逮捕・収監された元法務大臣が体験したムショ生活と「囚人のパラドックス」
10/14(月) JBpress
3年2カ月に及んだ「塀の中」の生活を経て、昨年11月、栃木県の刑務所から仮釈放となった河井克行・元法務大臣。
刑務所の中では獄中の体験について月刊誌に連載を書き続け、それは本になった。
元法務大臣は刑務所の中で、受刑者としてどんな光景を目の当たりにしたのか。
『獄中日記 塀の中に落ちた法務大臣の1160日』(飛鳥新社)を上梓した河井克行氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)
河井克行氏(以下、河井):
刑務所に収監された段階で、その人の人生はもう破壊されています。
もちろん被害者がいる場合は被害者の人生も破壊されていて、だからこそ受刑者は罪に問われたので、生涯かけて償う必要があります。
けれども、罪を犯した方もまた、刑務所に入った段階ですべてを失っています。
仕事も収入もなくなる。財産も補償に当てなければならない。離婚されたり、親子の縁を切られたり、大切な家族との絆が断ち切られる場合も少なくありません。社会との接点はほぼ失われてしまうのです。
そうした状況下で、数年間、閉鎖空間で過ごすわけですが、入所した段階はゼロか、むしろマイナスからのスタートですよね。
では刑務所の中で、多少なりとも人生がプラスに転じていくかというと、自分が刑務所生活を経験してみて分かりましたが、むしろマイナスが増えてしまうのが現実です。
──プラスは全くないですか。
河刑井:
務所の中で受けることができる資格試験は簿記しかありません。
簿記を否定するわけではありませんが、今の時代、社会で役立ちそうな資格試験は他にもたくさんあるでしょう。
「英検、TOEIC、漢検などがなんで受けられないんだ」と工場の同衆たちはしきりに文句を言っていました。
そういうものは刑務所内で挑戦できる資格として用意されていませんでした。
そして、いざ簿記の勉強を始めるにしても障害がありました。
受刑者は、私がいた図書計算工場から参考書を借ります。
私はまさにその「特別貸与本」の担当をしていましたから、実態をよく知っています。
しょっちゅう参考書や問題集を借りたいという申し込みが来ますけど、喜連川に受刑者は1400人くらいいるのに、簿記試験の参考書は3、4冊しかない。
それもかなり古いものばかりでした。
「今貸し出し中です」と、申し込み用紙にいつも断りばかりを書かなければならないのが、本当に心苦しかったです。
借りられないのなら、自分で買えばいいと思うかもしれませんが、お金を持っていない方が少なくありません。
■ 岸信介でも感じた「囚人のパラドックス」
河井:
また、これもひどいのですが、自費で外部に本の注文をしても、ほとんど品切れ状態なのです。
直近の新聞広告に出ていた話題の本やとても有名な本でさえ品切れ。
「なんでこれが品切れなの?」と先輩受刑者に聞いたら、「契約している本屋がおかしいんじゃないの」と言っていました。
一生刑務所の中に留めておくのならまだしも、受刑者は刑期を終えるか、その途中で、必ずまた社会に出て行きます。
ひょっとしたら、あなたの電車の隣の乗客や、アパートの隣の住人が出所した元受刑者かもしれない。
好むと好まざるとに限らず、出所した人たちと私たちは共存しないわけにはいかないんです。
そうであれば、刑務所にいた人たちが社会の一員として責任と自覚を持って生活できるようになるほうがいい。
出てから急にそうなれと言っても、できないですよ。
中にいる時から、そうした訓練をしていかなければならない。
しかし残念ながら、塀の中の現実は、それが果たせそうな状況ではありませんでした。
──刑務所の中の人間が、出所して外へ出て行くことがいかに内心では怖いか、「囚人のパラドックス」という言葉で説明されていました。
河井:
「囚人のパラドックス」は私が作った言葉です。
受刑者たちは、とにかく早く外に出たい。1日も早く外に出たい。
だけど、釈放された後に応援してくれるような、家族も、親戚も、友人知人もいない。
そういう環境で一体どうやって生きていけるのかと、皆すごく不安になりますよね。
でも、とりあえず刑務所の中にいれば、3食食べられるし、洗濯もしてもらえるし、回数は少ないけれどお風呂にも入れるし、毎月散髪もしてもらえるわけです。
もちろん、それはすべて国民の税金ですが、生きていくための最低限のものは提供される。
だから、外に出たいという気持ちとは裏腹に、やがて「ここの生活も悪くない」と思い始める瞬間が訪れるのです。
私は妻や友人たちからの本の差し入れのおかげで、刑務所の中で戦前戦中戦後史の本もたくさん読みました。
その中の一つ、原彬久さんの著書に、安倍晋三元総理の祖父である岸信介元総理大臣が敗戦後に巣鴨拘置所に収容されていた時、そういう心境になったことを獄中日記にしたためていたという記述がありました。
「一日も早く自由の身になることは誰しも念願するところ」という気持ちがある反面、「住めば都というかこの監禁の世界にも馴れるとまた一種棄て難き味あり」とも書かれている。
自分の置かれた環境や仕打ちに対して深い憤りは持っていらっしゃったと思いますが、戦後日本を代表する大政治家でさえ、塀の中の環境に慣らされていくお気持ちがあった。これは心理学のテーマかもしれません。
■ 出所後の生活に迷う受刑者のリアル
河井:
受刑者にとって、人生の本当の舞台は社会です。
何年かだけこの部屋の中にいるに過ぎないのだけれど、「本当はここが自分の人生の舞台かもしれない」とだんだん勘違いしてきてしまう。
厳しい自由の制限があるから、そこに無理にでも自分を適応させなければならない。
順応させようとものすごく努力する。
でも、順応すればするほど、刑務所の中の居心地が良くなってしまう。
だって、今はそこで生活しているのだから、順応できなかったら不幸じゃないですか。
やがて、出所後の社会における自分の姿を想像できなくなっていってしまうのです。
私のいた刑務所にも心優しい刑務官がいて、「刑期なんてすぐに過ぎていくから、出た後の準備を今からしっかりしておいてください」と毎週末に言っていました。
でも、刑務所として受刑者の釈放後につながるような情報提供やトレーニングを早めにしたり、あるいは、受刑者の心情を把握したり、出所後にどんな仕事に就きたいか聞き取りしたり、そういうことを相談できる面談のようなものはありませんでした。
工場に保管されている受刑者専用の求人案内を同衆たちと一緒に見ると、95%くらいが建設関係の仕事でした。
20代や30代ならいいけれど、もっと上の年齢になってくるとしんどい仕事ですよね。でも、そういう職種しかありませんでした。
「就職先は出所後に自分で探せ」ということなのでしょうけれど、そのための情報があるわけではない。
刑務所を出る直前になって、「私は一体何をすればいいんでしょう」と相談してくる人がいると笑って話す刑務官もいましたけれど、笑う話じゃなくて、本当にみんな迷っているのだと思います。
変な言い方かもしれないけれど、半ば強制的に社会復帰させられて、どうしていいか分からない。
だから、また犯罪に近づかざるを得なくなり、再犯率がなかなか下がらないのだと思います。
──河井さんの場合は、世間的によく知られていることから来る苦しみもあったのではないですか。後援会など、政治家時代に応援してくださった方々に、挨拶やお詫びにも行かなければなりません。
河井:
広島の僕の後援会は、僕が27歳の頃から、ずっと支えてくださってきた、家族同然の付き合いを30年くらい積み上げてくださった方々です。
ただ、「あらぬ誤解を捜査当局に与えぬために、一切地元には連絡しないように」と弁護団からきつく注意されていたので、接触を控えていました。
法務大臣を辞任してから、地元には一切帰らず、連絡もできませんでした。応援して下さった皆さんには大変な心配をおかけしたし、寂しい思いを味わせてしまいました。
■ 「石でも投げられるのか」と思って後援会を訪ねると……
河井:
現役時代は、時間があれば広島に帰り、呼ばれもしないのにいろいろな行事に参加したり、国政報告会を開いたりしていました。
災害があれば、いの一番に被災地に駆けつけ、復旧復興の様子を確かめるなど、とにかく人一倍地元に戻っていました。
だから出所後は、本当はすぐにでも地元に帰りたかったのですが、受刑中に体重が14キロも落ちましてね。
刑務所の中では運動する機会も十分に与えられませんから、極度に体力が落ちてしまって、3、4分歩くだけでも息が上がってしまう状態でした。
そこで、しばらくは体力をつけることに専念して、今年2月、5年ぶりに初めて地元に戻りました。
見慣れた故郷の姿を眺めた時には、本当に涙が出ました。
後援会の方々を訪問すると、それこそ「石でも投げられるのか」と思ったりもしましたが、ありがたいことに、私の顔を見るなり号泣されたり、抱き付いて来られたり、両手を握って離さなかったり、本当に皆さん温かく接してくださいました。涙が止まりませんでした。
中国新聞は、出所後に地元に帰った私が後援会の方々から冷たい対応をされたと書きましたが、一体どこの誰に話を聞いたんでしょうか。
温かい対応をしていただければいただくほど、5年間も寂しい思いをさせて、心配をおかけして、申し訳なくて、心の中で泣きながら1軒ずつ歩いて回りました。
──本書には現役の政治家時代の反省点についても書かれていました。部下に対して自分がパワハラ的な態度を取ったことがあるなど、なかなか素直に言いづらいことまでわざわざ赤裸々に書かれていたのが印象的でした。
河井:
刑務所に入って間もない頃です。新人の受刑者は「新入訓練工場」というところに送られます。
私もそこに送られました。そこで皆で行進の訓練などをします。
中には高齢の受刑者もいて、少し動作が遅い人もいます。
ところが、刑務官はそういう高齢の受刑者に対しても大きな声で怒鳴りつけて注意するのです。
「何度言ったら分かるんだ」「オレの言っていることがなんで分からないんだ」とドヤしつけていました。
その言葉を聞きながら、思わずはっとしました。
「私の言っていることがなんで分からないんだ」と、私自身も秘書さんやスタッフたちに言っていたなと思い出した。
その時に思ったんです。分からないから分からないのに、「なんで分からないのか」と問い詰めても、答えられるはずないですよね。
自分のすぐ横を歩いている受刑者がわーっと言われているのを見聞きして、「オレも同じこと言っていたよなぁ」ってね。
他山の石じゃないけれど、昔の自分の姿がよみがえりました。
もっと周りの人たちに愛情や尊敬を持って接するべきだったと、痛切に思いました。
刑務所の中では、毎日午後9時から就寝時間です。
お手洗い以外は立ち上がるのも禁止で、床に横になってないといけない。
そうはいっても、6時間、7時間経ったらもう目も覚めてしまう。だから、おのずといろいろなことを考えますよ。
刑務所の中では、考える時間は潤沢にあります。
■ 河井克行が考えるこれからの人生
──「これから僕はどうやって生きていくのだろうか。やりたいことは山ほどある」と書かれています。現在どのような生活をし、今後どのようなことをしていきたいとお考えですか?
河井:
アップルの創業者、スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で語った有名な祝辞があります。「Connecting the dots (点と点をつなげる)」です。これは、人生の中の一見関係のない点と点、つまり出来事と出来事がいつかは結び合って人生を彩っていくというお話です。この祝辞は、ネットで今でも見ることができます。
私はこの話が好きで、現役時代、地元の高等学校の卒業式などに呼ばれては、引用していました。
今本当に、スティーブ・ジョブズの言っていた通りだなあと感じる日々です。
こういう状況にもかかわらず、多くの方々から応援していただいたり、手を差し伸べていただいたりしています。
安倍政権時代に、安倍総理が外交担当の総理大臣補佐官という役職を私のために初めて作ってくださいました。
総理の特命により様々な国や地域に行かせてもらいました。
たとえば、フィリピンのドゥテルテ前大統領にはずいぶん親しくしていただき、今でも側近の方々を含めてお付き合いがあります。
出所するなり「早くおいで」と言ってくださいました。
会った瞬間、「My friend, my friend」と固く手を握り締めていただきました。今年は既に4回フィリピンを訪問しています。
今、いくつかの企業の顧問をしていますが、海外でのビジネス展開に私の人脈や知見・経験を活かすことができればと思っています。
7月にはバチカンに行きました。今回で7回目の訪問でした。
そして、つい先だっては、ブータン王国に行ってきました。
あの国を訪れるのはこれで6回目です。訪問の度に、第四代国王陛下に謁見を賜り、今回も、本当にありがたいことですが2時間も、お時間を割いていただきました。王妃陛下が最初から最後までずっと側にいてくださいました。
「受刑は長らく大変でしたね」「政治をやっていると、他の勢力が妨害したりして、自分のコントロールが及ばない、いろんなことが発生しますよ」とお慰めいただきました。
通り一遍の言葉ではなく、本当に温かく響きましてね、思わず涙が出ましたが、王妃陛下が私の隣からそっとティッシュを差し出してくださって。また胸が熱くなりました。
「ブータンの発展にぜひ協力してほしい」と言われました。
今までの私の人脈や経験が結びついていく予感がしています。スティーブ・ジョブズの言ったことは間違いありません。これは私に限らず誰でも、過去の出来事や人間関係が結びついて、必ず点と点は結びついて線になります。
いろいろな経験をした私だからこそ言います。
特に若い人たちに言いたい。絶望しちゃいけない。諦めちゃいけない。大丈夫です。生きていればぜったいに大丈夫だよと。
長野光(ながの・ひかる)
ビデオジャーナリスト