人間爆弾「桜花」と新幹線0系、その数奇な関係
殉職したはずの「発案者」、実は生きていた
神立 尚紀 : 写真家・ノンフィクション作家
2023/08/15 東洋経済オンライン
1945年、日本の敗戦により太平洋(大東亜)戦争が終結し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命でいっさいの軍事活動が禁じられると、それまで陸海軍の研究機関や軍需産業に従事していた多くの技術者が一般の産業分野に流れ込み、戦後日本の復興に大きく貢献した。
その技術移転の範囲はきわめて多岐にわたるが、「世界一優秀」と称される鉄道技術の分野においても、技術者たちが戦時中培った技術や理論を基礎に、重要な役割を果たしている。
特筆すべきは、かつて「夢の超特急」といわれた東海道新幹線の開発に際して生かされた、戦時中の航空技術者たちの研究の成果だろう。
なかでも「人間爆弾」とよばれた特攻兵器桜花を設計した三木忠直は、重い十字架を背負いつつ、平和産業の象徴ともいえる新幹線の車両開発に執念を燃やした。

「桜花」はどのように生まれたのか
海軍航空技術廠長の和田操中将から設計課主任・山名正夫技術中佐のもとへ、「グライダー爆弾の案を持ってきた者がいる。説明するから廠(しょう)長室に来い」との電話が入ったのは、1944年7月のことだった。
海軍航空技術廠(空技廠)は、横須賀市の追浜に本廠、横浜市の金沢八景に支廠を置き、2000人の職員と3万2000人の工員を擁する、海軍の航空機開発、実験をつかさどる組織である。
山名は、新型機の設計を担当する設計課第三班長だった三木忠直技術少佐をともなって、和田中将のもとへ赴いた。
三木は東京帝国大学工学部を卒業後、空技廠に入った技術士官で当時34歳。
双発の陸上爆撃機「銀河」の設計主務者として、急降下爆撃、水平爆撃、雷撃(魚雷攻撃)を一機でこなす流麗かつ高性能な機体を生み出したばかりで、その手腕が高く評価されている。
新型機の研究、開発の仕事に多忙をきわめていた三木は、「どうせまた、すぐには実現困難な案にすぎないだろう」と考え、あまり気乗りしないまま廠長室に向かった。
廠長室には、和田中将と向かい合って大柄な男が座っている。
差し出された名刺には「海軍少尉 大田正一」とあり、右肩のところに「第一〇八一海軍航空隊」とペン書きで添えられていた。
和田中将にうながされて、大田が鉛筆書きの設計図を広げる。
そこにはプロペラも脚もないグライダー爆弾の姿が描かれ、頭部と尾部からのびた引出線の先には、それぞれ「爆薬」「ロケット」と記されていた。
さらに図面の隅には、グライダー爆弾を双発の一式陸上攻撃機(一式陸攻)の機体に吊るした図が添えられている。
一式陸攻で運び、敵地上空で投下するということのようだった。
「それで、誘導装置は?」やや辟易しながら、三木は訊いた。
「人間を乗せます」大田は答えた。
「なんだって?」三木は思わず声を上げた。
大田の説明によれば、一式陸攻で敵艦の近くまでグライダー爆弾を運び、人間が乗り込み、投下する。
あとは滑空しながら搭乗員が操縦し、ロケットを噴かせて敵機の追撃をかわし、敵艦に体当たりする。
つまり、人間が誘導装置になるのだという。
技術は人間を助けるためのものなのに、人間の命を機械の一部品として使うような兵器をつくるのは技術への冒瀆だ、と三木は感じた。
「なにが一発必中だ。そんなものがつくれるか! 冗談じゃない」憤然として首を振る三木に、和田中将が、「技術的な検討だけでもしてあげたらどうか」ととりなす。
三木は大田に、「体当たりというが、いったい、誰を乗せていくつもりだ」と疑問をぶつけた。
「私が乗っていきます、私が」 気迫に満ちた大田の答えに、三木は不意をつかれた思いがしたという。
発案者が自ら操縦し、“殉職”へ
結局、大田の案は採用され、発案者・大田正一の頭文字をとって○大(マルダイ。○のなかに大)と名づけられた「人間が操縦するグライダー爆弾」――のちの桜花――の設計を、三木が担当することになる。
桜花の開発は順調に進み、桜花特攻の部隊として第七二一海軍航空隊(神雷部隊)が編成される。
神雷部隊は1945年3月21日を皮切りに、九州、沖縄にアメリカアメリカ艦隊の攻撃に出撃したが、優勢なアメリカ戦闘機に阻まれてその多くが撃墜され、桜花は海軍が期待したような戦果を挙げることはできなかった。
神雷部隊の戦没者は、桜花搭乗員55名をふくめ829名にのぼる。
終戦3日後の1945年8月18日、桜花を発案した大田正一は、零式練習戦闘機を自ら操縦して茨城県神之池基地を離陸し、空のかなたに消えた。
海軍は、大田を「公務死」(殉職)と認定、その存在を抹消した。
戦争に負けた日本は、占領軍(GHQ)によって航空機産業を禁じられた。
三木は、特攻兵器を設計した自責の念から「二度と戦争に関わらないように」と、軍事に転用される可能性が低いと思われた鉄道技術者になることを決意し、運輸省鉄道技術研究所(1949年、国鉄に移管)に転身する。
このとき、三木とともに鉄道技術研究所に入ったなかには、振動学の権威で、空技廠で零戦や桜花の振動問題を研究、解決した松平精もいた。
松平は当時のことを、私に次のように語っている。
「国立にある研究所に行ってみたらびっくりしましたね。
研究所というからには大きな建物や実験棟があって、と想像してたんですが、そんなもの全然ないんですよ。
森のなかにバラックが3棟ぐらいあるだけで、そのバラックの裏はイモ畑になっていて職員がイモを掘ってる。
私はそれまで海軍空技廠という世界有数の研究所にいたから、こんなところでなにができるんだろう、と思いましたね」
飛行機に限らず物体が高速で動けば、自ら振動を発生する(自励振動)という性質がある。
このことを空技廠で、世界に先駆けて研究したのが松平だった。
しかし、脱線事故の調査に携わった松平が、「高速走行で、列車が自励振動による蛇行動を起こしたための脱線」と事故原因を突き止めても、昔からの鉄道技術者は「レールの曲がりが原因」として、「スピードの出しすぎ」という運転手の人為的な責任を認めようとしない。
車両設計に携わった三木忠直にしても、航空機の経験から、「車体を流線形にして空気抵抗を軽減し、なおかつ車両を軽量化すればスピードは上げられる」と主張したものの、「車体は重いほうが安定して走れる」と頑固に考える鉄道技術者を説得するのは至難のわざだった。
「夢の超特急」誕生のきっかけ
ところが、あることをきっかけに三木や松平の考え方が広く世の注目を集めることとなる。
1957年5月30日、鉄道技術研究所が50周年記念事業として開催した、「超特急列車、東京−大阪間3時間への可能性」と題する講演会である。
当時、7時間半を要した東京−大阪間の所要時間を半分以下に短縮しようというのだ。
これは、三木が生前私に語ったところでは、当時、普及し始めた航空機輸送への対抗策との意味合いもあったという。
この講演会は国電の車内吊広告で告知され、朝日新聞にも予告記事が掲載された。
講演会当日はあいにくの雨だったが、会場となった銀座・山葉ホールには定員の500人をはるかに超える聴衆が詰めかけた。
はじめに鉄道技術研究所長・篠原武司が、広軌(標準軌)で新しい路線をつくれば、「東京−大阪間3時間」は到達可能であることを述べ、次に貨客車研究室長だった三木が「車両について」、軌道研究室長・星野陽一が「線路について」、車両運動研究室長の松平が「乗り心地と安全について」、さらに元陸軍の通信技術者で信号研究室長の川辺一が「信号保安について」のテーマで、それぞれ講演した。
三木が、「車両の空気抵抗を減らし、重量を軽くすれば時速200kmを超えます」と持論を述べたとき、会場にはどよめきが広がったという。
講演会は大きな話題を呼び、国鉄総裁・十河信二は自らの前でもう一度講演を行うよう鉄道技術研究所に要請、総裁や国鉄幹部を前にしての「御前講演」も実現した。
前年の1956年には国鉄本社に島秀雄技師長を委員長とする「東海道幹線輸送増強調査会」が設置されていたが、この講演を機に東海道新幹線建設がにわかに現実味を帯びることとなった。
国鉄は新幹線開発を8つの重点班に組織し、本格的な研究を始めた。
三木は、「美しいものをつくれ」と部下に命じて、空気抵抗の少ない先頭車両のデザインを粘土で作らせては壊すことを繰り返した。
それは、「形の美しいものはすぐれたものである」という、海軍時代からの信念に基づくものだった。
でき上がったデザインは、これまでのどんな鉄道車両にも似ていない、強いて言うなら戦時中、三木が設計した陸上爆撃機「銀河」や特攻機「桜花」の先端部分のイメージに似たものになった。
松平は飛行機の振動研究のノウハウを生かして、高速走行時の振動問題を抑え込むためのエアダンパーを考案した。
元陸軍の川辺一は、緊急時に自動停止するATC(自動列車制御装置)の研究に取り組んだ。
桜花の発案者は生きていた
もちろん、新幹線という国家的プロジェクトが彼らの力だけで完成したわけではない。
車両デザインにしても、国鉄は三木のチームだけでなく、車両メーカーからデザイン案を9案、出させたりもしている。
だが結局、いまでは「0系」と呼ばれる先頭車両の完成形は、三木が手がけたデザインとほとんど変わらないものになった。
車台の振動を吸収するダンパーにいたっては、松平のほかに設計できる技術者はいなかった。
そして1964年10月1日、東海道新幹線は華々しく開業の日を迎えるが、三木はそれを待たず、1962年4月、新幹線車両の走行テストが始まる直前、「自分の力は出し尽くした。絶対に自信がある。あとのことは心配ない」と鉄道技術研究所に辞表を出した。
三木は戦後、キリスト教に入信している。
桜花を設計し、多くの若者がそれで死んだことへの贖罪に後半生を捧げたが、戦後日本の復興と平和の象徴ともいえる新幹線車両を手がけたことが、三木の心のなかでひとつの安らぎとなり、区切りになったのかもしれない。
松平精は2000年8月4日、90歳で、三木忠直は2005年4月20日、95歳で、それぞれ世を去った。
ところで、「桜花」を発案し、終戦直後に死んだこととされた大田正一は、じつは生きていた。
戦後すぐの頃から、職と居場所を転々としながら桜花や空技廠関係者の前に幾度となく姿を見せ、「大田が生きている」ということは、いわば公然の秘密として三木忠直の耳にも入っていたという。
だが大田は、1951年を境に、ふっつりと関係者の前から姿を消した。
「闇屋どうしの争いに巻き込まれて殺されたのだ」という噂が流れたりもしたが、大田は戸籍を失い、「横山道雄」と名を変え、年齢を偽り、新たに築いた家族にさえ長いあいだ自らの正体を明かさずに、1994年まで生きたのだ。
私は、偶然に出会った大田の遺族を通じてその後の大田の数奇な生き方を知り、取材を重ねて今年6月30日、『カミカゼの幽霊』(小学館)という本を上梓した。
大田はなぜ、「死人」となって生き続けなければならなかったのかを、桜花を積極的に採用した海軍上層部の責任とともに解き明かそうとした一冊である。
桜花の発案者と新幹線0系の邂逅 戦後の大田の足取りを追ってみると、ときどき新幹線を利用した形跡がある。
太田はその車両が、空技廠で桜花の採用を談判したときのあの技術者が手がけたものだと知っていただろうか。
もし、戦後どこかで三木と大田が再会していたら、どんな会話が交わされただろうか。
私は、偶然に出会った大田の遺族を通じてその後の大田の数奇な生き方を知り、取材を重ねて今年6月30日、『カミカゼの幽霊』(小学館)という本を上梓した。
大田はなぜ、「死人」となって生き続けなければならなかったのかを、桜花を積極的に採用した海軍上層部の責任とともに解き明かそうとした一冊である。