2024年08月14日

身内の性犯罪を隠蔽し、告発者を逮捕…戦前よりひどい警察の実態を大マスコミと裁判所はなぜ見逃すのか

身内の性犯罪を隠蔽し、告発者を逮捕…戦前よりひどい警察の実態を大マスコミと裁判所はなぜ見逃すのか
2024年08月13日 PRESIDENT Online

ストーカー、強制性交、盗撮……鹿児島県警の警察官による不祥事が相次いでいる。
勇気をもって真実を告発した元警官二人が逮捕され、真実を伝えようとしたジャーナリストが家宅捜索を受けた。
県警本部長の処分は「訓戒」で終わりでいいのか。
警察も大新聞もテレビも裁判所も忖度だらけの日本の現状に「黙っていられない」元文春編集長が声をあげた――。

■戦前でも実行しなかったジャーナリズムへの弾圧

雑誌の後ろには「編集人」と「発行人」という二つの肩書が印刷されています。
読者も、いや出版社の社員も、なぜ「発行人」が必要なのか知らない人が多いでしょう。
発行人の役目とは、以下のようなものです。

戦前、特高警察の検閲が烈しくなると、編集人が警察署に引っ張られ拘禁されることが相次ぎました。
そこで、出版社は発行人という、編集長より重責(ということになっている)職責の人間をたて、彼らが犠牲になって編集人の作業が中断されないよう、代わりに拘束されたり尋問されたりしていました。

警察もこのカラクリはわかっていても、自由にしていたようです。
こんな昔話を持ち出したのは、戦前の警察でさえ、ジャーナリズムには一定の自由を認め、拘束や家宅捜索は慎重にしていたという事実も知ってほしいからです。

その、暗黒の戦前でもほとんど実行しなかった、ジャーナリズムへの弾圧を、鹿児島県警が平然と行いました。
記者を任意(実際には強制)で警察署に連れてゆき、家宅捜索令状をだして「証拠物品」を押収、PCは複製したあと返却されたといいます。
公務員の守秘義務違反の証拠押収という名目です。

ここにいたった、事件の経緯をまずまとめてみましょう。

2024年3月下旬、「HUNTER」というウェブメディアに所属していた記者に、その証拠物件は郵送されてきました。
すると、その翌月の4月8日に、鹿児島県警曽於署の藤井光樹巡査長が、内部文書を第三者に漏洩した容疑で鹿児島県警に逮捕されました。
さらに、同日に鹿児島県警は、「HUNTER」を運営する代表者の自宅を家宅捜索したのです。

押収したデータの中に、藤井巡査長からの告発とは別に、県警の生活安全部長だった本田尚志・元警視正による「告白書」もありました。
そこには以下のような内容の事件がもみ消されそうになっていることが記されていました。

2023年12月に、鹿児島県枕崎市でトイレに侵入して女性を盗撮した事件が起き、容疑者として枕崎署の警察官が浮かびます。
県警の生活安全部長として本田尚志・元警視正は「早期に捜査に着手し、事案の解明をしよう」と考え、上司の野川明輝・県警本部長の指揮を仰いだところ野川本部長は、「最後のチャンスをやろう」「泳がせよう」と言い、強制捜査にゴーサインを出さなかったというのです。

それ以外にも、捜査上知り得た住所などをもとにストーカー行為を行っていた警察官や、ストーカー事件が2件起きているのに、事実上もみ消した霧島署の前署長が、こともあろうに本田元警視正の後任として、ストーカー事件を扱う県警生活安全部長に昇進している事実が告発されていました。
これらのストーカー行為は本部長指揮の事件となりましたが、明らかにされることはありませんでした。警察を定年退職した直後の本田元警視正が、これらの事実を広くジャーナズムに告発したいと、資料を「HUNTER」の記者に送っていたわけですが、本田元警視正は5月31日にいきなり、国家公務員法違反で逮捕されたのです。

■5カ月も「泳がせていた」容疑者を慌てて逮捕

盗撮容疑の枕崎署の巡査部長は5月13日に逮捕されましたが、12月の事件発生から、内定に実に5カ月もかかって容疑者を「泳がせていた」事件なのに、「HUNTER」の運営者の家宅捜索からわずか1カ月間で逮捕になったというのは実に不可解です。
「本当は事件をもみ消そうと思っていたのに、告発書がでたため」事実関係を隠蔽(いんぺい)するために仕方なく「解決」したとしか思えません。

さすがに、この問題を重視したのか、警察庁は特別監察を実施すると宣言しましたが、野川鹿児島県警本部長は、内部告発した本田警視正を内部通報者として保護すべき対象ではないと答え、いまだに国家公務員法違反としています。
その上、犯人隠避で刑事告発されていた野川本部長は早々に不起訴と判断されました。

組織の幹部が外部メディアに通報したことを理由に職員を処分して、さらに隠蔽しようとした行為は、兵庫県知事の手法にそっくりです。
兵庫県知事に対しては、議会による百条委員会が設置され、市民の中からはリコールといった動きもでています。
ところが、警察は基本的に閉鎖的な組織。警察庁は7月21日、申し訳のように、「鹿児島県警枕崎署員による盗撮事件で、捜査状況をきめ細く確認し、指示すべきだった」として、野川明輝本部長を長官訓戒としましたが、なんとかこれでおさめようとする態度がミエミエで、百条委員会についても、現状鹿児島県議会は消極的な態度をとっています。

私は、この問題は重大事だと事件発生時から注視していましたが、大手の新聞や報道機関の反応は鈍感でした。
「ただのフリーライターだから、いい加減な取材をしているから、警察に家宅捜索を受けたのだろう」といった安易な考えがあるようにみえます。
本来は、この鹿児島県警による隠蔽事件と、ジャーナリストに対する家宅捜索という弾圧に対して、新聞協会も日本民間放送連盟も、大々的に取材しキャンペーンを張るべきなのです。

もちろん国防上の機密など国家公務員が絶対に守秘義務を遵守すべき機密もあるでしょう。
その漏洩事件で国益を損なう恐れのある事案であれば、報道機関に対する家宅捜索も完全に否定するものではありません。
しかし、この事件は本部長のクビを守るという以外にこんな荒っぽい捜査をやる必要がないことなのです。

■保身が最優先で性被害事件をもみ消し続ける

ストーカー、強制性交、盗撮など……鹿児島県警の警察官が、相次いで性加害の不祥事を起こしていることは、確実に野川本部長の責任問題につながります。
もし、自分のクビを最優先に考えて「もみ消し」をし続ける本部長の不正に直面し、良心に耐えかねて、退職後に「告発」にいたった行為だとしたら、本田・元警視正の行動は、むしろ公益通報保護制度によって保護される対象として扱われるべきものなのです。

なんでも秘密にしたがるのが警察。
なんでもキャリア官僚がエライのが警察という組織の特徴です。

私自身、かつてジャーナリストの江川紹子さんと、当初からオウム真理教の関与が疑われていた「坂本弁護士一家行方不明事件」を追いかけているとき、神奈川県警が絶対に、この事件を「拉致事件」と認めず、「失踪事件」として押し通していたことに、愕然とした体験があります。

当時の県警本部長は、人事異動まで数カ月、拉致事件なら未解決事件となり、彼の経歴に傷がつく。これが警察の本音です。「拉致」と「失踪」では、捜査体制も捜査陣の意気込みもスピード感もちがいます。
あのとき、大々的な捜査をしてオウム真理教を徹底的に捜査しておけば、松本サリンも地下鉄サリンも防げた可能性さえあるのに、一キャリア官僚の経歴を守るために、その機会を自ら放棄したのです。

その結果、オウム真理教という怪物は、あの時点で「何をしても大丈夫」と自信を持つようになってしまいました。
今回、明るみになった一連の警察の「もみ消し」未遂事件の中には、強制性交事件の容疑者が警察OBの息子という事件もあります。
絵に描いたような隠蔽策です。こんなことを許しておいていいのでしょうか。

社団法人日本新聞協会と社団法人日本民間放送連盟は「報道機関で取材活動に従事するすべての記者にとって、『取材源(情報源)の秘匿』は、いかなる犠牲を払っても堅守すべきジャーナリズムの鉄則である。
隠された事実・真実は、記者と情報提供者との間に取材源を明らかにしないという信頼関係があって初めてもたらされる」としていますし、最高裁は「取材源の秘密は、取材の自由を確保するために必要なものとして、重要な社会的価値を有する」と述べています。

たしかに、鹿児島県警とモメ事になれば、地元の新聞社は記者クラブに依存しているだけに困るでしょう。
それでも、地元の新聞社は頑張って記事にしています。
だからこそ、新聞協会や日本民間放送連盟といった、もっとも大きな組織こそ、鹿児島県警および警察庁に対して強烈に抗議し、二度とこのようなことが起こらないように徹底的に問題を報道すべきなのです。
また、これは、日本国憲法によって保障されている自由に対する侵害なのですから、国会の場でも、野党を中心に厳しく追及するべき問題です。

■新聞協会はなぜ抗議しないのかと思ったら…

警察庁長官は国会答弁で、「特別監査をいれる」と釈明しましたが、身内の調査がどれほど大甘になるかは目に見えています。ましてや、相手はキャリア官僚です。
私の知人の警察キャリアは、「一生で一回しか手錠をかけたことがない」と言っていました。
それも部下が被疑者を制圧し、いつでも手錠が嵌められる段階になってから、「○○さん、手錠をどうぞ」という世界です。
本部長に逆らえない警察官も大勢いることでしょう。
しかし、まずは冷静に考えてみてください。
これは公務員法違反に関わるような重大機密ではなく、野川本部長のキャリアにとってのみ不都合な真実であったことを通報されたにすぎないという事実なのです。

私自身、事件の取材の過程で得た資料が欲しくてやってきた警察官に対して、資料の拠出を断ると、「家宅捜査礼状を出しますよ」と脅された経験があります。
また、脱北者を日本に連れてきて、講演をさせたときは、警察から「ホテルを教えてくれ、その廊下の警備をしたい」と言ってきました。
もちろん、このときも断りました。
われわれの手で十分に警備できる自信があったのと、警察に接触されると何をされるかわからないという疑いの念があったからです。

なぜ、新聞協会は今回の事件で抗議しないのかと思っていたら、案の定、読売新聞にこんな記事がでました。
コメントしているのは、なんと警察大学校の元校長の田村正博・京都産業大教授(警察行政法)。

6月18日付のこの記事には「県警の最高幹部だった前生活安全部長が重要な個人情報を意図的に漏えいした事実は深刻な問題だ。
警察への不信感が高まっており、県警には徹底的な調査と説明責任が求められる。
警察庁や公安委員会の対応も重要だ」というふうに、情報を漏洩したことのみに論点をすりかえる意図をもって書かれており、情報源を特定して、ジャーナリストに対して家宅捜査したことなど問題にもしていない記事になっています。

さすがに、最近になって朝日新聞、毎日新聞などが社説などで取り上げていますが、新聞界全体の動きにはなっていません。
しかし、小さな積み重ねが大きな言論弾圧につながってゆきます。
一番心配なことは、この暴挙には裁判官も加担しているという事実です。
裁判所から家宅捜査礼状がでたということは、裁判所も本田・元警視正が機密を漏洩したという見方をして、その証拠を確定するためにジャーナリストへの家宅捜索令状の発行を認めたことになるのです。
これは、重大な意味をもちます。裁判所は警察以上にこの問題に神経を配るべき組織だからです。

のちに検事総長となる松尾邦弘・法務省刑事局長は、取材源の秘匿について「大変重要なこと」「最大限尊重する」と国会で答弁し、捜査にあたって「そういう重要性も当然念頭に置きまして、それを最大限尊重するような運用をする」と約束し、したがって、「報道機関が取材の過程で行っている通信につきましては、基本的には通信傍受の対象としない」と明言しています。
今回、はたして裁判所は、こういう前例を調べて令状をだしたのでしょうか。

■「法に触れない言論の自由」

私が今回の司法・治安機関の暴走を危惧するのは、それが私利私欲のために発揮されているという点でした。
最悪といわれた戦前の東条内閣の憲兵隊による国家全体への監視体制の中でさえ、司法機関は相当慎重な態度をとっていました。

東条内閣倒閣に動き、結局非業の割腹自殺を遂げた中野正剛という政治家がいました。
彼は1943年の元旦、古巣の朝日新聞に「戦時宰相論」という論文をかきました。
中身は、東条英機首相を名指したものでさえありません。
しかし東条は、政敵・中野(彼は東条による大政翼賛会に所属せず当選した数少ない議員の一人でした)のこの論文が気に障ったらしく、以降、中野の言動を見張り、治安紊乱罪に問えないかと、逮捕を治安機関全員に相談しました。

ところが、中野の起訴を指示された検事総長・松阪広政は、中野の言動は大日本帝国憲法第29条による「法に触れない言論の自由」の範囲内に収まっているとして、「こんな証拠ではとても起訴はできない」と反論したのです。

また、中野を議会出席停止させるよう東條に呼び出された国務大臣の大麻唯男(東條のイエスマンとして議会統制をおこなっていた)も「憲法上の立法府の独立を侵害しかねないのでできません」と反論しました。
中野の国会登壇によって自分に対する弾劾をおそれた東条は、憲兵隊という行政組織に命じて、中野を拘束します。
そして、拘束した上で、国会開院前に勾留したいと判事に要求しました。
しかし、憲兵隊といえども、逮捕状は裁判官の令状執行が必要です。
しかも、国会議員には国会会期中には不逮捕特権があります。
国会は召集されているが開院式までは時間があるという場合があり、この時も召集はされていても、開院式はまだという状態でしたから、不逮捕特権が適用されるか微妙な状態でした。

■「内部通報者の保護」を即刻命令せよ

しかし、議員の不逮捕特権は重大な言論問題です。
当直の若い裁判官たちは、書類を読み漁り、「国会の会期とは召集のあと閉会までをいう」という伊藤博文著『憲法義解(けんぽうぎげ)』の文言をみつけてから、逮捕は不可能であることを法的に明確化し、令状の発行を待っていた検事に「国会会期中の議員の拘束は憲法違反になる」と伊藤博文の著作を根拠に令状発行を拒否しました。
検事たちも歓声をあげて帰ってゆきました。
彼らも、実はこの拘束に反対だったのです。戦時中、暗黒政治の中でも司法関係者は勇気を奮って、憲法を守ったのです。

中野は、警視庁から憲兵隊に連行され、再び警視庁に戻り、それから地検思想部を経てさらに予審にまわされ、地検思想部にまた戻されたあげく釈放になりました。
しかし、帰宅したその夜、割腹自殺をとげました。
その理由は定かではありませんが息子を最前線に送るといった脅しがあったという説が有力です。

古い話になりましたが、今の日本はその頃に比べたらまだまだ自由です。
なのに、鹿児島のケースといい、兵庫県のケースといい、権力に逆らえず忖度(そんたく)する人々が増えました。
これがいずれ、日本をまた奈落の底に落とすことにならないか。それが私には心配です。

岸田総理、あなたはいろんな場所で国民の信頼を裏切っています。
ここは、警察の身内による単なる特別監査ではなく、本部長と警察庁長官の停職、第三者機関による調査、本田警視正などの内部通報者としての保護を即刻命ずるべきだと考えます。

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木俣 正剛(きまた・せいごう)
元週刊文春編集長
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なぜ日本軍は特攻隊を生み出したのか 昭和19年に黒島亀人が特攻用の兵器開発を発案

なぜ日本軍は特攻隊を生み出したのか 昭和19年に黒島亀人が特攻用の兵器開発を発案
2024年08月13日 PRESIDENT Online

太平洋戦争の末期、日本軍は飛行機で敵戦艦に体当たりする「特別攻撃隊」(特攻隊)を編成した。
パイロットになった10代の若者が数多く犠牲になった。
なぜ日本軍が特攻隊を生み出したのか。
半藤一利さんと保阪正康さんの著書『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)から、2人の対談を紹介する――。

■戦局を打開するために考案された「新兵器」

【半藤一利】
マリアナ沖海戦が始まる四カ月ほど前の昭和十九年二月に、黒島亀人が、これからの戦は思い切った新兵器を導入しないと勝てないと、「特攻」用の兵器開発を発案します。
徐々に海軍の頭が決死の特攻的な方向に向いていく。
これがのちに回天とか震洋(しんよう)といった人間魚雷となるのですが、この段階ではあくまでも兵器でした。

【保阪正康】
侍従武官だった城英一郎(えいいちろう)大佐が、体当たり攻撃を目的とする特殊攻撃隊を考案して、軍需省の航空兵器総局にいた大西瀧治郎中将に提案していますね。
これが昭和十八年六月末頃のことです。
大西から「まだその時期でない」と退けられていますが。
いずれにせよ、ここまできたら人間爆弾で戦わざるを得ないという意見は、各所から出てきていた。

石川信吾がこう言っています。
マリアナ沖海戦が済んでからだったと思うが、かつて私が第二三航空戦隊司令官当時の岡村基春(もとはる)司令がやって来て、特攻攻撃の必要を力説した。
そこで、私は「飛行機の特攻攻撃はこれがほんとに最後と云う時ならよい。さもなければ、必ずこれから軍紀が乱れてくる。俺は反対だが二階の大西(航空兵器総局次長)に聞いてみよ」と言った。
当時は大西中将も私の意見に同調していた。

■「特攻」が国策になった瞬間

【半藤】
ですから「海軍は命令ではなくて、澎湃たる下からの要望によって、特攻に踏み切った」ということになるのですが、はたして本当にそうなのか。

昭和十九年六月、サイパン島を奪われてマリアナ諸島がいよいよダメということになり、天皇が何とか奪還できないかと下問します。
大本営の結論は奪還不可能ということになったのですが、天皇は元帥会議を開くといって、伏見宮と閑院宮、永野修身と杉山元の四人の元帥を呼び、特別元帥会議を行いました。

閑院宮は病気で欠席するのですがね。
そこで天皇が、なんとかサイパンを奪還しないと国の命運が尽きてしまう、というような発言をするのですが、陸海軍総長の説明を聞き、やっぱり無理だということになった。

ついにマリアナ諸島放棄を天皇も納得します。
その後、天皇が退室して残った三人が話をしているときに、伏見宮が、「ここまできたら、もう特別な攻撃方法によってやるよりしようがない」ということを言うのです。

伏見宮という、現役の海軍大将による判断が間違いなくそこにはありました。
それが六月二十五日です。
その発言後、ほかの二人の元帥ももっともだと承知してしまう。
それで軍令部も参謀本部も、かねてより検討していた「特攻攻撃」が認可されたと了解するわけです。

■特攻を推し進めた大西瀧治郎・海軍中将

【保阪】
その瞬間に特攻が国策になったわけですね。
昭和十九年十月の捷一号作戦で、大西瀧治郎がフィリピンのマニラに赴任したとき、マニラにいたのが福留繁でした。
福留はこのとき第二航空艦隊司令長官。
大西の第一航空艦隊は台湾沖航空戦でかなりやられて戦闘機が三十数機になってしまっていました。
それでとうとう大西は特攻を指示する。

福留がこのときのことを詳しく語っています。
大西と私は防空壕の中でベッドを並べて寝起きしていた。
二三日夜大西は「特攻以外に航空攻撃の方法は立たない。第一航空艦隊は特攻一点張りでゆく第二航空隊もやれ」とさかんに口説いた。
これに対して、私は「特攻はうまくゆくかも知れない。しかし、特攻で戦局を左右するような戦果は到底望めないと思う。
私は部下の練度からみて、編隊集団攻撃の外自信がない。
第二航空艦隊はこれで行く」と答えた。
……二五日レイテ沖海戦の当日は、今日こそはと全力攻撃を企図したが、敵を発見し得ないのでまたも不成功に終わった。

この日第一航空艦隊では、関行男(ゆきお)大尉の指揮する敷島(しきしま)特攻隊が、敵特空母に対し初の特攻攻撃に成功した。
後日アメリカ側の発表によると、この特攻第一日は全く敵の意表に出たもので、六機の体当たり命中があり特空母一隻を撃沈している。
同夜、大西は「それみたことか、特攻に限る」とまた執拗に口説き、とうとう第二航空艦隊も爾後特攻攻撃に転換することに踏み切った。

大西はずいぶんあっけらかんと、そしてイケイケで特攻を推し進めたようなニュアンスですね。

■「大西次長は実践家で玉砕式、私は合理主義」

【半藤】
最初の特攻で華々しい戦果をあげてしまった。
これ以降一、二艦隊が合体となって、福留は合体した部隊の司令官になるのですが、実質は大西が指揮していました。
特攻を指揮するには福留は弱いとされて、昭和二十年一月からは第一南遣艦隊に異動となっています。
そのため彼はけっきょく戦後も生き残ることになります。

【保阪】
昭和十九年十二月に軍令部第一部長になった富岡定俊が、敗戦直前の様子にからめて大西について語っています。
大西は昭和二十年の五月に、小沢治三郎に代わって軍令部次長になっていました。

大西次長は実践家で玉砕式、私は合理主義で、作戦指導上の意見が合わず、六月頃私は任に堪えず辞任を申し出たこともある。戦争指導は、これまで軍令部の戦争指導班(班長末沢大佐)で受け持っていたが、和平のことも考慮しなければならない時期になったので、軍務局長[保科善四郎]が総合部長となり、その下に移して、軍令部は作戦一式とすることにされた。
戦局はグングン悪化して、本土に対する空襲の被害は日々に激増し、遂に八月六日、八日[実際は九日]の広島長崎に対する原爆の投下となり、九日ソ連が参戦して日本の進退は茲(ここ)に窮(きわ)まった。

かくて、八月九日の最高戦争指導会議は、条件付でポツダム宣言を受諾するに一致し、翌十日午前会議[ママ]は開かれ、陸相[阿南惟幾(これちか)]、参謀総長[梅津美治郎]、軍令部総長[豊田副武]は反対の旨上奏したが、陛下から外相[東郷茂徳]の受諾意見に同意の旨聖断が下った。
ところが、一二日両総長は相携(あいたずさ)えて拝謁、再び反対の旨上奏した。

■天皇の聖断が下り、8月16日に自決した

一三日夜大西次長は、米内大臣及び永野元帥の説得方を高松宮殿下に依頼し、作戦部員は手分けして永野元帥、及川[古志郎]、近藤[信竹]、野村(直邦)各大将を訪問して尽力を懇請したが、効果は無かった。
かくて、一四日の御前会議となり、ポツダム宣言受諾の旨最後の聖断は下った。

大西次長は一六日官邸において自決した。
八月十日頃のことだったと思う。私と大西次長は豊田総長室で激論した。
私は「本土決戦で敵の第一波だけは何とかして撃退できるが、第二波に対しては目算が立たない」と言明したところ、大西次長は「君の計算は悲観に過ぎる」として、飽くまで精神論を固辞(ママ)する。
大西次長は今まで陣頭に立って、飛行機の特攻攻撃を強調して来た関係もあり、今突如として無条件降伏と云うことでは、まことに苦しい立場にあったと思う。
甚だ浮かばない顔をしておられた。
大西次長は、あくまで降伏反対玉砕論で「天皇と雖も時に暗愚の場合がなきにあらず」とまで極論された。
その翌日であったか、大西次長は部員を集めて、一席玉砕論を弁じた上、「俺について来るか」と念を押された。
私は言下に「次長がその積もりならついて行きます。誓います」と即答した。
然し情況は二、三日の内にがらりと変わって、最後の御聖断となり和平に決した。

富岡は、大西が「あくまで降伏反対玉砕論」で、聖断を下した天皇のことを「時に暗愚の場合がなきにあらず」と評したと言う。
おそらく大西さんは実際そういうことを言ったのだと思うのですが、半藤さん、いかがですか。

■生き残った将官による弁解

【半藤】
特攻作戦については、自決した大西にその責任を皆がなすりつけた印象があって、少々気の毒にも思えます。
富岡の発言で私が気になるのは、天皇についての件も本当かなと思えますが、それよりも戦艦大和の沖縄特攻について「私の知らない間に……小沢[治三郎]次長のところで承知したらしい」と言っているところです。
仮にも軍令部の作戦部長という立場にあったのですから、そんな責任逃れのような言い方はすべきではないです。
どうも富岡さんは自分を正当化しすぎる傾向が強い。

【保阪】
富岡定俊は長生きしたためか弁解が多過ぎる。
その著書、『開戦と終戦』とかを読むと腹が立ってきますよ。
このときの経緯を軍令部作戦部長だった中沢佑少将は、短くサラッと語っているんです。

大西第二航空艦隊長官は、レイテ沖海戦において始めて飛行機の特攻戦法を実施した。
その前に一度大西中将が軍令部に来て、伊藤[整一]次長と私の前で「戦況かくなる上は、飛行機の特攻以外に方法はないと思う、中央の承認を得たい」と申出されたことがある。
これに対して「中央としては特攻をやれとは言われない。
しかし、当事者がやると言うならば涙をふるって認める」と返事した。

こうとでも言っておかないと軍令部の立つ瀬がないというような感じと言いますか、中沢もまた、逃げているような印象を受けました。

■戦後を生き抜くための言い訳が「特攻作戦の父」を作り上げた

【半藤】
明らかに自分たちの責任逃れ。
責任は大西にあり、という典型的なもの言いだと思います。大西瀧治郎だけが最後まで徹底抗戦特攻派にされてしまっているので、かなり注意して見なければいけないところです。

【保阪】
これはどうなのでしょうか。

富岡定俊が、「人命の尊重」と題された項で、こんなことを言っているんです。
アメリカ人は非常に人命を大切にする。
……そこへ行くと日本人は潔癖すぎて、艦を沈めたら理由の如何を問わず、艦長は引責自決しなければならないように思われていた。
これは日本軍人の伝統的美点であるが、まことに勿体ないことである。
私は、かつて具体的に勘定したことがあるが私を少将にまで育て上げるに、日本海軍は実に時価三億円を要している。
精神問題を別にしても、いざ戦さとなったら最も有効に人を使うようにしなければなるまい。

要するに艦と運命をともにするなんてまったく意味がない、と。
一人の少将を育てるのに三億円。「時価」とあるので戦後の取材当時の金額で、ということでしょうけれど、本当にそんなにかかるものなんですか。

【半藤】
現在のサラリーマンでも、平均生涯賃金は三億に届かないでしょう。
たしかに兵学校はタダ、食うものも着るものも全部支給、少尉以上は月給が出る。
それで船に乗っていると手当てがボンボン支給される。
しかし、そうは言っても三億円はなんぼなんでも多すぎるような気がします。

【保阪】
誇大に見積もって、自分たち将官は無駄に死んではいかん逸材だったのだと言いたかったのかもしれないですね。

【半藤】
生き残ったことへの後ろめたさをふっ切るような言い訳が、他者にも自分にも必要だったのかもしれません。

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半藤 一利(はんどう・かずとし)
作家
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保阪 正康(ほさか・まさやす)
ノンフィクション作家


posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする