2024年10月28日

「日本にはめちゃくちゃ“縦の多様性”がある」社会を変える行動を起こすには?(後編)

【ブレイディみかこさん】「日本にはめちゃくちゃ“縦の多様性”がある」社会を変える行動を起こすには?〈インタビュー後編〉
10/26(土) yoi

人種と貧富がごちゃまぜの「元・底辺中学校」に通う息子の日常を描いた話題作『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』では、他者を考え、想うことの大切さを教えてくれたブレイディみかこさん。
インタビュー後編では、行動に移す勇気を持つ大切さを教えてもらいます。

もやもやしているばかりじゃ始まらない!

−−集英社の雑誌メディア「MORE」のウェブ&プリント版では20代女性の悩みを聞く連載をされています。
読者が日々モヤモヤしていることを聞くことで気づいたことはありますか。

ブレイディさん:
まず東京在住で大手企業に勤めている子と、地方在住で中小企業に勤めている子では、話す内容も、悩みも違う。
日本では“階級化”が進んでしまっているな、と感じます。

私が若かった80年代は、今よりずっとマスメディアの力が強くて、雑誌も影響力を持っていたから、都心と地方で流行っているものにそこまで違いがなかったと思うんです。
でも今は見ているコンテンツが階層ごとにまるで違うから、文化的なものを含めた階級が生まれてしまう。
日本はそれこそ“縦の多様性”がめちゃくちゃあると思いますよ。

でも、大企業に勤めている子が得をしているかというと、そうでもない。
上司からのセクハラやパワハラに悩まされている子もたくさんいるようです。
いまだに、「結婚適齢期」というキーワードを発する子がいることにも驚きました。
「25〜30歳が適齢期だから、今から婚活して、結婚、妊活しなきゃ」とかって。

私はイギリスの国民保健サービス(NHS)を使って、無料でIVF(体外受精)治療を受けたんですが、当時は40歳までしかやってもらえなかったものが、最近改めて調べてみたら年齢制限が43歳に上がっていたんです。
テクノロジーや医療技術の発達が、適齢期などを気にしている日本の子たちの意識を変える突破口になるんじゃないかなって。

−−女性が抱える労働問題を解決するためには、どんな心構えでいたらいいのでしょうか。

ブレイディさん:
どんな言葉をかけたらいいのだろうって、書き手として考え続けています。
やっぱりみんな本当にもやもやしているから。

韓国の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』が流行りましたよね。
この本の担当編集者に聞いたところ、韓国では女性たちがあの小説を読んでみんな怒ったらしいんです。
でも日本の読者は「泣きました」ってリアクションばかりだったと。
泣いているばかりじゃ何も始まらないんですよね。
韓国の人たちみたいに怒らないと、行動を起こすまでに至らない。

100年ほど前にイギリスで女性参政権運動をやっていたサフラジェットを知っていますか? 
彼女たちは参政権を得るために、街に出て暴れたんですよ。
当時、夫や子どもたちを優しく支えてくれる母性あふれる存在だとされていた女性たちが、暴力沙汰を起こすわけですから、男性たちはさぞ衝撃を受けたと思います。
でも、激しい運動を通じて「女性だって社会に参加すべき人間なんだ」っていうのを、男性たちにしっかりと理解させたわけです。

−−行動を起こすことが大切ですね。

ブレイディさん:
日本はジェンダーランキングがめちゃくちゃ低いって話題になりますよね(2024年は146カ国中118位)。
でも、15年連続1位になっているアイスランドだって、最初から男女平等の考え方が根付いていたわけではない。

1975年に女性たちが家事や育児、仕事をすべて放棄して街へ繰り出すストライキ運動を起こしたんです。
「女性の休日」と呼ばれるこのストライキにアイスランド女性の9割が参加したそうです。
9割ってすごくないですか。
そういう行動があったからこそ、今がある。
日本はもやもやしたり泣いたりしているだけで終わってしまって、まだ次の一歩に踏み出せない……。
生きづらい、きつい、という感じは膨張していると思うんですけど。

「yoi」でも、ウェルビーイングを取り上げていますけれど、自分だけのウェルビーイングじゃなくて社会全体のウェルビーイングも考えていかなくちゃいけない。
「私のウェルビーイングを突き詰めていきたいのに、制度とか社会からの邪魔が入るんだよね」って気づけたら、最初の一歩。自分のことだけ考えて動いても、必ず限界がおとずれます。
社会全体が少しでも上向くようにしないと、自分の暮らしも向上しないわけです。

−−社会全体のことを考える俯瞰的な視野を持たないと、自分だけ得をすればいい、自分が損をするのは嫌だ、という考えが広まってしまいますね。
「弱い」女性でいたくないから、男性側につこうとする人も出てきてしまいそうです。

ブレイディさん:
いわゆる名誉男性って言われる人たちですよね。
でも、日本に女性の首相が出てこないということが、名誉男性なんてやっていても限界があるということの証拠なのでは?
 たとえ男性に好かれて引っ張ってもらったとしても、男性と同等に活躍することが約束されていないですから。
人口の半分を占めている女性を活躍させないなんて、単純に国の損失だと思いますけどね。腹立たしいです。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の中で、意見の異なる相手を理解する知的能力である「エンパシー」という言葉を、「他者の靴を履く」と表現して紹介しました。
たしかに権力を持っている人の靴は履き心地がいいし、得をすることももしかしたらあるかもしれない。

でも、自分が病気になったり、事故にあったりして権力者側にいられなくなる未来を想像することも大事です。
今ここにいる自分とは違う境遇になるかもしれない自分へのエンパシーです。
生活保護受給者をバッシングする動きもありますけど、自分だっていつ受給者になるかわからないのに。
あまりにも想像力が欠如している人が多い気がします。

家族にばかり面倒をみさせて国は何もしない

−−イギリスの若い世代の人は、どんなことに生きづらさを感じているのでしょうか。

ブレイディさん:
階層によってまったく違ってくるとは思いますが、イギリスは貧困がとても広がっているから、貧しい層は本当にお金がないですよね。
TikTokでは、一昔前なら自分たちが買ったものを紹介する動画が流行っていましたが、今は着回しを紹介する動画がよく見られます。
みんな新しい服を買うお金がないから。
「丈の長いシャツはこうすればボレロみたいにして着られますよ」みたいな。
マーガレット・サッチャー時代に、貧困層が増えたときにもDIYって言葉がすごく流行ったんですよ
時代が戻ってきてしまっている感じがします。

−−日本の若い世代では、親との関係性に悩んでいる方も多くいます。イギリスではどうですか。

ブレイディさん:
普遍的な問題なので、もちろんイギリスでも悩んでいる人はいると思いますが、日本の家族観って独特ですよね。
たとえば日本では、結婚は相手とするというより、“家”とする側面が強いように思います。

夫が先に他界した場合、死後離婚しておかないと義両親の介護をしないといけないとか、生活保護を受けるときは、親族や兄弟に「あなたが扶養できないんですか」って連絡がいきますよね。
家族に面倒を見させて、国は責任を放棄する。
欧州の人たちにこの話をすると「税金払っているのに国は何をしているの? そのための税金じゃないの」ってとても驚かれます

日本では、将来何かあったら国じゃなくて子どもたちに面倒をみてもらわないといけないという考えがあるから、教育熱心にもなるし、子どもと親の距離が近くなりすぎてしまうのかもしれません。
「困ったら家族でなんとかしよう」から、「社会全体で個人を支えよう」という方向に意識を変えていかないと。個人のために政治を行う国になってもらわないと困るから、社会に目を向けなければいけないし、そういった政治家を選ぶ必要がある。
個人の生活とそれを支えるべき政治がきっぱり切り離されてしまうと、その間を補うものとして家族の関係性の圧が強くなりすぎるのかもしれません。
posted by 小だぬき at 14:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「みんな違って、みんないい、は残酷」。“多様性”が一人歩きする日本の現状

ブレイディみかこ「みんな違って、みんないい、は残酷」。“多様性”が一人歩きする日本の現状
10/26(土) yoi

英国の「元・底辺中学校」に通う息子の日常を綴った話題のエッセイ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ほか、著作を通じて「地べた」からの視点で社会と個人のあり方を問い続けるブレイディみかこさん
社会情勢に目を向ける大切さを教えてもらいました。

■女性が社会情勢に疎いって、誰が決めた?

――「自分自身の興味のあることは、おいしいごはんの作り方よりも政治や社会時評だ」という旨のお話を過去のインタビューでされています。
ブレイディさんが政治や社会問題に興味を持たれたきっかけを教えてください。

ブレイディさん:
私も毎日料理をするし、おいしいごはんのレシピにも興味がありますが、この発言は「女性エッセイストは料理やファッション、家族のことなどを書くものだ」というありがちなイメージに対して反論したい気持ちの表れだと思います。

私の著書が、女性エッセイ本のフェアに取り上げられたときに、「ブレイディさんの本がこのフェアに入っているのは違和感がある」とSNSで発信していた人がいました。
選書されていた本が、政治時評的なエッセイだったからでしょう。
世間では、女性エッセイは政治や経済について書いたものではないという思い込みがいまだにあるのではと感じます。

イギリスの新聞各社がこぞって執筆を依頼していたジェリー・バーチェルという女性コラムニストがいて、この方の文章は隣人のおじさんとトラブルが起きた、という身のまわりの話から始まったと思いきや、今のイギリスの年金システムとか、財政が苦しい状況になっているのはなぜなのかという問題につながっていくんです。
ミクロからマクロに螺旋階段を上っていくようなコラムを書く人で。
この人の文章を読めば、政治に疎い人でも興味を持たずにいられない。
自分が日々疑問に感じていることが、いかに歴史や政治とかに関係しているのかを短い文章で教えてくれるんです。
はじめてこの方の文章に触れたとき、「日本にはあまりいないタイプだな」と夢中で読み漁りました。

あとイギリスでは、政治の話をできないと退屈されてしまう気がします。
パートナーとデートしてバーに行くとするじゃないですか。
そこでは必ずといっていいほど「今の政権のことをどう思う?」といった話になります。
友人同士の会話でも、政治や社会の話がガンガン出てくる。
「君の意見は?」って聞かれて、何も答えられないとがっかりされるわけです。子ども扱いされるというか。
パートナーや友人といい関係を築くには、社会情勢に対してしっかりと意見を持たないと同等に扱われなくなる。

――ブレイディさんの著書『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』にも、家族で政治の話をするエピソードが出てきますね。

ブレイディさん:
あの本を出したときに「なんでこんなに政治の話をするんだ?」って聞かれたこともあるんですが、それは日常的に夫婦でそういった話をしているから。
夫婦だけでなく、近所の人とだって、ママ友とだって世間話として政治の話をします。むしろしないほうが違和感がある。
日本とはまったく異なる環境ですよね。

■政府が個人の生活に口出ししてくるのは普通じゃない

――ブレイディさんのエッセイ『転がる珠玉のように』では、主にコロナ禍での暮らしが綴られています。
イギリスでは厳格な外出制限もあり、日本以上に生活に変化があったかと思いますが、コロナ禍を振り返ってみてどのようなことを感じますか。

ブレイディさん:
コロナに苦しめられた時期って、今の暮らしから切り離されているように感じますよね。
でもコロナの流行が終わったとしても、コロナが存在しなかった頃に完全に戻ったわけじゃないと最近よく思います。

最近の話なんですが、薬局に行ったらおじいちゃんがマスクをして買いものに来ていたんです。
日本に比べてイギリスでマスクをするのは珍しいことではあるのですが、店内にいる若い男の子がそのおじいちゃんにわざわざ「コロナなんてもう4年前だよ、マスクなんてしなくていいんだよ」と声をかけていたんです。

でも、そんなの大きなお世話じゃないですか。
マスクをするかしないかは個人の自由であるべきで他人にとやかく言われる問題ではない。
コロナのときに政府がやっていた、個人の行動に口を出すという行為が当たり前になりすぎてしまって、放っておけばいいのに口を出してしまうみたいな習慣が残ってしまっているのかもしれません。
異常な状況でもどんどん慣らされていって「こんなもんだろ」と思うようになってしまう感覚というか。
でもこれは全体主義的だし、一番のホラーであることは知っておきたいですよね。

――過去のインタビューで「コロナ禍ではなんとかなると信じてもがいていくしかなかった」とおっしゃっていましたが、もがくために頼りにしていたものはありましたか。
また、もがいた結果、得たものはありますか。

ブレイディさん:
コロナとか関係なく、人はもがくしかないというか、もがくのって当たり前のことじゃないですかね。
生きている以上はもがくしかないし、もがくってそんな特別なことじゃない。
日本はアメリカと似ていて、素敵に輝いている人をロールモデルにしがちですよね。

以前、アメリカの女性ライターが「イギリスの刑事ドラマに出てくる女性刑事の描写がすごい」と褒めている文章を読んだのですが、イギリスのドラマに出てくる女性刑事って生活臭がしっかりと描かれているんですよ。
アメリカの刑事ドラマに登場するような、おしゃれでバシッと決めていて、どうやってそれで犯人を追い詰めるの?ってくらいのピンヒールを履いている女性刑事は出てこない。

走りやすい靴を履いているし、口紅もはげちゃってるし、シミもシワもある。かっこよく昇進もしないし、私生活もうまくいってないし、上司とケンカもする。
人気ドラマに、もがいている女性が登場するのが普通であるイギリスで暮らしていると、「もがく」という言葉ひとつにしても、そんなたいした言葉じゃないと思って使うようになる。

■「みんな違って、みんないい」って誰の目線?

――ドラマの女性刑事の描き方ひとつをとっても、イギリスでは「世界にはさまざまな人がいる。それは当たり前のことである」という共通認識が深く根付いているのを感じますね。
ただ、日本では「多様性」という言葉が一人歩きしてしまっている気もします。

ブレイディさん:
イギリスでは1990年代の末くらいに「多様性」という言葉が流行したんですよね。
ブレアが首相になった頃だから、もう30年くらい前。
移民を受け入れてきた国で、街にも外見の異なる人々がたくさん歩いているから、違うという現実が目の前に広がっています。

日本ではこの言葉はかなり遅れて広がり、多様性というと「みんな違って、みんないい」という意味で使われていますが、みんなが違うということは、いいとか悪いとかの問題じゃない、と感じます。
「あなたたち神様なの? どこからものを言ってるの?」って思います。
いいとか悪いとか、善悪をジャッジするものではなく、現実問題としてみんな違うわけです。

よく言っているのですが、貧困でお腹を空かせている子も、裕福で不自由なく暮らしている子も「みんな違って、みんないい」とするのは残酷です。
日本は見た目がほぼ均一だからみんな同じに見えてしまうかもしれませんが、一皮むけば環境も思想もまったく違うってことは現実にあるわけですよね。
違うという現実を受け入れて、そこからどうやって共生し、どのような社会を構築していくかを考えていかないといけないのではないでしょうか。

ブレイディみかこ
ライター・コラムニスト。
福岡県出身。音楽好きが高じて1996年から英国ブライトン在住。ロンドンの日系企業に勤務したのち英国で保育士資格を取得、「最底辺保育所」で働きながらライター活動を開始。2017年『子どもたちの階級闘争』で新潮ドキュメント賞を、2019年『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でYahoo!ニュース|本屋大賞2019年ノンフィクション本大賞などを受賞。最新作は『転がる珠玉のように』。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする