2024年05月22日

知らないと人間関係が壊れること7選

知らないと人間関係が壊れること7選
えらせん作家    5/22(水)

こんにちは、えらせんです。

今回は「人間関係を築くための秘訣」というテーマで話していきます。
人間関係って、人生の豊かさを左右する大きな要素ですよね。でも、ちょっとしたことでギクシャクしたり、悩んでしまうことも多いのではないでしょうか。
今回紹介するのは、すぐに実践できることばかりなので、ぜひ参考にしてみてください。

1. 聞かれてないアドバイスはしない
「良かれと思って…」って、ついついアドバイスしたくなりますよね。
でも、相手が求めていないタイミングでのアドバイスは、お節介に思われてしまうことも。
まずは相手の気持ちを尊重し、アドバイスを求められた時にだけ、自分の意見を伝えましょう。


2. 他人に勝手に期待して失望しない
人はそれぞれ違う価値観や考え方を持っています。
相手に自分の理想を押し付けたり、勝手に期待して失望するのはやめましょう。
「人は人、自分は自分」と割り切ることで、心に余裕が生まれます。


3. イヤな所が見えない距離感を保つ
どんなに仲の良い人でも、四六時中一緒にいると、相手の嫌な部分が見えてしまうもの。
適度な距離感を保つことで、お互いの良いところを尊重し合える関係を築きましょう。
「親しき仲にも礼儀あり」という言葉もありますよね。


4. 余計な一言で関係はすぐ壊れると肝に銘じる
何気ない一言が、相手を深く傷つけてしまうことがあります。
言葉は一度口から出ると、取り消せません。
発言する前に、一度立ち止まって考える習慣をつけましょう。


5. 不機嫌をまわりにまき散らさない
誰でも不機嫌になることはあります。
でも、それを周りの人にぶつけるのはNG。
自分の感情をコントロールし、周りの人に不快な思いをさせないように心がけましょう。
深呼吸をする、気分転換をするなど、自分なりの対処法を見つけておくのもおすすめです。


6. 感謝はちゃんと言葉にして伝える
「ありがとう」って、シンプルな言葉ですが、とても大切な言葉です。
感謝の気持ちを言葉にして伝えることで、相手との心の距離が縮まります。
「ありがとう」を口癖にすることで、自然と感謝の気持ちが湧いてくるようになりますよ。


7. 気に食わなくても攻撃はしない
誰しも、苦手な人や、意見が合わない人はいると思います。
でも、だからといって、相手を攻撃したり、悪口を言うのはやめましょう。
「言わない勇気」を持つことで、人間関係のトラブルを未然に防ぐことができます。


まとめ

これらの秘訣を意識するだけで、人間関係は大きく変わります。
ぜひ、今日から実践してみてください。
きっと、周りの人との関係がより良いものになるはずです。
posted by 小だぬき at 10:36 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

現実と夢の区別はつかない!?恐山の禅僧が説く「苦」の正体と、現代における「諸行無常」とは

現実と夢の区別はつかない!?恐山の禅僧が説く「苦」の正体と、現代における「諸行無常」とは
5/20(月   婦人公論.jp

厚生労働省が行った「令和4年 国民生活基礎調査」によると、悩みやストレスの原因として最も多く回答されたのは「自分の仕事」、次いで「収入、家計、借金等」だそうです。
人生には数多くの「苦」があるなか、「生きているだけで大仕事。
『生きることは素晴らしい』なんてことは言わない」と話すのは、恐山の禅僧・南直哉さん。
今回は、南さんが説く、心の重荷を軽くする人生訓を自著『苦しくて切ないすべての人たちへ』より、一部お届けします。

* * * * * * *
◆「苦」の正体──覚めない夢、破れる現実
学校と相性の悪かった私は、学生時代に数々の苦杯を舐めたが、その幾つかは余程のトラウマとなったのか、50を過ぎても夢に出て来た。

一つは、高校の定期テストで、科目は何かわからないが、1問もわからず、このままだとゼロ点だという瀬戸際に追い込まれて、あまりの焦燥で失禁しかけたとき、なぜか着ている服の袖が作務衣であることに気づいて、「あれ?」と思った途端に目が覚める、というものである。

もう一つは、どういうわけか、永平寺への入門が決まったのに大学の単位が足りず、卒業できなくなる夢である(実際には卒業後、一般企業に就職してから出家した)。

浅知恵でよく知らない洋酒を買い、それを持参して指導教授(それがいたのかも今やわからない)のところに、泣き落すつもりで駆けつける途中、思い切り転んでしたたか顔面を打ち、あまりの痛さに両手で顔を覆ったら、服の袖が作務衣──。

このように馬鹿げた夢を、50を過ぎても、疲労が蓄積すると決まって見ていた。
ただ、馬鹿げていることは確かだが、見ている最中は正しく「現実」である。
あの焦燥は実際に大量の寝汗をかかせ、私を疲労困憊にさせたのである。

◆現実と、夢の中の「現実」
では、目覚めている時の現実と、夢の中の「現実」はどこで区別したらよいのか。
現実と「現実」、それぞれの内容では区別できない。
「現実」がいかに馬鹿げていようと、「現実」の中にいる人物には現実なのだ。

この区別は、「現実」から目覚めるかどうか、それだけにかかっている。
よく「夢が破れる」と言うが、それは違う。「現実」が破れて夢になるのである。

したがって、今度は逆に、大災害や突然の戦争などで、日常生活という現実の方がいきなり破壊されると、人は茫然として「悪夢を見ているようだ」と言うのである。
また、認知症が次第に進むと、当人は「夢と現実の区別がつかない」と言い出すことがあるのだ。

ということは、現実と「現実」、すなわち現実と夢の違いは、そう当たり前なことではない。
夢がイメージなら、我々の現実も実はイメージである。
我々は自分の身体をメディアにして、外界を五感などの感覚器官を通じて認識しているに過ぎない。
認識しているのは、ナマの外界そのものではなく、そのイメージを現実として構成しているのだ。

◆大乗仏教の「唯識」思想
イメージという点で、現実と夢の区別はつかない。
違いは、そのイメージがどれだけの規模と強度で、いかに長く他人と共有されているか、だけである。
規模と強度と期間──それらが他に勝るイメージが、我々の現実となる。
夢の「現実」は、“最弱の現実”として淘汰されるわけである。

このことを大乗仏教は「唯識(ゆいしき)」とよばれる思想で、大昔から教えている。
この思想を極端に単純に言ってしまえば、我々は「存在しているものを認識する」のではなく、我々の「認識が一切の存在をつくり出す」ということである。

唯識思想は、我々と外界、存在するあらゆるものが、「阿頼耶識(あらやしき)」と呼ばれる、根源的な意識から生まれてくるのだと言う。
それは当然個人の意識を超え、個人の意識を拘束する。それが共通の「現実」を作り出し、我々に現実を与えるのである。

この思想に全面的に賛成するかはともかくとして、我々が手にすることができる現実がイメージにすぎず、要するに夢と質的に差がない「現実」でしかないことは、事実である。

となると、問題は「何を認識するか」ではなく、「どう認識するか」になるだろう
認識の仕方で存在するものの在り様が変わってしまうからである。
まさにここが、いまの時代に大きく浮上している「バーチャル・リアリティ」「フェイクニュース」問題の勘所である。

人間の現実はつい最近まで、基本的に身体という、共通の構造を持つメディアのみで作られていた。
つまり、「身をもって知る」「体で覚える」ことが現実の保証であり、だから、我々は共有の規模が大きくて強度が高く、長期間通用するイメージを確保して、現実として持ち得たのである。

ところが、人間の身体的な感覚や、それに基づく認識を、拡張したり変形する技術が急激に発展し普及すると、その技術の種類と強度に応じて、現実は分裂していく。

今はまだ、身体に機器を装着する段階だから、身体に保証された現実と機器による「現実」の区別は残る。
しかし、それが長期間装着され続けるか、生まれた直後から装着させられ、機器が身体化すれば、この区別は無意味になるだろう。

さらに状況が先鋭化すると、我々が今まで普通に向き合っていた現実は、分裂して様々な「現実」が生まれ、それが競合し、淘汰され選別されて、我々に対してより拘束力の強い「現実」(=共有される夢)が、晴れて現実の地位に就くことになるだろう。
日本の『攻殻機動隊』というアニメーション映画、『マトリックス』というアメリカ映画が垣間見せるのは、そういう世界である。

◆あらゆる現実は必ず破れる
だが、所詮、夢が破れるように、いかなる現実も必ず破れる。
我々の現実も「現実」だと知る。これを「諸行無常」と言うのだ。
ならば、真に「リアル」と言えるのは何か──。

リアルなのは、あらゆる現実は必ず破れる、という事実である。
いつ、どこで、なぜ破れるのか、それは決してわからない。
でも、破れる。これが仏教の言う「苦」である。
いかにそれを望もうとも、確かな、我々に忠実な現実は存在しない。

したがって、我々はこの先、現実が実は「現実」に過ぎないことを肝に銘じて、それがいかに作られるのかに目を凝らさなければならない。
それとは別の、誰にも共通で不変の、絶対的な現実は無い。
リアルとは、「現実」が常に破れる事実を言うのであって、バーチャルとは、いつまでも「現実」が続くという錯覚である。

破れる以上は作り物である。ならば、どのように作られているのかを知ることが、より「確かな現実」を見極める方法であろう。おそらく、「確からしさ」を競う時代は、何かを理解する前に、何を信じるかを問われるようになっていく。

そのような時には、人々はより簡単で強力な「確からしさ」を欲望するようになるだろう。この新たな欲望は、それぞれの自由を誰かが説く「確からしさ」に明け渡すことを招くかもしれない。
何が確かな「現実」なのかを考え選び取る困難に耐えかねて、誰かの「現実」に我が身の全てを委ねたくなるかもしれない。

次に来るのがどのような時代なのか、管見の及ぶところではないが、現実が揺らぎ、確かな「現実」が失われつつあるように見える今、はるか2500年前に「諸行無常」を説いた人物は、自分の生きていた世界と時代を、その「現実」を、どのような眼でみていたのだろうと、思えてならない。

※本稿は、『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮社)の一部を再編集したものです。

南直哉
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする