誰も便利にならないマイナ保険証をゴリ押しする意味はどこにある?
長野 光 によるストーリー
2023.11.2 JBpress
6月2日に成立した「改正マイナンバー法案」。
従来の健康保険証を廃止し、マイナンバーカードと一本化する「マイナ保険証」を事実上義務化する法律だ。
健康保険証の廃止は拙速な判断だと批判する声が絶えないが、河野太郎デジタル相は将来的には健康保険証に加え、運転免許もマイナンバーカードに一本化していく意向を示している。
なぜ政府はこれほどマイナ保険証の普及を急ぐのか。
『マイナ保険証の罠』(文春新書)を上梓した経済ジャーナリストの荻原博子氏に聞いた。
(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)
──デジタル庁を中心に、政府はマイナンバーカードを健康保険証として利用する「マイナ保険証」の普及を急いでいますが、さまざまな問題があると批判の声は絶えません。何が問題なのでしょうか。
荻原博子氏(以下、荻原):
私たちはコロナ禍に、お医者さんたちにとてもお世話になりました。
皆さん、本当に身を削って医療に携わってくださいました。
そして、ようやくコロナが一段落してきたのに、またお医者さんを苦しめるものが出てきた。それがマイナ保険証です。
「マイナ保険証を導入すれば、医療機関での手続きがスムーズになる」と言われていますが、そんなのは大嘘です。
2024年の秋に、これまで使われてきた健康保険証が廃止になります。
これまではずっと、この健康保険証が1枚あるだけで、いろんなことに対応してもらうことができました。
ところが、2024年秋に従来の健康保険証が廃止された後は、患者ごとに、保険証に代わる以下の6つのパターンのいずれかに、医療機関の窓口は対応しなければならなくなります。
@マイナ保険証
A暗証番号のないマイナ保険証
Bマイナ保険証を持っていない人のための資格確認証
C被保険者資格申立書(オンライン資格が確認できない患者に、本来の自己負担額の保険診療を行うための申請書)
D資格情報お知らせカード(マイナ保険証を利用できない医療機関で、マイナ保険証と同時に提示することで保険診療が受けられるようにするもの)
E従来の健康保険証(これまでの健康保険証は2024年秋に廃止するが、政府は完全廃止までに1年間の暫定期間を設ける)
複数の異なる保険証の形に対応するため、医療機関の窓口業務はメチャクチャ大変になりますし、こういったものを持っていかなければならない患者さんも迷う可能性がある。
停電が起きれば一時的にカードリーダーが使えない事態も発生するでしょうし、顔認証がうまくいかない問題はすでに頻発している。
暗証番号を3回間違えて、拒否になってしまう患者さんをどう扱ったらいいのかなど、窓口と患者の双方にとって多大な混乱や手間を強いる事態が想定されます。
マイナ保険証対応で増えかねない病院の廃業
荻原:
健康保険証は1カ月に一度出せば良かったけれど、マイナ保険証は毎回提出が必要になります。
そのたびに、何か齟齬があると、そこで手続きが止まる。
健康保険証であれば、忘れたとしても顔見知りの医療機関なら「今度来た時に持ってきてくださいね」と言ってすみますが、デジタルになればそうはいかなくなる。
医療機関は本当に大変になると思います。
さらに、「2026年に新マイナンバーカードを出す」と政府は言い始めた。
こうなると、今回やっと用意したカードリーダーが使えなくなる可能性も出てきます。
国はカードリーダーの設置に補助金を出していますが、全額出してくれているわけではないので、医療機関は自分で設備を購入しています。
「設置しないと保険医の資格取り消しになりますよ」という脅しを受け、しかたなく設置している。
そのコストは自分持ちです。
もし新マイナンバーカードが今回導入したカードリーダーで読み取れなければ、新マイナンバーカードに対応するカードリーダーも購入しなければなりません。
マイナンバーカードの有効期限は10年ですから、同じタイミングで新マイナンバーカードを出したら、両方が同時に使われる期間は10年になります。
10年間も2台のカードリーダーを置かなければならないのですか?
2倍のコストを医療機関が負担するのですか? これ、おかしくないですか?
余計なコストをかけ、余計な心配をかけ、忙しい医療スタッフに余計な手間をどんどん課している。
そして、問題が発覚するたびに場当たり的に新しいカードや申請書などを出していくから、前述のように医療機関はすでに6つのパターンに対応しなければならなくなった。この数はもっと増えていくかもしれません。
お医者さんの倒産が増えています。
特に、診療所(19床以下の医療施設)で、経営をやめてしまう人がとても多い。
過疎地の高齢の医師で、患者さんも高齢だと、マイナンバーカードを持ってくる人はいません。
「カードリーダーなんて置かれても使いこなせません」という方も結構います。
そういう方に、マイナ保険証や新マイナンバーカードへの対応を強いることになります。
厚労省の昨年の集計によれば、診療所の場合、日本では60歳以上の医師が経営する施設が全体の半分を占めています。
全国保険医団体連合会によると、マイナ保険証の導入で、廃業を決めた医師が全国にすでに1000人以上いるそうです。
介護の現場も大変です。山口県保険医協会が特別養護老人ホームや老人保健施設など、全国の施設に対して行ったアンケート調査の結果(回答したのは187施設)によると、90.9%の施設が「マイナカードの申請に対応できない」と回答しています。
国は訪問介護にもカードリーダーを携帯させることを義務化しようとしていますが、訪問介護の事業者は零細企業が多く、介護士1人が現場を訪れて、6つのパターンに対応できない事態に陥れば仕事は止まってしまいます。
介護する相手は老人や寝たきりの患者さんです。
誰がマイナ保険証を管理するのでしょうか。
岸田首相は先日テレビに出演して「マイナ保険証を持たない人は、資格確認書を皆にお配りします」と言いましたが、現状ではそれをやるのは1回のみです。
そうすると、結局は自分でマイナ保険証を作りに行かなければならない。
寝たきりの人などは、たいへんな作業になりますが、代理人が申請するとなると、代理人であることを確認するための書類をいろいろ用意しなければならなくなります。
こんなムチャクチャな制度を国民に押し付けようとしている政府に、私はものすごい怒りをおぼえます。
マイナンバーとマイナンバカードの違い
──「マイナ保険証の誤登録は今わかっているだけで7300件以上」と書かれています。
どうして誤登録が次々発生するのでしょうか。
荻原:
2万円分のポイントで国民を釣り、とにかくマイナ保険証の保有率だけを上げようとした結果ではないでしょうか。
※政府は期限までにマイナンバーカードを申請した人に対して2万円分のマイナポイントを付与した。
第一弾の期限は2023年の2月末まで、第二弾の期限は9月末まで。
マイナポイントはQRコード決済や電子マネーなどのキャッシュレス決済サービスで利用できる。
ちゃんとした申請の方法を丁寧に教える人も用意しなかった。
一時的にすごい数の加入者が押しかけ、5時間待ちという人までいました。
そんなに待たされたら、いい加減な情報の入力をするケースも出てくると思います。
──「マイナンバー」と「マイナンバーカード」は異なる、これが重要な違いであると書かれています。
両者はどう異なるのでしょうか。
荻原:
マイナンバーの一番大きな目的は、国民の所得を把握することです。
政府は何度もこういった試みをしてきました。
マイナンバー以前の最も新しい例でいうと「住基ネット」がありました。
しかし、みんなが住基ネットに大反対して、自治体まで入ることを拒否したので、ほとんど使われなくなってしまった。
漏らさず税金を徴収するためには、国民背番号制を作る必要があります。
そして、国民1人に1つの番号というマイナンバーは国民背番号制です。
国民がどこでどんな稼ぎ方をしようが、番号を打ち込めば所得が明らかになるシステムを作りたい。これが、マイナンバーの最も大きな目的です。
もちろん、マイナンバーを使って行政の効率化を図るという狙いもあります。
それでは、マイナンバーカードとは何か。
多くの人はマイナンバーの書かれているカードだと思っています。この認識は正しくありません。
マイナンバーが「社会保障・税番号制度」に基づいているのに対して、マイナンバーカードは「マイナンバー(個人番号)制度」に基づいて作られています。
そして、マイナンバーカードの目的はデジタル・トランスフォーメーション(DX)にあります。
皆さんの個人情報を束にした情報の高速道路のようなものを作り、デジタル管理し、個人情報を民間サービスなどと紐づけていく。それが大きな目的です。
スウェーデンやノルウェーなどの北欧の国々では、特にこういった面でのDXが進んでいると言われます。
カードを1枚持っていると、買い物やイベントの参加など、いろんなことが手軽にできる。
このようなDXを日本も実現したい。
日本もマイナンバーカードを作り、「公的個人認証」ができるようにして民間企業と連携できるようにしたい。その結果、民間サービスの利用、銀行口座の開設、クレジットカードの申し込みなどもマイナンバーカードを通してより手軽に行うことができるようになる。これがマイナンバカードの目標です。
でも、今の日本のマイナンバーカードは、とてもDXなどと呼べる水準ではありません。「なんちゃってDX」です。
だって、全然便利じゃないじゃないですか。
これ、本当に便利ですか? 便利であればポイントがなくても普及する
荻原:
日本のデジタル政策は、今のところほとんど思いつきです。
コロナ禍に作った管理支援システム(HER-SYS)にしても、医療関係者が情報を入力する手間に苦しんだばかりで、結局どう役に立ったのか分からない。
私の知り合いの医療関係者は、HER-SYSに情報を入力する作業で、ほとんど徹夜の業務を強いられてヘトヘトでした。「HER-SYS地獄」です。
あの時、強引に集めた情報はどう活用されているのか。お医者さんたちは「結局、何のためになったのか分からない」と言っています。
日本のDX戦略と呼ばれるものは「世界がDXと言っているから、とりあえずやらないとまずい」「HER-SYSで失敗したからマイナンバーカードのDXで取り戻そう」というだけです。
でも、マイナンバーカードは現状では便利ではありません。
便利さがないから普及しない。
普及させたいのであれば便利にすればいい。
ところが、2万円バラまいて、さらに健康保険証を入れて、従来の健康保険証を廃止する。
そうすると、国民はマイナンバーカードを持たないわけにはいかなくなる。
しかし、従来の健康保険証を廃止すれば、前述の様々な問題が膨大に発生します。
たった1枚のカードで、国民全員がどこでも誰でも安く医療を使える「国民健康保険」のシステムを日本は60年かけて構築したのに、こんな拙速なDX戦略のためにそれを壊そうとしている。
──「改正マイナンバー法案」によって、マイナンバーの利用範囲が拡大されていくことに関しても懸念を書かれています。
荻原:
そりゃそうですよ。当初マイナンバーは「社会保障」「税」「災害対策」の3つの分野で使われる約束でした。
ところが2023年6月2日のマイナンバー法の改正で「そこに準ずる業務」という条件が入った。
「準ずる業務」とはつまり、霞が関用語では「何でもあり」ということです。
でも、今のなんちゃってDXのマイナンバーカードだと、セキュリティが危ない。
民間と接続するほど、どこから情報が漏れていくか分からない。
ですから、本来であれば、あらゆる方向から安全で便利なものを作り、皆さんに便利だと実感してもらってから普及させるべきです。
せっかちなんでしょうね。
強引に期限を切って、犠牲になるのが健康保険証です。
マイナ保険証の真の目的
──マイナ保険証は何のためかという点ですが、核心は、病院や薬局、訪問看護ステーションなどをデジタルにつなぐ「医療DX」にあるのですよね。
荻原:
そうです。それが、マイナ保険証の目的です。
でも、それが全くできていないことが問題なのです。
マイナ保険証があれば、リアルタイムに、どこでも行った先の医療機関と必要な情報を共有できる。
だから、最高の医療を受けられる。こういうビジョンがありますが、実際はマイナ保険証に現時点で付いている国民の医療情報はレセプト(医療機関が医療保険者へ発行する診療報酬明細書)情報で、タイミング的にも1カ月、2カ月前の情報です。
政府は10月半ばに、救急搬送された意識不明の患者の医療情報を、マイナ保険証を通して医療機関が確認できるようにする方針を固めたと発表しましたが、倒れている人の1カ月、2カ月前のレセプト情報で、なぜその人が倒れているのか、どの程度分かるものでしょうか。
レセプト情報は請求書情報だから、情報が載るまでに、どうしても1カ月程度時間がかかる。
処方された薬の情報も含めて、それだけ遅れる。
これだったら、現行のお薬手帳の方が正確で情報が新しくて、よっぽどリアルです。
──顔認証の技術があれば、本人確認は簡単で確実だと思いますが、荻原さんは現状の顔認証の技術にも大いに不安を感じておられます。
荻原:
不安どころか、恐怖です。
長崎のある男性医師が自分の顔のお面を作り、病院の女性スタッフにお面をつけてもらい、自分のマイナ保険証を使って顔認証を受けさせたら認証されてしまうという過程を見せる動画をYouTubeにあげ、動画込みでこれを東京新聞が報じました。これじゃ誰でも誰かに成りすますことができる。誰でも顔認証です。
◎他人のマイナ保険証 顔写真かぶったら使えた…「なりすましできてしまう」医師懸念【実験動画】(東京新聞)
私の知人で医療事務をやっている女性がいます。
彼女も男性の同僚からマイナ保険証を借り、自分の顔と同僚のマイナ保険証で顔認証をやったらパスしちゃいました。
もはや似ているかどうかさえ問題ではない。
顔認証は高い精度で設定すると、本人でも通過できない場合が出てくる。
本人が認証されないと問題になるので、業者に精度を下げさせる。
そうすると、今度は本人でなくとも認証されるようになってしまう。
こんな調子なので、病院によっては「顔認証はお断り」というところも出てきています。
これでセキュリティになるのでしょうか。
最善の解決策は既存の健康保険証の存続
──現状のマイナ保険証や、政府の普及戦略には問題や課題が多々見られますが、では、マイナ保険証をやめていく方向で話を進めるべきなのか。
それともマイナ保険証をより、安全で、便利で、使いやすいものに進化させていくべきなのか。どう思われますか。
荻原:
ソリューションは1つだと思います。今ある健康保険証の廃止をやめることです。
穴だらけの高速道路1本にするために、隣の安全な側道を封鎖したわけでしょう。
だったらやはり、健康保険証を廃止しないで、再開すれば、問題の大部分は解消できると思います。
若い人は、マイナ保険証に移っていく。それはそれでいい。でも、それだけでは不都合が生じる人のために、従来のやり方も残すべきです。
──荻原さんの問題提起の内容は、河野大臣も、岸田首相も分かっていて、それでも突き進んでいるのではないかと思いますが、現状では、まだ危険なマイナ保険証を、政府はなぜこれほど強引に進めるのだと思いますか。
荻原:
問題は、危険が分かっているのではなく、分かっていないということです。
マイナ保険証をやるのであれば、考えなければならないのは医師や患者といった使う人たちの都合です。
これを考えて、最もいい方法を取らなければならない。
それをしないで、とにかく「マイナンバーを普及させたい」が先にきている。デジタル大臣が独走して進めるべきことではなく、本来は厚労大臣が入るべき問題です。
だから、現場の声を無視した進め方になるのではないでしょうか。
──再び法改正して「従来の健康保険証を残す」という方針を政府が出せると思いますか?
荻原:
ただでさえ支持率が下がっている岸田政権がそんなことをしたら、内閣は吹っ飛ぶ。
だから、逆にゴリ押ししている。
このゴリ押しがどんどんヘンな方向に向かっている。
それでも、勇気を持って「健康保険証の廃止をやめる」と言ったら、私はものすごく評価します。