【終戦記念日スペシャル対談:湯川れい子氏×神立尚紀氏】
人間爆弾「桜花」とニッポンの戦後の78年(前編)
2023.08.15 週刊ポスト
終戦から今年で78年。戦時を知る世代も高齢となり、その数は年々減っている。
後世にどのように戦争と平和を伝えていけばいいのか──軍人の家系に育った音楽評論家・湯川れい子氏(87)と、これまで500人以上の元軍人・遺族にインタビューをしてきたジャーナリスト・神立尚紀氏(60)が、貴重な思い出と証言を交えて語り合った。【前後編の前編】
戦死した兄の口笛
神立:
お兄様の湯野川守正さんには生前何度もお話をお聞かせいただき、大変お世話になりました。
本日はお会いできて、本当に光栄です。
湯川:
私も嬉しいです。
15歳上の次兄・守正は私にとって男性として一番魅力的な存在でした(笑)。
神立:
大変仲がよかったとお聞きしています。
湯川:
私には兄が2人いましたが、長兄と次兄とは、性格がぜんぜん違いましたね。
神立:
一番上のお兄様との思い出が、湯川さんが音楽の道を歩むきっかけになったそうですね。
湯川:
はい。昭和19年4月に海軍大佐だった父が亡くなり、その年の6月には18歳上の長兄に赤紙が届いて。長兄は戦地に行く直前、当時住んでいた家の庭に防空壕を掘っていってくれたんです。
3日間泥まみれになって掘る兄を、幼い私は母と庭にゴザを敷いて見ていました。
神立:
お母様は病弱でいらっしゃったとか。
湯川:
はい。母と私は兄の休憩のたびに手拭いを水で濡らしたり、お茶や梅干しを出したりしていました。
長兄は穴を掘りながら、私を退屈させないためか、童謡『めえめえこやぎ』などを歌ってくれて。
その合間に、すごくきれいな口笛を吹いていたんです。
それで「その曲は何ていう歌ですか」と聞いたら、「僕がつくった歌だよ」って。
神立:
上のお兄様はその後、フィリピン・ルソン島で戦死してしまわれる。
湯川:
そうなんです。ところが終戦後、驚きの体験をします。
中学生になった私が発熱して寝込んでいたとき、母が本ばかり読んでいるとまた熱が出るから音楽を聴いていなさいと、木製の大きなラジオを枕元に置いてくれて。
でも当時は音楽といっても浪曲ばかりで。
仕方なく進駐軍放送を聴いていたら、初めて聴くはずなのに私が一緒に歌っていたんです。
それが長兄の口笛の曲でした。
神立:
どんな曲ですか。
湯川:
調べるとハリー・ジェームス・オーケストラの『Sleepy Lagoon』という曲だとわかって。
アメリカでは1941年から翌年、つまり真珠湾攻撃の頃に流行った曲を、兄は口笛で吹けるほど聴いていたことになるんですね。
その驚きが、私の音楽に対する初めての大きな経験になったんです。
神立:
戦前は日本の若者もアメリカ文化に影響されていたようですよね。
湯川:
長兄が残した日記には、赤紙が届く1か月前まで外国映画を頻繁に観ていたと記録されていて、主演俳優の名前とか、寸評まで書かれていました。
茶封筒に入った洋楽レコードもいくつか残っていました。
神立:
戦争中は敵国の音楽を大っぴらには聴けなかったんでしょうね。
湯川:
思えば私が曲名を訊いたときは母も隣にいましたから、「いまアメリカでヒットしてる曲だよ」なんて言えるわけがない。
母は軍人の妻ですし、そんな敵性音楽を聴いていたら憲兵に逮捕された時代です。
aahhaah/\//肇慶は長兄は、危険を冒してでも聴くほど、アメリカの音楽が好きだったんですね。
神立:
そういえば鹿屋基地から出撃した特攻隊パイロットの辞世の句に「ジャズ恋し/早く平和が/くればいい」と詠んだものがあったそうです。
湯川:
戦争のせいで無惨に死んでいった若者が大勢いたということですね。
「私は泣きわめく女になります」
神立:
お兄様だけでなくお父様もモダンでしたか。
湯川:
はい。ばりばりの軍国少年だった次兄以外は、みんなモダンでしたよ(笑)。
私が3歳くらいの頃、週末の夜になると応接間の蓄音機に長兄や11歳上の姉が針を落として、両親がダンスを踊っていました。
神立:
当時としては、かなり珍しいですね。
湯川:
私は父の足の甲に乗って、太ももに抱きつき、サンドウィッチになってダンスしていました。
ワルツとかフォックストロットとか。楽しい思い出です。
それが私の音楽初体験だったと思います。
神立:
両親の出身地である米沢は文武両道の風土だそうですね。
湯川:
はい。特に父は漢詩が好きで、床の間には自作の詩が貼ってありました。父が息子たちに言っていた「千鈞の弩はけい鼠のために機を発せず」という言葉も強く記憶に残っています。
「大きな怒りは弱い者に向けるな」という意味だそうです。
神立:
お父様は連合艦隊司令長官だった山本五十六のご親戚だそうですね。
湯川:
父のいとこが山本五十六の妻にあたります。
海軍大佐だった父は中国の上海や青島で駐在武官を経験した後、軍令部で作戦指揮に携わった。
五十六さんとは海軍同士で、直のいとこのような付き合いだったようです。
神立:
次兄の湯野川守正さんは南方に出陣する際、戦艦武蔵に山本五十六さんを訪ね、挨拶されたとおっしゃっていました。
湯川:
私も五十六さんのお葬式に出ているんです。まだ小さかったから、天皇陛下からの供物の落雁が積まれているのを見て「一つほしいな」と思った記憶が(笑)。甘いものがない時代でした。
神立:
次兄の守正さんは昭和19年8月に特攻隊に志願、10月には神雷部隊に配属されています。
その頃のことは覚えていますか。
湯川:
私と母と姉は米沢の祖母宅に疎開していました。
ある日「今日は大切なラジオを聴きましょう」と言われ座らされました。
耳管にり時間になると次兄の「ただいまからお国のために戦ってまいります」という元気な声が聞こえて、母もそれが息子の最後の声だとわかっていたはずですが、涙ひとつ見せませんでした。
神立:
守正さんは人間爆弾ともいわれた「桜花」の分隊長になられますが、出撃のないまま終戦を迎えています。
しかし、さらに密命がくだり、島根県の温泉津という町で「海軍一等整備兵曹・吉村実」として、潜伏生活を送ったと聞いています。
ご家族からすると、戦争に行ったまま行方不明だったわけですよね。
湯川:
はい。次兄は戦死したものだと思っていました。母は夫が亡くなり、長男は戦死、次男も特攻隊でしたが、一切泣きませんでした。
後年、私が母に泣かなかった理由を聞いたことがあります。
すると「世の中の人たちがみな同じ思いをして戦っているのに、軍人の妻が泣けるわけないでしょう」と。
神立:
軍人の妻だという覚悟を強くお持ちだったんですね。
湯川:だから私は、母に言いました。
「私は泣きわめく女になります。自分の子供が戦争にとられて死んでいくのを、平気な顔をして見ていられる親にはなりたくない」と。それを聞いた母は「そうなれたら本当にいいわよね」と言いながら、初めてぽろぽろと涙をこぼしました。
(後編に続く)
【プロフィール】
湯川れい子(ゆかわ・れいこ)/
1936年、東京都生まれ。1959年、ジャズ専門誌『スイングジャーナル』への投稿が評判を呼び、ジャズ評論家としてデビュー。
早くからエルヴィス・プレスリーやビートルズを日本に広め、現在も独自の視点で国内外の音楽シーンを紹介し続けている。作詞家としても多くのヒット曲を手がけ、訳詞、翻訳家としても活躍。
神立尚紀(こうだち・なおき)/
1963年、大阪府生まれ。1995年、戦後50年を機に戦争体験者の取材を始め、これまでインタビューした旧軍人、遺族は500人を超える。
『祖父たちの零戦』、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』など著書多数。
NHK朝ドラ『おひさま』の軍事指導など映像作品の考証、監修も手がけている。
※週刊ポスト2023年8月18・25日号