2024年08月28日

「自衛隊=レスキュー隊」という認識が強すぎる…ロシア・ウクライナ戦争でわかった日本の大きな課題

「自衛隊=レスキュー隊」という認識が強すぎる…ロシア・ウクライナ戦争でわかった日本の大きな課題
8/27(火) プレジデントオンライン

ロシアのウクライナへの軍事侵攻が続いている。
国際法・防衛法政研究者の稲葉義泰さんは「軍事的に非合理的な戦争でも起きてしまうことが露わになった。
そんな時代の中で自衛隊は何のためにあるのかを、いま一度考えるときに来ている」という――。
(後編/全2回)(インタビュー・構成=ライター・梶原麻衣子)

■「ロシア・ウクライナ戦争」における最大の衝撃
 (前編8/27より続く)

 ――ウクライナ戦争が勃発してから2年半。内戦や紛争ではなく、国家間の大きな戦争が起きてからの過程を目の当たりにして、日本国民の安全保障意識に変化はあったのでしょうか。

 【稲葉】確かに何らかの変化はあったのだと思います。ただし「戦争は本当に起きるものなのだ、それに備えなければならない」というところまで行っているかと言えば、それはわからないところで、やはり無関心の方が大きいのではないでしょうか。

 無関心、というのは必ずしもニュースを見ない、全く知らないということではなく、「情報に接してはいるけれど、自分とは関係のないことだととらえている」姿勢を指します。例えば岸田政権はウクライナ支援策にかなり力を入れていますが、国民からの評価にはつながっていません。

 ウクライナ戦争に関する報道量は多いのでしょうし、今はネットでも情報を得られます。SNSでも、言及している人は少なくありませんが、しかしその中身はどうかと言えば、「ロシアもウクライナもどっちもどっち、喧嘩両成敗」といったものも少なくありません。しかしこれは実際には「国際法を破ったのは誰か」という非常にクリアな話で、どっちもどっちにはなりえないのです。

 また、さらにその先に進んで「我が国も当事国になるかもしれない。準備しておかなければ」という意味で意識している人はそう多くはないように思います。どこか他人事。やはりウクライナは地理的に遠すぎたのかもしれません。

■専門家は「まさかやるはずがない」と思っていた

 ――実際にはロシアという日本の隣国が、反対側の隣国であるウクライナに侵攻したという話なのですが、そういう捉え方はできていないですね。

 ウクライナ戦争の衝撃は何かと言えば、軍事的合理性から考えれば起こさないはずの戦争を、国家の指導者の決断一つで起こしてしまったことです。

 軍事の専門家からしても、当初は「まさかやるはずがない。脅しだろう」と思っていたものが、「あれ、まさか本当にやるつもりか」と言っているうちに、本当に始まってしまいました。

 我々はどこかで「そうはいっても国家の指導者は合理的な判断を下すだろう」と思っていたのですが、ロシアの場合はそうではなかった。ましてや21世紀に入ったこの世界で、あれほど原始的なやり方で戦争をするのかと。大量虐殺まで行っていますし、現代の常識では考えられないような事態になっています。

■戦争でわかった日本の3つの課題

 確かに国際社会は「アメリカ一強」の時代ではなくなっています。しかしNATOという強力な同盟関係があり、ウクライナは加盟していないもののヨーロッパにあれだけの拠点を持って、ロシアに対峙してきたのも事実。

 しかしそれでも止められなかったという現実がある以上、「起きてしまったらどうするのか」を考えないわけにはいきません。もちろん、習近平や金正恩が必ずしもプーチンと同じ行動をとるわけではありませんが、可能性がないわけではない。

 ――ウクライナで起きていることを目の当たりにしているにもかかわらず、日本では抑止力強化にさえ反対する世論があるのが現状です。ウクライナ戦争で明らかになった日本の課題とは何でしょうか。

 ひとつは継戦能力、というか「弾の数」です。ウクライナ戦争では、「どれだけ弾を撃てるか」が如実に状況を左右しています。ウクライナの場合は榴弾砲(りゅうだんほう)や砲弾を使っていますから比較的安価で、だから数十万発を撃てるという状況があります。

 一方、日本の場合は海に囲まれていますから、対艦ミサイルや対地誘導弾などの精密誘導のものが必要になるため、「1発数億円」するものを、数多く備えておかなければなりません。

■ウクライナの高い広報力

 ウクライナ戦争は2年半を過ぎましたが、日本が同程度の長期戦を戦えるかというとかなり難しい。弾薬数も、人の数も、燃料もそうですし、産業構造としても長期戦を支えられる形にはなっていません。

 ミサイルに関しては予算が割かれていますが、「外国から買うのではなく、国産ミサイルを持つべきだ」と主張する人たちもいます。これに対しては「いざというときに効率的に使えるものはどれなのか」を念頭に判断すべきではないかと思います。

 また、義勇兵の問題も考えておかなければなりません。ロシア・ウクライナ戦争でも両陣営に日本を含め各国から義勇兵が渡っていますが、日本がどこかの国と戦争状態になった場合、「日本のために戦いたい」という人たちが世界中からやってくるかもしれません。

 ウクライナの場合はそのまま義勇兵部隊を組織して戦争に協力してもらっていますが、今の自衛隊法では義勇兵という存在を想定していません。もしもの場合、義勇兵志願者をどうするのか。空港に留め置くのか。これは考えておかなければいけないでしょう。

 もうひとつ、大きなものは「国際世論への広報」です。ウクライナは非常にうまくやってきていますが、国際世論をどう味方につけるかはよく学んでおく必要がありそうです。

■「自衛隊=レスキュー隊」ではない

 ――有事の際に心配なのは「自衛隊の本来任務」が国民に理解されているかという点です。自衛隊に対する国民の信頼度は高まっていますが、それは「侵略してくる敵と戦う自衛隊」では必ずしもないのではないか、と。

 そこは私も強い懸念を抱いているところです。国民にとって、自衛隊は災害派遣のイメージがかなり強くなり、「何かあったときに助けに来てくれる」というレスキュー隊のように感じている人が多いのではないでしょうか。

 実際には、災害派遣は副次的な任務であって、主たる任務は国防です。他国からの侵略を受けた場合に対処するのが自衛隊の仕事であって、もしもの場合にはそちらに能力を振り向けるので、災害派遣時のような国民への直接の支援は難しい。

 この違いに対する理解がどこまで国民の間に浸透しているか……。これはかなり気がかりで、有事の際に「自衛隊に期待していたことと違うことをやっている」という批判が出るのではないか、という懸念はあります。

 ――災害派遣自体は被災者も助かるし、自衛隊自体も訓練の成果を発揮でき、やりがいがあって隊員の士気を高める、国民からは感謝されるという、大事な仕事ではあるのですが。

 広報効果という意味でも大きいでしょう。しかし前提としては災害時には地方自治体と警察・消防が第一に対応に当たるのが大前提であり、それでもキャパシティが足りないところを自衛隊が補う形になっています。

■災害時のように国民を助けるとは言えない

 災害対応の手が足りないのであれば、本来は自衛隊に頼るのではなく、担当の行政機関の能力を底上げしなければなりません。

 また、有事と災害時の違いについても知っておく必要があります。災害派遣は発生時点が最も状況が悪く、もちろん余震などもあり得ますが、状況がそれ以降、劇的に悪化することはほとんどありません。綿密な計画を立てておけば、二次被害、三次被害は生じにくいといいます。

 一方で戦争は、始まってしまうと状況は二転三転しますし、隊員数も死傷などによって損耗していきます。その中で自衛隊が国民保護までを災害派遣時のように実施するのは無理です。

 ただでさえ人員が足りないという状況を鑑みても、自衛隊は本来の任務に専念した方がいいのかもしれません。

 あるいは大きく体制を変えて、災害派遣専門の部隊を作るか、実戦担当部隊を切り離して待遇を変えるなどの対策を打ち、国民にも「自衛隊は何のためにあるのか」を、いま一度、振り返ってもらう必要があるのではないでしょうか。

■話し合いでは解決しない

 ――国民意識もアップデートが必要ですが、何から始めればいいのでしょうか。

 それぞれの分野ごとに当然違った面が必要になるとは思うのですが、一丁目一番地で言えば、国民に安全保障に対する関心を持っていただく、ということになるのではないでしょうか。

 つまるところは教育の話にならざるを得ないのだと思いますが、現状では安全保障と言っても何のことだかわからず、戦争と言えば第二次世界大戦のイメージで止まってしまっています。

 沖縄戦は悲劇だ、東京大空襲は悲惨だというのは全くその通りで、悲惨でない戦争はありません。必ず誰かが命を奪われるのですから。しかし「悲惨だね」で終わってしまっては、何の教訓にもなりえません。「悲惨だから、もう二度と起こさないように戦争について考えるのをやめよう」という思考停止に陥ってはいけないのです。

 「軍事力がなくても、話し合いで何とかすべきだ」という声も根強くありますが、話し合いだけで解決しないからこそ難しいのであり、そもそも話し合い(外交)と、いざというときの備え(軍事)は対立関係にはありません。

 そのあたりのことを、まずはきちんと理解して、そのうえで自衛隊という組織がなぜ必要なのか、「戦える自衛隊」であることにどんな意味があるのかというのを考え続けていかなければならない。それは防衛省や自衛隊をどんな時も擁護するというのとは違って、やはり健全な批判も必要になります。

■やっぱり改憲すべきなのか

 ――「抑止力強化というが、抑止が破られたらその後は軍事力の行使になるんだ! だから抑止力強化そのものに反対する」というような意見を目にするとこちらも「話し合いの余地がない」と思ってしまうのですが、それではいけませんね。

 今必要なのは、紋切り型の言葉で相手を批判することではなく、相互のリスペクトではないかと思います。政治的な立場はいろいろあっても、平和な暮らしを願っている点では一致しているはずなので……。国家間でも抑止と対話は対立関係にはないのだから、同じ国民同士、意見が違っても互いをリスペクトして話し合うところから始めるしかないと思います。

 憲法議論もどうにも低調ですが、やはり憲法9条があることで対処が難しくなっていることはさまざまあります。憲法に自衛隊を組み込まないまま、解釈で幅を持たせてここまで来てしまった。本来なら改正すべきですが、国民も解釈で幅を持たせるという方針を受け入れてきた。そのせいでひずみはどんどん大きくなっています。

 一方で、憲法9条の実績というものも無下にはできないし、改憲論も手段と目的をはき違え、「変える」こと自体が目的化したような議論もあります。

■改憲派、護憲派双方がやるべきこと

 私は国際法専攻ですが、昨年1年間は憲法学者の先生と2人で延々と9条研究をやっていました。その時に気付かされたのは、確かに9条研究には教条的なところがないではないのですが、きちんとした理屈、ロジックが存在することです。これは外から見ているだけではわからなかったことです。

 改憲派も護憲派も、お互いのロジックを理解したうえで、「ここはそのままでいい」「ここは変えたほうがいい」と、お互いに妥協策を見出していく。そういう作業が必要なのではないでしょうか。

 平和論を重視する人、改憲や保守的な思想を持っている人達両方がお互いこうした作業をやるべきで、攻撃ではなく対話してみることがまずは重要だと気づかされました。

 自衛隊だけでは対処できない、特に認知戦の問題はこのあたりの対立ともかかわる、国民にとっての大きな課題です。

 真剣に、いま日本が置かれている安全保障環境を考え、対立ではない形で、さまざまな立場の人たちが話し合える場が必要です。
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稲葉 義泰(いなば・よしひろ)
国際法・防衛法制研究者、軍事ライター
posted by 小だぬき at 06:00 | 神奈川 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自分を肯定する情報だけを正しいと思う人の結末 考えを修正できる人とできない人とで広がる格差

自分を肯定する情報だけを正しいと思う人の結末
考えを修正できる人とできない人とで広がる格差
8/27(火) 東洋経済オンライン

若者と接する場面では、「なぜそんな行動をとるのか」「なぜそんな受け取り方をするのか」など理解しがたいことが多々起きる。

企業組織を研究する経営学者の舟津昌平氏は、新刊『Z世代化する社会』の中で、それは単に若者が悪いとかおかしいという問題ではなく、もっと違う原因――たとえば入社までを過ごす学校や大学の在り方、就活や会社をはじめビジネスの在り方、そして社会の在り方が影響した結果であると主張する。

本記事では、著者の舟津昌平氏と組織開発コンサルタントの勅使川原真衣氏が、Z世代を通して見えてくる社会の構造について論じ合う。

■すぐに結論を出さない誠実な態度

 勅使川原:
『Z世代化する社会』は、Z世代を通して社会を読み解いた本で、中には若者をディスっているところはありますが、それは先に社会の構造があって、その中で合理的な判断をした結果だということを論じていますよね。
若者が悪いと断定せずに、なぜそんな言動をするのかをまず問う。その丁寧なひもときが、僭越な表現ですが、秀逸でした。と同時に、研究者の方らしいなとも思いました。

 舟津:
ありがとうございます。
ディスるのと、きちんと観察することは別なんですよね。
ある同業者の方からは、「学生の生活世界を誠実に見ようとしている」と評価していただきました。

 すごくうれしいと同時に、仮に私が少しでもそうできていたとしたら、やっぱり自分が誠実でないことがわかっているからだと思うんです。
わざとらしいほどに不誠実であることを自覚して誠実にやろうとしないと、不誠実になってしまう。

 勅使川原:
大学の先生は、いろんな意味で特権階級ですもんね。

 舟津:
そうなんだと思います。
私も含めて多くの人は誰かを悪者にしたがるし、傷つけたくなる。
われわれはつねに自覚なく、何らかの差別をしていると思います。
だからこそ、そのことに気をつけてつけすぎることはない。
若者のことは何も知らない、だから知ろうとするんだ、と。若者論の多くは、わかった感が出すぎているように思います。
もちろんそれはセールストークだということを前提としても、いかにも私は若者をわかっていますよ、という売り方をされるじゃないですか。

 勅使川原:
その瞬間に、理解から離れてしまっているのに。

 舟津:
そうなんですよ。勅使川原さんの問題意識でいえば、「能力とはこういうことで、このテストで完璧にスコア化できますよ」と言った瞬間、能力とは別のものになっているし、理解を離れているんですよね。
そういうツールにはもちろん意味もありますけど、完璧でないことを理解しないと、それを絶対視する傾向が強まってしまう。

 勅使川原:
ご著書でも、現代社会に対する処方箋を出されてはいますが、ないよりはましだから書きました、ってただし書きがありますね。そこの潔さが特にかっこいいと思いました。

 舟津:
その点はすごく悩みました。現代はYouTubeやTikTokに象徴されるように、強い効果音と刺激的なサムネイルで引きつける「アテンション・エコノミー」がますます強まっています。
強くてわかりやすい答えが要求される。
だから本書でもやはり何らかの「答え」を示す必要はあると思ってはいて、ときに強い言葉を使わないといけない。
「三行でまとめてくれ」という人にもこれがポイントだ、とわかるように。

 ただ、そうすると「何々が重要という話『しか』書いていない」と受け止められることもある。
読者の要望すべてには応えられないのです。
だからこそ、ある読者の方に「小さな子どもが見ているYouTubeのように刺激的な映像で伝えるのではなく、丁寧に畳みかけてくる」と言っていただけたのがとても嬉しかったです。

■ファストに伝わらない「知の形」のよさ

 勅使川原:
若者を論じた本って、「今の若者はこう」「だから、こう接するべき」みたいにさっさと結論を出すことが期待されるジャンルだと思うんですよ。
逆に、丁寧に畳みかけているという感想は、きちんと読まないと絶対に出てこない。
そういうふうにじっくり読んでくれる人がいらっしゃるのは、希望が持てますね。
それに、発売から結構時間が経っていると思いますが、いまだに売れている印象です。

 舟津:
これは本を出してみての気づきなんですが、知り合いの本だとか、自分がものすごく興味があるという本でない限り、買った本っておそらく1カ月ぐらい経ってから読みますよね。
4月に出た本をお盆に読んでいる人もたくさんいるはずです。

 勅使川原:
たしかに。私もそうです。

 舟津:
もちろん、すぐに読むこともあると思うんですけど、普通はそうじゃない。
だとすると、自分の思ったことが詰め込まれた本が他の人に伝わったり、反響が生まれたりするには、実は最低で2、3カ月はかかるんですよね。
全然ファストじゃない。でもそれが、あるべき知の形だとも思うんです。

 勅使川原:
それ、すごくわかります。私の友人におそらく誰もが聞いたことのある商品や企業のキャッチコピーを考えた人がいるんですけど、5秒で言えるコピーを5秒で考えていると思っている人があまりに多すぎるっておっしゃっていました。
本来、書くこと・考えることと同じくらい、ないしはそれ以上に読み取るって大変なことなんですよね。

 舟津:
元々、アウトプットってインプットに長い時間をかけて生まれるものなんですよね。研究論文はその最たる例です。
1つの論文を書くのに1、2年は絶対にかかります。
国際的にも著名なある先生は、「この論文は9年寝かせた」とおっしゃっていましたし、そういうことってざらにある。
だから、何もしていないように見える人が実は悪戦苦闘していて、次の年に2、3本ポンポンと論文を出すことも当然あるんですよ。

 という意味では、もちろん性質の違いが当然あるとはいえ、YouTubeは強いサムネイルと派手な効果音で瞬間的に伸びることが重要なコンテンツです。
それは理解できるし、そこで勝負している人たちもいる中で、出されてから10年後くらいに「こんなこと言ってた人がいたんやな」って受け取られるメディアや知の形も存在するほうが健全だと思うんです。

 勅使川原:
ほんとうにそうですね。
本書の中にも、アウトプットの価値が過剰に持ち上げられているという指摘がありましたね。
わかりやすくガクチカをまとめるみたいなのとか。それって、結局空っぽのコミュニケーションですし、空虚な成長、自己実現もそうなのかなと。

■インプットが地味すぎてみんなやりたがらない

 舟津:
たしかに、アウトプット過多になっている部分があるんですよね。学者はよく「インプットしないとアウトプットなんか出ないよ」と言いますけど、最近は誰にも見えないインプットは地味すぎて、みんなやりたがらない傾向があると感じます。
今では、インプットも全部見せるようになっていますね。こんな本を読みました、こんな勉強をしましたって。

 勅使川原:
本当に。この風潮が続いちゃうと、格差を助長するような気がしてるんですよね。
というのが、目に見えるものだけがリアルだと信じすぎている人と、そうじゃないことに気づいている人との差。
気づいている人は、とことん影練、影勉しているのかなと。杞憂ですかね。

 舟津:
いや、わかります。
強い言葉を使うと、まともに考えられる人とそうじゃない人の差がものすごく開いていく。
これも本を出して気づいたこととして、本や記事のレビューとかコメントとか、最初はチェックしていたんです。
読むのしんどいので、もうやってませんが(笑)。そこで気づいたのが、自分の説を補強するためだけに本や記事を読んでいる人がいることです。

 勅使川原:
えーっ、そうなんだ。1人、2人じゃなく。それはコメントで読み取れたんですか。

 舟津:
ええ。そういう人は少なくない印象を受けました。
私の本に限らず、ですね。たとえば、会社を変革するうえで「社内の抵抗を和らげてやりくりする」という本に対して、「抵抗を無視しないと変革はできない」と信じる人たちは、その本に低評価をつけるんです。

 気持ちはわかるし、実際に反対派を排除してうまくいくこともあるとは思うんですよ。
でも、その人自身の信念は絶対に揺らがないので、信念に合う本ならいい本だと言うし、合わなければダメだと言うわけです。
読書の手間をかけて、思い込みに近いことをただひたすら強化している。

 勅使川原:
違う視点を取り入れていないんですね。セルフエコーチェンバーだ。

 舟津:
まさしく。自給自足でエコーチェンバーできるという。信念を強化するためだけに読書をしている。
読書って賢くなるためにするものなのに、まったく賢くなれていない。

 かつ、やっぱりエコーチェンバーという言葉がこれだけ浸透するように、SNSやネットメディアって、もう自己強化の場になってるじゃないですか。車に例えるなら、車輪が歪んでいて、歪んだままに自己強化を重ねて現実の路線からずれていく車と、フィードバックできてまっすぐ走れている車とで、二極化が起きるというか。つまり、自分の考えていることを修正できている人と、できずに自己強化していく人との二極化。

■われわれは都合のいい欲望を肯定してほしい

 勅使川原:
うわー、ほんとそうだ。ディストピアですね。
もちろん、書き手側の努力も必要だとは思いますが、レビューを見ていると、わかんない部分は飛ばして、わかったところだけを都合よくつなげて理解している人もいるように思うんですよね。
これもファスト化の影響かもしれませんが。

 舟津:
そうですね。以前、鳥羽和久さんとの対談で、われわれは都合のいい欲望をかなえたがるようになった、という話をしました。
世の中はますます、あなたの都合のいい欲望を認めてあげますよ、というビジネスであふれているので。

 勅使川原:
ああ、そうか。共感とかまでいやらしく言わなくても、肯定されたいんだ。あなたは間違っていない、頑張ってると。

 舟津:
そうです。気持ちはわかるんですよね。やっぱり自分の考えを否定されるのって誰でも嫌ですし、逆に、そのとおり、あなたは真理に気づいていますね、って言われるとすごく気持ちがいいです。
もちろんそれを支えるロジックが雑すぎると、さすがに嬉しいとはならないかもしれませんが、都合よく、あなたは正しくて他の人が間違っている、みたいな本がより好まれている。

 勅使川原:
なるほどなあ。ご著書で書かれていた、「楽しい仕事に就くことを目的にするのではなく、楽しさを見つけるように生きることで、われわれは簡単に消費されない楽しさを享受することができる。
教育とは、楽しさを発見する過程を支えるためにあるものだ」というところにとても共感したんですけど、今のお話だとかなり難しいことだと感じますね。

 学校へ行っても、もしかすると、10歳ぐらいでも自説を強化するために先生のインプットを受けているかもしれない。
私の息子も12歳ですけど、いい/悪いをはっきり決める傾向にあるんですよね。親としては、なんとかしたいと思ってしまうんですけど。

 舟津:
根本的に人にはそういう性質があるんだと思います。
たとえば、学歴こそが唯一の価値だと思っている人は、それを肯定する事実に触れるたびに嬉しくなって自己強化していく。
でも逆に、明らかにすごいなと思う人が実はあまり学歴のない人だったりしたら、フィードバックが起きて考えを修正する機会がうまれる。
少なくとも、学歴は大事だけど絶対ではないね、くらいには思えるようになるはず。それこそが多様性の意味ですよね。

■「Aでもあり、Bでもある」を受け入れる難しさ

 勅使川原:
そうですよね。私は組織コンサルタントをやっているので、「結局、どっちなんですか」みたいな、何かを二項対立的に配置したうえで、唯一解を提示するように求められるような質問をよく受けるんですが、それに通ずるところがありそうです。
1つに答えを決めたがる反応がなんでこんなに多いんだろうと思っていたので。
ただそれが人間の性だとわかりつつも、性を超えたいですよね。性って超えちゃいけないのかな。

 舟津:
どっちか選べという2択に帰結していくのは、根深い問題ですね。
2という数字がカギでしょうか。アマゾンのピラハ族という部族には、数の数え方が1、2、たくさん、しかない、という論文が2004年に発表されて、話題になったそうです。

 勅使川原:
エジプトの壁画みたいな話ですけど、面白いですね(笑)。

 舟津:
そうなんです(笑)。
ちなみに2008年に、その研究が間違っていたことが発表されて、実際はピラハ族の言語には正確に数を表す概念がなかったそうです。
何が言いたいのかというと、たぶん3から急に認知が複雑になっていくんですよね。
専門家に怒られそうな雑な話ですけど、数学でも三次方程式から急に複雑になる。つまり、二元論を超えること、3以上の可能性を考慮することは相当難しいんですよ。

 勅使川原:
うん、そうだ。でも、複雑性は大事なテーマですよね。
一度受け入れるカラクリとして1つに決めることが有効だとしても、複雑さを受け入れないとどうしようもないところもある。

 舟津:
おっしゃるように、シンプルにすることで、たとえば組織のスローガンをはっきり言い切ることで、みんなが団結できることはある。
ただ、それ以外の可能性をちゃんと踏まえていないと、それはリスクになりうる。

 勅使川原:
そういう意味では、『Z世代化する社会』はすごく現実的な本だなと思いました。
Z世代の映えとか、ハレの日のようなものではなく、ごくふつうの日常に徹底的にこだわっているように読み取れました。
そこから出てくる結論は、もしかすると理想論じゃないか、と言う人もいるのかもしれないけど、そうした反応ってものすごく現実的なものを見せられたときのものなんじゃないかなと思うんです。

 舟津:
たしかに、現実的であることはかなり意識しました。学生たちや若者は、基本的に私に気を遣って演技する部分があると思うんです。
でも、そうじゃない素の部分も見たい。演技されると、いろいろな誤解を招きますから。

 たとえば、若者がものすごくお行儀よくしていると、若者の未来は明るいと思い込むし、逆に無能を演じて相手を上機嫌にさせることもできます。
そういう意味では若者は賢いし、演技ができるんですよ。
だから、「最近の若いやつはダメだ」と決めつけるのもフィクションなんです。
私は、できるだけそのフィクションを剥いで、真実の姿を書きたかった。

■「先生がいると、学生は正直に答えないですよ」

 勅使川原:
その姿勢はすごく表れていると思います。目次で言うと、私が一番好きなのは、「面接で猫を抱く」というところですね。
わかりやすさを重視すると、このエピソードを抜いてしまう人もいると思います。
若者のしたたかも含めて多角的に描くと、ぶれるとか、わかりにくくなるとか言われることもありますが、それをちゃんと拾っているところに舟津先生の意志というか、覚悟のようなものを感じました。

 舟津:
実はこの話、卒業した学生たちの卒論がベースで、本人らの協力と許諾を得て私が論文にまとめ直したものが出典なんです。
で、調査する際に私が直接聞き取りしようかと言ったら、学生たちは嫌がったんですよ。
先生が来るとみんな正直に答えないんじゃないかって。
それで友だちに聞くような感じで、素のままを引き出したんです。
そしたら、猫を抱いていたとか、友だちが部屋にいたとか、そういうリアルなエピソードが出てきました。

 勅使川原:
それは稀有な調査になりましたね。

 舟津:
真の若者像は一種類だけしかなくて、その一種類を自己強化するように、エビデンスがありました、やっぱりそうでした、とは書けないと思ってて。
だからこそ、突然ニュアンスの違った話も入れたんですよね。人によっては、わかりにくいからやめてくれとか、どっちなんだって聞きたくなるような話を。

 勅使川原:
でも、どっちもなんですよね。

 舟津:
本当にそうなんです。どっちも事実である。


勅使川原 真衣 :組織開発コンサルタント/
舟津 昌平 :経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師
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