強行すべきシステムなのか、あまりにも費用対効果が薄いと思います。
国の言う『医療の質の向上』とは一体、何なのでしょうか」

 現場の医師は怒っている。
政府はメリットもないポンコツシステムの利用促進を図るより、保険証廃止を撤回すべきだ。
posted by 小だぬき at 08:00 | 神奈川 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

脳の衰えを防ぎ、認知症予防にもつながる方法

脳の衰えを防ぎ、認知症予防にもつながる方法
2023年07月01日 ダイヤモンドオンライン

「頭の回転が速くなる」「誰でも脳の機能が向上しそう」「脳の老化防止に使える」「ゲーム感覚で小学生でも楽しめる」「たとえるなら、脳のストレッチ」「集中力や記憶力が伸びた」などの声が届いた、くり返し楽しんで使える『1分間瞬読ドリル』(山中恵美子著、ダイヤモンド社)は、何歳からでも6つの力が飛躍的に伸びます。

間違ってもOK。
1分間で与えられた課題を見ていくだけで、「記憶力」「思考力」「判断力」「読解力」「集中力」「発想力」が抜群にあがります。
子どもには、これから必要とされる「考える力」や勉強脳が磨かれ、覚えに不安があるシニアはボケ防止に使える、そして、大人は脳機能を高めていくことができるのです。
10歳から100歳まで、誰でも簡単に続けられる『1分間瞬読ドリル』で、脳をよくしていきましょう!

■「忘れ物が多い。認知症の始まりかも」、それ違います!
「出かける前は覚えていたのに、忘れてしまった!」 「かばんに入れたと思ったのに……」  そんな経験、ありませんか? でも、これ誰にでも起きることです。
なぜなら人間の脳は、記憶したことを忘れるようにできているからです。
裏を返せば、忘れるのは当然なこと。

 昨日の晩ご飯は、何を食べたか思い出せますか?
1週間前のお昼ご飯は? 1カ月前の晩ご飯は?  すぐには出てこないですよね。
でも、1カ月前のお友だちの誕生日をサプライズでお祝いしていたとしたら、どうでしょうか。
食べたものや、飲み物まで思い出すことができませんか。

 特別な出来事は覚えているのに、1週間前のお昼ご飯や1カ月前の晩ご飯は、日常で特別な出来事ではないので、あまり記憶に残りません。
 いつもと違うことをすると、脳に刺激を与えます。
脳に刺激が与えられると、脳は「重要なこと」だと判断し、その情報を記憶に残そうと働いてくれるのです。
 また、いつもと違うことをすると、「楽しい」「面白い」などの、自分自身の感情が伴い、その光景をイメージで記憶することができます。
「いつもと違うことをすると記憶に残る」「イメージで覚えたことは記憶に残る」は、脳の大きな特徴なのです。

■認知症を予防するには?
 国民病と言われる認知症。
2年後には、5人に1人は、認知症を発症していると予測されています。
 毎日、いつもと同じ日を過ごしていると、脳への刺激が少なくなり、脳を使わなくなるので、発症しやすくなるとも言われています。
 つまり、いつもと違う日を過ごすことが、認知症予防につながるのです。
いつもと違う日というと、何か大それたことをイメージされるかもしれませんが、日々、些細なことでも大丈夫です。
 たとえば、「いつもは車通勤だけど、たまには電車やバスを使ってみる」「いつもはこのお店でご飯を食べるけど、今日は違うお店に入ってみる」「いつもはこの帰り道だけど、少しちがう道を通ってみる」などです。

 少し、いつもと違うことをするだけで、こんなことがあったんだ!という発見、気付きが、脳への刺激になります。
 また、その発見や気付きに、「面白い」「楽しい」「また来よう」などの、自分自身の感情が伴うと、イメージでその光景を記憶でき、更なる脳への刺激になります。

 毎日同じことを選ぶのではなく、たまには、いつもと違ったことをしてみましょう。
そうすることで、脳の衰えを防ぎ、認知症予防にもつながるのです。

*本記事は、『1分間瞬読ドリル』の著者による書き下ろしです。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする