2023年07月13日

普及に取り憑かれている…「暴走機関車」と化したマイナンバーシステムが迎える「末路」

普及に取り憑かれている…「暴走機関車」と化したマイナンバーシステムが迎える「末路」
加谷 珪一
2023.7.12 :現代ビジネス

マイナンバー制度がもはや暴走機関車と化している。
問題が明らかになっても立ち止まることができなかったり、手段と目的を取り違えるといった話は、近代日本が抱える「病」そのものだが、再び同じ過ちを繰り返そうとしている。

当初の目的を見失っ
マイナンバー関連システムは、深刻なトラブルが相次いでおり、制度そのものの是非が問われる状況となりつつある。
だが、政府は一貫して決まったスケジュールでのマイナンバーカード普及を絶対視しており、変更するそぶりは全く見せていない。
普通に考えれば、これだけ多くの問題が発生してる以上、全体のスケジュール見直しや、プロジェクトの再検討が行われてしかるべきであり、その方が結果的には良いシステムが出来上がるはずだ。
だが現実はその反対であり、最悪の事態に向けて突っ走っているように見える。

全土が焼け野原になるまで止められなかった太平洋戦争や、巨費を投入した国策半導体企業の相次ぐ失敗、600兆円の国債を保有するまで猪突猛進した日銀の異次元緩和策など、日本は何度も同じ失敗を繰り返している。
なぜ日本という国は、肝心なところでこうした過ちを犯してしまうのだろうか。

マイナンバーカードに付随して発生した諸問題については、個別案件としては様々な要因が存在するものの、根本原因はハッキリしている。
それは、すべてのデータを固有(ユニーク)な番号で一元管理し、システム上で統合できるようにするという、当初の目的を認識できなくなっていることである。
そもそも、なぜマイナンバーを導入するのかというと、政府や自治体、金融機関などが保有している個人情報を相互に連携できるようにするためである。
あくまでデータを相互連携することが目的であって、システムを接続することが目的ではない。
だが現状では、各機関が保有するデータの書式や管理方法がバラバラであるため、システム上で簡単には連携できない状態となっている。

準備がおざなりなまま、連携がスタート
たとえば銀行では、名前について「漢字」に加え、カタカナで表記した「フリガナ」を用いて管理している。
一方、戸籍にはふりがなという概念はなく、漢字でしか本人を表記することができない。
そうなると漢字の読み方が分からない場合、その人物が本人であることを厳密に特定することができなくなってしまう。
組織の現場では、住所、生年月日など、他の項目から総合的に判断しているわけだが、この「総合的に」というのが曲者であり、複数の情報からある程度のあたりをつけ、手作業で本人と特定せざるを得ない。

このままで、複数のデータベースを連結したり、データを相互運用するのが危険であることは容易に想像してもらえるだろう。
こうした状況を回避するための仕組みがマイナンバーである。
全ての国民に唯一の固有番号が振られ、それが、あらゆるデータベースに確実に反映されていれば、番号を辿るだけでその人であることが分かり、データ連携も簡単に実現できる。これがマイナンバーを導入する究極的な理由である。
逆に言えば、この状況が確立されない限り、データ連携や紐付けは行うべきではない。

 マイナンバー自体は2015年にすでに全国民に付与されているが、適切に制度を運用するためには、すべてのデータベースに番号が完全に反映され、間違いがないのかチェックされた状況であることが必須となる。
データの書式統一やチェックが不完全なまま、1億2000万人分のデータを連携すれば、無数のトラブルが発生するのは当然のことである。
ところが現実には、こうした準備がおざなりのままデータ連携が行われ、住民票を請求すると別人の証明書が出てきたり、本人のものではない情報が紐付けられるといったトラブルが続出している。

一連のエラーをゼロにすることは不可能だが、少なくとも相互連携を開始するまでに何度もチェックを行い、データの状態を完璧にしてからであれば、ここまで深刻な問題は発生しない。
実際、各国はこうした手順を踏んで、行政のIT化を進めてきた。

カード普及にとりつかれている
ちなみにこうした確認作業は、紙の時代からどれだけ厳格に情報を管理できていたのかによって負荷が大きく変わってくる。諸外国が比較的スムーズにデータ連携を実現できたのは、紙の時代から書式の統一や固有番号での管理、重複のチェックが行われていたからである。

日本は、紙の時代から情報管理が杜撰だったにもかかわらず、その現実を無視してスケジュールを一方的に決め、強引にプロジェクトを推進してしまった。
政府はマイナンバー制度を着実に実施することよりも、「マイナンバーカード」を普及させることが最優先事項となっているようであり、実際、「マイナンバーカード」の普及に、取り憑かれたように邁進している。

ちなみにマイナンバーカードというのは、マイナンバー制度の中のごく一部の仕組みに過ぎず、カードがなくてもマイナンバー制度は何の問題もなく運用できる。
カードを使うことで、本人確認に利用する、ポイントを付与するなど、利便性が多少良くなるという程度に過ぎない。
だが日本の場合、マイナンバーカードに政治・経済的利権が絡んでいることもあり、カードの普及が最優先となっている。
結果としてデータの確認や整理が十分に行われないまま、無理やりデータを紐付けているので、逆に手作業での確認作業が必要になるといった本末転倒な事態が発生している。

一連の状況に拍車をかけているのが、日本における前近代的な意思決定の仕組みである。
政府内部や業界関係者にも、プロジェクトのあり方がおかしいことに気づいていた人は存在しており、一度、立ち止まってスケジュールを再検討すべきという声が出てきてもおかしくなかった。

だが日本では、プロジェクトが最悪の事態を迎えない限り、こうした声が表に出るケースは少ない。

半導体支援でも同じことが
太平洋戦争当時も、米国との体力差があまりにも大きく、全面戦争は不可という結論が出ていたにもかかわらず、その声はなぜか封印された。
巨額の国費を投じた半導体企業支援策や異次元緩和策についても同様である。
一連の施策について冷静な指摘は多かったが、メディアは「日の丸半導体復活!」「これしかない!」などと煽り、冷静な意見はほとんど無視されてしまった。

冷静な意見が葬られる原因としてよく指摘されるのが「声の大きい人への忖度」である。
確かに、声の大きい人物が、自らの利益のために無謀なプロジェクトをゴリ押し、周囲がそれに忖度するという図式が存在するのは間違いないだろう。
だが、今回のケースを見ても明らかなように、絶対的に逆らえない「独裁者」が存在し、誰もが嫌がっているのに、独裁者を止めることができない状態なのだろうか。そうではないはずだ。

プロジェクトをゴリ押しすることで直接的に利益を得られる人の政治力はそれほど大きいわけではなく、周囲が何となくストップがかけられない状況に近い。
このような力学になってしまうのは、日本の組織が依然として社会学で言うところのゲマインシャフト(前近代的なムラ社会)であることが大きく影響している。
ゲマインシャフトにおける意思決定というのは、「論理」ではなく「情緒」で決まる。
もし、ある人が何らかの経済的理由でマイナンバーカードをすぐに普及させたいと考えた時、それが非合理的であったとしても、周囲の人にはそれを止めるインセンティブは働かない。

行き着く所まで行く
なぜなら、自分が別の案件でちょっとした利益を得られそうな時には、自分の案には皆が賛成してほしいと考えるからである。
つまり、相手に甘くする代わりに、自分にも甘く接して欲しいという情緒的なメカニズムが働くため、多くの案件で歯止めが効かなくなってしまうのだ。
こうしたムラ社会では、時にプロジェクトを遂行するリソースがすべて尽きてしまうまで暴走が止まらなくなる。
失敗が明らかになっても、相互の甘えや情緒が優先するため、プロジェクトの失敗を明確に検証し、責任の所在を明らかにする作業は行われない。

こうした前近代的意思決定をやめない限り、マイナンバー制度は行き着く所まで行くだろうし、今後も同じ問題が繰り返し発生すると筆者は考えている。
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ドブにカネ!防衛産業救済の愚@

日本製兵器は性能が低く、価格は世界一…自衛隊創設から70年間の甘やかされてきた
文谷数重 元3等海佐・軍事研究家
2023/07/11  日刊ゲンダイデジタル

 岸田政権が防衛産業への支援強化を決定した。
国が資金を提供して兵器生産や兵器輸出を後押しする内容である。
6月に「防衛装備品生産基盤強化法」を成立させた。
 だが、もくろみどおりには進まないだろう。
 甘やかしてきたダメな子をさらに甘やかす内容だからである。

 まず、日本国内の防衛産業は自衛隊創設からの70年間、徹底して甘やかされてきた。
 防衛市場は保護主義で守られてきた。
防衛当局は安価で高性能な海外製兵器があっても買わない。
産業保護として高価格で低性能の国産兵器を購入してきた。
 またカルテルも公然と維持されてきた。

当局と業界は阿吽の呼吸で会社ごとにショバとなる製品を割り当てている。
戦闘機は三菱重工、哨戒機は川崎重工、中型ヘリは富士重工、飛行艇は新明和の形である。
企業は国内競争も免れてきたのである。
 契約や価格も非常識である。
以前は随意契約ばかりであった。
今の一般競争入札も新規参入は難しい。

支払価格も契約額ではなく商議で決める例も多い。
その場合は、かつての電力会社と同じ総括原価方式である。
生産性が低く努力もしない企業でも利益を確保できる仕組みである。
そのため、珍無類の状況が発生している。

 仕方なく海外兵器を導入する際にも、わざわざ国内生産をしている。
製造権を買ったうえで国内生産しているのだ。
だから本来の輸入価格の数倍となる。
 人口1億の国に軍用機メーカーが4社林立するのも珍光景である。
また軍用銃器メーカーも3社ある。

 問題となった過大請求もその結果である。
実際の支払額が商議で決まる。
だから工数の水増しや契約間の付け替えが横行したのだ。

■甘やかし尽くせば腐る
 これでは防衛産業がダメになるのは当たり前である。
甘やかし尽くせば腐るのである。
日本の防衛産業が衰退しているのは、国防族がいうように憲法9条や武器輸出三原則のせいではない。
 当然だがロクな兵器もできない。
日本製兵器は性能がイマイチ、使い勝手は悪く信頼性も怪しい。
それでいて価格だけは世界一ときている。

 すでに中韓の兵器産業に負けている。
そのうち北朝鮮にも負けるのではないか。
 政府はこのダメな防衛産業をさらに甘やかそうとしている。
「防衛装備品の生産基盤強化」と称して従来以上に手厚い産業保護を進めようとしている。
 間違いなく無駄金に終わるだろう。
何よりも当の業界に自立心がない。

国の産業保護に依存し、さらには最適化してきた産業である。
さらに甘やかしても何にもならない。 
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池上彰氏「私は新聞をこうやって読み比べている」 新聞はどこも同じではなく、論調の違いがある

池上彰氏「私は新聞をこうやって読み比べている」
新聞はどこも同じではなく、論調の違いがある
2023.7.12 東洋経済オンライン

新聞を読む人が減っています。
.そうした中、池上彰さんは「新聞を読む人が減ったことで、新聞を読んでいるだけで他人に差をつけることが可能になった」と言います。
池上さんの新刊『新聞は考える武器になる 池上流新聞の読み方』よりそのメッセージを抜粋してご紹介します。

自分が読みたい記事とは関係ない記事
新聞の魅力は何でしょう?
私は「ノイズ」だと思います。
新聞を広げて読んでいると、自分が読みたい記事とは関係なく、勝手に目に飛び込んでくる記事があります。
「これ何だろう? 初めて見た」 「世の中こんなことになっていたのか!」 などと興味を持ち、ちょっとネットで調べてみようということもあります。
ネットでは、多くの人は基本的には自分の興味のあることを検索し、読みたいと思っている人のツイッターをフォローします。
SNSでつながっている人は、感性も趣味も似ているのではないでしょうか。
すると、目に入ってくるのは、特定の分野の似たような情報ばかり。
タコツボ化していくばかりで、世界が広がっていきません。

一方、新聞では、いやおうなしに、興味のない記事も目に入ります。
そこから興味関心が広がっていきます。
思いがけない出合いを楽しみにして、私は毎日、新聞を読んでいるのです。
新聞を読んで興味や関心の幅が広がれば、専門分野以外のことでも、人と話せるようになります。
たとえば営業担当にとっては、欠かせないスキルでしょう。
新聞で仕入れた知識で「いい質問」をし、「この人はちょっと違うな」と信頼を勝ち取れるかもしれません。
時間が許せば、紙面の下のほうに控えめに載っている「ベタ記事」にも目を通したいですね。
記事が小さいからといってバカにできません。
後々大きな問題に発展し、重要性に気づくこともあるのです。

新聞からは「伝える」コツを学ぶこともできます。
新聞は見出しやリードだけで、あらましを理解できるように作られています。
見出し→リード→本文という流れは、忙しい読者が効率的に情報を入手できるよう洗練されてきた構造です。
本文も5W1H(Who、When、Where、What、Why、How)をストレートに伝えているだけではありません。
起承転結という流れではなく、いきなり結論から入ったり、衝撃的な証言を冒頭に持ってくることもあります。
つまり、出だしの部分、いわゆる「つかみ」に工夫がこらされています。

新聞には知識を蓄積していくインプットの力はもちろん、アウトプットの力も磨けるヒントが詰まっているのです。
今から50年くらい前、私が学生だった頃、『◯◯新聞』という題字を隠してしまえばどこの新聞だかわからないと言われたものです。
つまり、新聞が違っても、書いてあることはどこも同じというわけです。
たとえば、1959〜60年、1970年の二度にわたって行われた、日米安全保障条約の改定をめぐる政治闘争、いわゆる「六〇年安保」のときの新聞報道です。
デモ隊が国会議事堂に突入し、機動隊と衝突して、一人の女子学生が死亡しました。
新聞ごとの論調の違いはどのように出てきたのか この事件について、在京新聞7社が「暴力を排し議会主義を守れ」と、まったく同じ文言の社説を掲載しました。
この「7社共同宣言」は地方紙にも広まりました。
この事件が起こるまで、日米安全保障条約をめぐる社説は、新聞によって主張が異なりました。
それが突然、まったく同じになってしまったのですから、当時は大きな議論を呼びました。

現在はどうでしょう?
憲法改正、原発再稼働、沖縄の基地問題など、新聞によって論調が分かれていることが多いのではないでしょうか。
大雑把にいえば、「朝日・毎日・東京」がリベラル・左、「読売・産経」が保守・右、真ん中に「日経」があるといった構図でしょう。
ただし、昔からずっとそうだったわけではありません。
時代によって、新聞社の体制によって、論調は変化してきたのです。
たとえば、かつて読売新聞は「反権力」色の濃い新聞でした。
1950年代から60年代にかけて、社会部が大きな力を持っていたからです。
しかし、今ではすっかり政権寄りの新聞とみなされています。
政治部出身の渡邉恒雄氏が社内で力を持ったことが理由のひとつです。

主体的に判断する、自分なりの基準を身につけて
日本の多くの新聞社では、政治部が出世の最短コース。
経済部、社会部と続きます。
社内政治によるパワーバランスが、新聞の論調に大きな影響を及ぼしています。
かつて新聞ごとの論調の違いは、社説で論じられていました。
各紙とも社説で意見を戦わせていました。
しかし近年では、記事にも各紙の論調が明確に現れるようになってきています。
たとえば、憲法改正について、朝日新聞・東京新聞には、反対集会や批判的なコメントが多く取り上げられ、賛成する人のコメントは目立ちません。
逆に読売新聞・産経新聞には、賛成する意見ばかりが多く掲載される傾向があります。
それぞれの新聞に個性・特徴が出てきたのは、けっして悪いことではないと、私は思います。
もちろん、裏づけのある事実を伝えなければなりませんが、伝え方が異なるのは当たり前です。
れっきとした民間企業なのですから、個性的であってかまわないのです。

一方、テレビやラジオは事情が違います。
放送メディアは中立の立場を守らなければなりません。
電波という限られた資源を使っているため、国の免許事業となっているからです。
放送法という法律で「政治的に公平であること」などと定められています。

新聞は自由に持論を展開でき、伝え方を選べます。
だからこそ、受け手の姿勢が大切です。
新聞の個性に引っ張られるのではなく、読者として主体的に判断する、自分なりの基準を身につけていきたいものです。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする