2024年01月02日

2024年「辰年」の岸田政権はどうなる!? 「竜」にまつわる言葉で展望する

2024年「辰年」の岸田政権はどうなる!? 
「竜」にまつわる言葉で展望する
1/1(月)  日テレNNNニュース

2024年は辰年。
「辰」は伝説の生き物「竜」のこと。
空を飛び、雲を呼んで雨を降らせる力があるとされ、古来より畏敬の念とともに強者の象徴として語られてきた「竜」。
そんな「竜」にまつわる「故事」とともに、2024年の岸田政権を展望する。

■「竜の逆鱗に触れた!?」 自民党派閥の政治資金パーティーをめぐる問題で、政権最大の危機が到来
「逆鱗」(げきりん)は、竜の顎の下にある「決して触れてはいけない」逆さに生えた鱗(うろこ)のこと。
触れてしまうと普段は穏やかな竜が怒り、危害を及ぼすという。
転じて「竜の逆鱗に触れる」は「目上のものに逆らって怒りを買うこと」の意味で使われる言葉だ。

自民党派閥のパーティーをめぐる一連の問題は、組織的な「裏金」疑惑が報じられた安倍派だけでなく、二階派、岸田派でも報じられ、政権にとって最大の危機をもたらしている。
NNNと読売新聞の世論調査では、G7広島サミットが行われた5月に56%だった内閣支持率は、12月には25%まで下がり、政権発足以来、最低の水準となっている。
また、政党別の支持率を見ても、自民党の支持率は5月の38%から、12月には28%まで、10ポイント下落した。
疑惑は政権の中枢だった松野官房長官ら安倍派幹部を直撃。
岸田首相は12月、安倍派に所属する4人の閣僚と5人の副大臣らを交代させる異例の人事に踏み切った。
だが、この人事は党内最大派閥で99人の国会議員が所属する安倍派の「逆鱗」に触れることになった。
辞表を提出した安倍派のある議員は「すべての派閥を調べてからやるべきなのに安倍派だけを切った。岸田政権を支える気はない」と述べ、岸田首相の対応に不満を漏らした。
また、同じく辞表を提出した別の議員は「これはないだろう」と述べ、首相の“安倍派切り”に怒りをあらわにした。

他の派閥に所属する議員からは「安倍派が一番大きな問題を起こしているのだから、責任をとるのは当たり前だ」と、首相の対応を擁護する声も聞かれるが、党内最大派閥が岸田首相に“不満”を持った状態では、政権の基盤は大きく揺らぐことになる。
首相に近い自民党議員は「派閥の政治資金の問題は、岸田政権にとどめをさす可能性がある」と危機感を示した。
逆風の中、岸田政権は「政治とカネ」の問題で、国民の信頼を回復できるのか。
岸田政権の2024年は、視界不良のままスタートを切ることになる。

■「伏竜」の出現は? 9月に予定される自民党総裁選…岸田首相の再選はどうなる
「伏竜」は、池の中に潜み天に昇る機会をうかがっている竜のこと。
転じて、大きな才能を秘めながら、まだ世に知られていない人物のたとえ。
三国志で有名な軍師「諸葛孔明」の異名としても知られる言葉だ。

岸田首相にとって2024年の最大の目標の1つは、9月の自民党総裁選挙で再選を果たすこと。
首相の側近議員からは「支持率が下がっても、党内にかわる人物はいない」と強気の声もあがるが、再選を阻む「伏竜」が出現するかがポイントとなる。
総裁選では過去にも「伏竜」が度々出現した。
2001年の総裁選では、当初、橋本龍太郎元首相が議員票でリードし「本命」と見られていたが、「変人」と呼ばれた小泉純一郎氏が、当時の森内閣の支持率低迷を背景に「自民党をぶっ壊す」などと演説し“小泉旋風”を巻き起こして圧勝。
自民党の「伏竜」となった。
また、2021年の総裁選では、前年の総裁選で敗れ「終わった人」と言われた岸田首相が「国民の声を聞く力」を掲げ出馬。知名度が高く、当時の菅首相の支持も受けた河野太郎氏に勝利。
国民にとっては「知名度が低かった」岸田首相自身が「伏竜」となったのだ。

現在「ポスト岸田」には茂木幹事長や河野デジタル相らの名前があがっている。
またNNNの世論調査で次の自民党総裁にふさわしい人をたずねたところ、石破元幹事長(20%)、小泉元環境相(17%)、河野デジタル相(12%)、菅前首相(8%)、高市経済安全保障相(7%)らが、岸田首相(4%)のポイントを上回っていて「簡単に勝てる総裁選ではない」との声もあがっている。
内閣支持率が低迷し続ければ「岸田首相のままでは次の選挙を戦えない」という声は高まり、「岸田下ろし」の動きが本格化するだろう。
党内から、今挙がっている候補以外の「伏竜」が現れ、岸田首相の再選をはばむ可能性もある。

■「竜虎相うつ」展開となるか 衆議院の解散総選挙はいつ?
竜虎相うつとは「竜」と「虎」のように、実力伯仲した強者同士が戦うこと。
2024年の岸田首相にとって、大きな決断を迫られるのが「衆議院解散」をするかどうかだ。
現在、衆議院議員は任期まで2年を切り、自民党内には解散総選挙は「いつあってもおかしくない」という声も出ている。 2012年に自民党が政権を奪取してから、国政選挙では長く「自民一強」状態が続いている。
しかし、ある立憲幹部は「パー券問題で安倍派が崩壊し、自民党はガタガタだ。次の選挙は状況によっては政権交代も狙える」と話す。
野党は今の岸田政権の窮地を見て、久しぶりに「竜虎相うつ」戦いに持ち込みたいと意気込んでいる。

岸田首相は、そもそも「解散カード」を切れるのか?
実は、周辺によると岸田首相は2023年の通常国会の会期末である6月と年末に衆議院の解散を模索。
しかし、そのときの情勢などを鑑みて、いずれも断念した。
その後、支持率が下落したことで、党内からは「首相はこのまま解散できずに退陣することになるのではないか」との声すら出ている。
岸田首相が2024年に解散総選挙を行う場合、首相周辺が「理想的」だと語るタイミングは通常国会の閉会後の7月頃だ。
9月には総裁選が予定されるが、直前の衆院選で勝利すれば、総裁選を事実上の無投票で乗り切れる可能性が出てくるからだ。 ほかにも、党内からは、1月の通常国会の開会前や、3月の来年度予算案の成立後などがささやかれるが、どのパターンでも低支持率のままでは解散しづらく、首相の決断は容易ではない。

ただ「解散できない首相」のままだと求心力が低下し、政権を維持できなくなるのは確実だ。
それだけに首相は2024年に「解散」を決断できるような環境を作れるか。
政権発足以来の「正念場」を迎えている。
posted by 小だぬき at 06:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「忠臣蔵」がテレビから消えた残念な理由

赤穂浪士が仕えた殿様は“女好きの暴君”だった!?
「忠臣蔵」がテレビから消えた残念な理由
小林 明   歴史ライター
2023.12.31  ダイヤモンドオンライン

「忠臣蔵」はかつて、時代劇の定番としてお茶の間に親しまれていた。
赤穂藩主だった浅野内匠頭の敵(かたき)を取るべく、47人の赤穂浪士が集結。因縁の吉良邸に攻め入るという筋書きである。
しかし実は、忠臣蔵の“悲劇の主人公”である内匠頭の評判は芳しくなかった。
「昼夜、奥に入って美女と戯(たわむ)れ…」と残念な記録も残っている。
そのせいか、同作品はテレビから消えつつある。
実際は問題児だった内匠頭の“バカ殿”ぶりに迫る。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

時代劇の定番「忠臣蔵」が テレビから消えた!?
 昭和の時代劇を代表した『忠臣蔵』が、テレビから消えつつある。
NHK大河ドラマでは平成11(1999)年の『元禄繚乱』が最後だ。
もはや討ち入りを美談と捉えるのは時代錯誤であり、命を賭して主君の仇(あだ)を討つなど、今の世の中になじまないからだろう。  

大河以外のNHK時代劇では平成28(2016)年、『忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣』といった、若い浪士と赤穂藩江戸屋敷奥女中とのラブストーリーを描いた作品などがあるものの、スピンオフといっていい。
 また、映画では令和元(2019)年、討ち入りにかかる予算に翻弄される大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)を主人公とした『決算!忠臣蔵』や、来年公開される予定の『身代わり忠臣蔵』もあるが、いずれもコメディーであり、往年の悲劇的なストーリーは色を薄めている。
 さらに、吉良上野介(きら・こうずけのすけ)に斬りかかった罪で切腹した赤穂藩主・浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)が、実は短慮で女性に目がない“暗愚な殿様”だったことも、歴史家の著作を通じ、一般に知られるようになってきた。

 内匠頭は決して悲劇の主人公ではなく、感情に流されて暴挙に走ったあげく家臣を路頭に迷わせた、トンデモない人物だったのだ。
この事実が明るみに出たことも、忠臣蔵がテレビから消えつつある要因かもしれない。
 では、内匠頭とはいったいどんな男だったのか

浅野内匠頭は女好きで 政治に興味なし!?
「内匠頭」とは官職である。
本来は、8世紀に創設された「内匠寮」(ないしょうりょう)という役所の長官を指す。
 内匠寮は朝廷が使用する調度品などを製作・調達・管理していたが、江戸時代には実質が伴っておらず、内匠頭も大名に与えられた名目上の肩書の一つにすぎない。

実際、浅野も京都に出仕していたわけではない。
 名は長矩(ながのり)。
生まれは江戸・鉄砲洲(てっぽうず)の赤穂藩上屋敷だった。
 当時は参勤交代に伴い、大名の妻は江戸の藩邸に留め置かれたため、生まれた男児(世継ぎ)は当然、江戸生まれ、江戸育ちとなる。  
 鉄砲洲は、現在の東京都中央区築地だ。
今は聖路加国際病院が立っている。

吉良上野介は長矩を「田舎侍」と罵倒したと、ドラマや映画は描くが、バリバリの都会っ子だった。
なお、長矩の名は一般にはなじみが薄いので、ここでは内匠頭で統一する。
 田舎侍どころか、都会っ子だったのが難点だった。
内匠頭に限らず、大名家の若殿はそろって国許(くにもと/自らの領地)を知らなかった。
 江戸後期の水戸藩の学者・藤田東湖(ふじた・とうこ)は自著『常陸帯』(ひたちおび)で、「定府の人(参勤交代で江戸藩邸に住む大名や藩士)は国の人を田舎者と嘲(あざけ)り、国の士は定府の人を軽薄者と謗(そし)り政事の妨げ」と書いている。
江戸と国許との間に確執があり、それが藩政の妨げになっていると嘆いている。

 内匠頭も同じように、地元の赤穂を田舎と、下に見ていた可能性は捨てきれない。
 幕府からの評価も低い。
赤穂事件が起きた元禄14(1701)年頃、幕府は全国の藩の石高や財政状況、藩主の評判などを調査した報告書『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)を残している。
そこに掲載された内匠頭の評判だ。
「知恵があり利発だが、たいへん色を好む。
ゆえに主君にへつらう家臣は美女を探し求めて主君に勧め、立身出世する。
昼夜、奥に入って美女と戯れ、政治は幼少より成長したいまに至るも家老にまかせきり」
 幕府は大名を査定する立場にあるため、ことさら辛口だったといえるかもしれない。
しかし、ここからうかがえる人物像は周囲に担ぎ上げられた「バカ殿」に他ならない。

パワハラ上司とボンボン部下… 吉良と内匠頭は「最悪コンビ」
 元禄14年3月14日午後6時、刃傷沙汰を起こしたわずか7時間後、内匠頭は切腹した。35年の生涯だった。
東京大学史料編纂所教授だった山本博文(故人)は自著でこう述べている。
「だから言わないことじゃないと思って、(江戸家老が)遺骸の受け取りにも行かなかった」(『東大教授の「忠臣蔵」講義』角川新書)
 山本が言う「言わないことじゃない」とは、内匠頭に吉良との関係を修復した方がいいといさめても、内匠頭が聞く耳を持たなかったため、家老たちが危惧していたことを指している。
実際、内匠頭が藩の幹部たちの助言を無視したという証言も、尾張藩の文書『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)にある。

 このため、遺体を引き取りに来るよう命じられた赤穂藩江戸藩邸の重鎮に、江戸家老(江戸藩邸の最高責任者)の姿がなかったというわけだ。
 切腹を命じられ「罪人」に落ちてしまったので、幕府に忖度(そんたく)して遺体引き取りを自重した可能性もあるだろうが、これほど「死」をないがしろにされた殿様も珍しい。

 一方、吉良も評判の良い人物ではなかった。
「横柄な人と聞く。過大な進物などを平気で受け、人の物を方々で欲しがってせびり取ることが多い」(『秋田藩家老岡本元朝日記』)
 吉良は三河国吉良庄(愛知県)に所領を持っていたが、石高は4200石で、赤穂藩5万3000石の約12分の1の旗本だ。
赤穂藩はこの他にも、「赤穂の塩」で知られる塩田を経営しており、財政は豊かだった。
 だが、吉良は高家(こうけ)の筆頭である。
高家とは幕府が儀式典礼を行う際の一切を執り仕切る、有識故実を熟知した名門の家柄で、室町幕府を興した足利家の血を引く。家格は浅野家より上だ。
 その名門・吉良に儀礼の作法を教わるのが内匠頭の「お役目」であり、この時代、教えを請うならお礼を贈るのは慣例だった。
 だが、内匠頭は当たり障りのない物しか贈らなかったらしい。
このことを吉良が気に入らず、重要な連絡事項をあえて知らせないなど、今でいえばパワハラも働いたという。

 現代に置き換えると、吉良はパワハラ上司だといえる。
内匠頭は慣例を無視する半面、根拠のない自信に満ちたボンボン気質の30代部下だ。
この二人は元々、相性が最悪のコンビだったのである。

藩士たちの退職金は 一人約780万円
 播磨国(兵庫県)の赤穂藩に事件の顛末と、内匠頭切腹の知らせが届いたのは、3月19日だった。
翌20日にはお家取りつぶしの裁定が伝わった。  領内は大混乱に陥った。
 赤穂藩は藩札(はんさつ)を発行していた。
藩札は領内だけで流通する独自の紙幣で、発行することによって資金調達が容易となる。
事件当時の発行額は銀900貫、約18億円に及んでいたが、取りつぶしとなれば、これらの藩札は紙切れだ。
 そのため、藩札を購入していた商人が一斉に城へ押し寄せた。
国家老の大石内蔵助は額面の六分(ろくぶ)で両替し、商人たちにカネを渡した。
 また、4月14日に城を幕府に明け渡すまでに藩の財産も処分し、そのカネを約300人の藩士に分配した。
今でいえば社員の退職金にあたる。
 几帳面だった大石は、その詳細を『預置候金銀請払帳』という、赤穂事件の処理のいわば「決算書」に残している。

 それによると、元禄14年分の家臣の俸禄(給料)に退職金を加算した総額は1万9619両で、現在に換算すると約23億5000万円。分配金額は職責によってバラつきもあったろうが、ここでは単純に300人で均等に割る。そうすると、1人当たり約780万円となる。
 この金額を高いと見るか、安いとするか?
 住み慣れた赤穂を離れ、新しい地で生活を始めるには、決して十分とはいえなかったろう。
そうした「負の遺産」を、内匠頭は家臣に押しつけた。

 刃傷沙汰を間近で見ていた江戸城の役人・梶川与惣兵衛(かじかわ・よそべえ)は、取り押さえられた内匠頭が、興奮した様子でこう言ったと記録に残す。 「上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候」(『梶川氏筆記』) (現代語訳:上野介にはここしばらく遺恨があったゆえ、殿中であり大切な儀式の日ではありましたが、やむを得ず斬りかかりました)

 家族や家臣・領民のことなど、頭からすっぽり抜けている。
短慮であり、見境がないという他ない。
 また、与惣兵衛は幕府の目付から事情聴取を受けた際、「上野介も脇差を抜いたか?」と問われ、「見不申候」(見ていません)と答えた(『梶川氏筆記』)。
 これは大切だった。というのも、武士同士のトラブルの裁定はけんか両成敗が原則だったからだ。
吉良は抜刀していないのだからけんかは成立せず、両成敗も必要ない。
罰せられるのは内匠頭のみという結論になる。
 だが、わずかな退職金で放り出された赤穂藩士たちに、この理屈を納得しろといっても、無理だった。
内匠頭の暴挙は、吉良に対する深い恨みを家臣たちに根づかせてしまった。罪深い殿様だったといわざるを得ないだろう。

●参考文献
『忠臣蔵の決算書』新潮新書/山本博文
『東大教授の「忠臣蔵」講義』角川新書/山本博文
『これが本当の「忠臣蔵」』小学館新書/山本博文
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする