競争社会の優勝劣敗は「自己責任」というフェイク
責任とは「失敗の後始末をすること」ではない
岡田 憲治 : 政治学者/専修大学法学部教授
2024/10/28 東洋経済オンライン
敗者 自己責任
今日蔓延している「自己責任論」にまつわるフェイクについて考えてみたい
「青少年の刑法犯罪は増加の一途」
「生活保護費の不正受給が蔓延し財政が逼迫」
もっともらしく聞こえますが、これらはフェイクです。
気がつけば、日本の政治や社会を考えるための基本認識に、大中小のフェイクとデマがあふれかえっています。
「『世界は狂っている』という大雑把で切り分けの足りないペシミズムに陥らないことが大切」と述べるのは、政治学者の岡田憲治氏。
大中小のフェイクについて考えることをスイッチにして、この世界を1ミリでも改善するための言葉を共有する道を探そうと企んで執筆したのが『半径5メートルのフェイク論「これ、全部フェイクです」』。
今回は、自己責任にまつわるフェイクについて考えてみたい。
気になる言葉「わたし責任取れませんから」
PTA会長だったときに、これまでやってきたことをやめるという比較的大きな決断をする場面になって、「じゃ、そうしましょう」と終わりにしようとすると、必ず不安を吐露する人が出てきました。
PTAは「卓球愛好会」と同じく、任意団体なので自由に運営の工夫をすればいいのですが、長いことやってきたことを変えるには勇気が必要なようです。
そんなとき、「でもやっぱり変えちゃマズいんじゃないですか?」と言ってくれる人の言葉に、どうにも気になるものがありました。
それは、「それを廃止してしまって、その後地域の人や以前の役員さんから文句を言われても、わたし責任取れませんから」というものです。
私は「責任なんてないし、取らなくてもいいんじゃない?」と返すのですが、相手は納得しません。
問題が重大でない限り、役員さんを不安にさせても楽しく活動はできませんから、「そうかぁ。もう少しいろいろ意見を聞いてみましょう」と言えます。
多くの人が行っている「失敗の脳内翻訳」
しかし、「これは今、マジでやめないとダメだ」という、みんなを苦しめている案件の場合は、もう仕方なく「何かあったら、全部僕が責任取るから大丈夫です」と言いました。
そう言われると、ほとんどの人は「そこまで言うなら、ま、いいです。それで」となります。
PTAの運営において責任が生ずるとしたら、その場面は「目の前の子どもたちの命を守る」と「会員から集めたお金をきちんと管理する」以外にありません。
基本的に、任意団体の活動には失敗がないのです。ボランティアですから。
だから責任は「目の前の子どもが危険にさらされたのに放置した」とか、「みなさんから集めたお金を公正に扱わなかった(横領した)」といった、「大人として当たり前の責務を果たさなかった」ということであって、それは「PTA役員の責任」ではないわけです。
どうしてこういうすれ違いが起こるかと言うと、私たちの社会の多くの人間が、責任を「失敗したことの後始末や尻拭い」と脳内翻訳しているからです。
裏を返せば、「失敗することを死ぬほど恐れるように教育されたこと」「失敗をした後のセカンドチャンスを、ほとんど用意してくれない社会で生きてきた」ということです。
「間違えるとアホと思われる」というおびえ
子どもの頃から正解を見つけてさっと先生に示し、決して間違えない、間違えたら「マジ、ヲワタ」と即断する、ノートの誤答はすべて消しゴムで消す、みたいなことを繰り返してきた人たちは、責任の本義(己の判断と行動とその結果を結びつけて考えること) を「失敗したダメな自分がそう烙印を押されて、それにじっと耐えること」と、独自の解釈をしてふさぎ込むのです。
だから、あれこれと事前に危険回避のための知恵を使います。
「答えを間違えるとアホだと思われるんじゃないかというおびえ」を小・中・高と12年間育て続けた大量の日本人は、PTAのやってきたもう必要のない習慣(「運動会の招待席へのお茶出しのシフト表をエクセルでつくってミーティングする」など)を「やめましょう」と言われただけで、何かのスイッチが入ります。
そして、「やめた結果起こる心配なこと(文句を言われる、批判される、勝手なことをしたと指摘される)」の場面を1秒くらいの間に先回りして脳内に浮かべて、「責任取れませんから」と言って、なおも無駄なミーティングのために時間をつくり、夕方の家事育児の時間を無理してズラしたりするのです。
「そんなのやめましょう」と言い出しっぺになることを避けるコストです。
競争社会での敗北は誰の責任か?
この「失敗は許されず、それが回避できなかったときは、黙って耐えてやり過ごす」という心の習慣は、PTAの現場を超えた社会生活においても同じように展開されます。
世紀転換後、規制緩和と競争の推奨、無駄を省いて効率よく優勝劣敗市場を生き延びようとする「ネオ・リベ」の風潮は、こういう過剰な自己卑下を「自己責任」という言葉で正当化させました。
各々が自分の才覚と努力とをもって競争社会に挑んだ結果だし、それは市場(アダム・スミスの言う「神の見えざる手」)が出した答えだから、敗北は自己責任であるという説明です。
でも、これは私たちの社会を、今日著しく萎縮させているよろしくない「フェイク」なので、やや強めに言っておきましょう。
「自己責任」などというものが問題になるのは、自分が「自由に選択することができた場合」だけなのであって、結果に至るまで「そのような条件を強いられざるをえなかった」、あるいは「自由に選択しろと限定された選択肢〞を無理に押しつけられた」場合には、問う必要も意味もないものです。
単体では弱くて卑小なる人間が、それでも己と他者の力を信じ、多くのチャンスを得て、失敗したり間違えたりしながら成長していくための胆力とポジティブな力を引き出させる工夫を「教育」と呼びます。
そのために不可欠なのは、徹底して「自分を重んずる人間になる」ために、「次のチャンスを提供し」「適合しない競争やステージとは別の選択肢を用意する」という3つです。
「公平」や「平等」は十分に用意されていない
にもかかわらず、今日蔓延している自己責任論は、成長すべき者たちに一番必要なこれらの3つの基盤を、ことごとく奪っていくのです。
人間は、他者からの肯定的評価なしには自分を自律的に支えることはできません。
そして、小さく卑小なる、世界に対して不完全情報しか持ち得ない人間は必ず失敗するため、とにかくセカンドチャンスが必要です。
そして、同時に「どうしても限界が来たら一度ゲームを降りる」ための階段の踊り場が不可欠なのです。
ちまたの自己責任論は、評価は冷徹な競争の「結果」だけだとし、だから公平だと強弁し、負けた者は次の勝負の段取りすら自分で調達せよと追い詰め、そしてゲームを降りた者たちを市場の敗者として、社会のメンバーから排除します。
百万歩譲って、「公平な競争なら仕方がない」としても、この世の社会経済的競争は、基本的な「公平」や「平等」を十分に用意していません。
教育を受ける豊かな経済基盤は、平等に配分されていません。
直感的な能力や豊穣な想像力に長けていても、その反面、合理的かつ迅速な情報処理が苦手な者たちを適切に評価する学力基準が用意されていません。
その時代に受け入れられやすい容姿は、自分では選択できません。
離婚や死別というアクシデントの責任は、子どもにはありません。
未知のウイルスで肉体がむしばまれる者も無傷の者もいます。
難病や障害をもっていることは自分にも起こりうる不条理です。
これらはすべて、自由に選択できなかったことです。
善処する方法を考えて決断する諸条件が、きちんと用意されていなかった者たちにとっては、それが理由でうまくいかなかったら、それは彼らの自己責任ではありません。
無念さと無力さは敗者の言い訳ではない
自己責任論は、そういう「選択できなかったこと」を前にしてたたずんでいる人間の無念さや無力さなどをすべて「敗者の言い訳」と排除して、なおも「そうなることを避けるための努力が足りなかったのだ」と追いかけて来て切り捨てます。
なんと傲慢な理屈なのでしょう。
自分の努力によってすべてを成し遂げたと結果から逆算して、人の善意や運にも恵まれたことを忘れる、自分に対しても他人に対しても浅はかな考え方です。
そしてそれを「この世の冷徹な原理だ」とします。最悪のフェイクです。
明日不運にも破産したり、病気になったりしても、そう言えるのでしょうか?
国境を越えてヒトもモノもカネも行き来する、80億人もの人がいるこの星で起こる経済の動きなど、誰一人として自覚的にコントロールなどできません。必ず富の分配には歪みが生じます。
想像できないほどの数の遺伝子が行き交ってどんな人間が生まれるかは誰にもわかりません。
遺伝子の偶然のミスプリントで生まれるがん細胞がその後どうなるかなど、世界最高の医学でも解明できません。
離れていく他者の心はお金ではつなぎ止められません。
人間は不完全情報の下で生きている以上、森羅万象に責任など取れるわけがないのです。
格差の構造を放置・堅持しようとしている者
しかしそれは、すべての人間が責任から自由という意味ではありません。
責任を取るべき者とは、巨大で複雑なシステムを生きぬく条件が適切にそろわないために不当な扱いを受けているおびただしい数の人たちの命とエネルギーを搾取して、運と不運をせこくかぎ分けて、いろいろと諦めねばならない人たちを生み出す「格差の構造」を放置し堅持せんとしている者たちです。
勝者のためのゲームのルールをつくる者(市場の勝者)と、そしてそれを修正しようともしない監視者(政治家)です。
とりわけ、小さく弱く不利な立場で生きている人々を動員して、彼らの命と引き換えに壮大な社会資源の動員を行い、国民の人生と生活を左右するような大きな決断(戦争!)をする統治エリートたちの責任は、絶対に放置してはなりません。
病と不運で経済が立ち行かなくなった者と、満州国をでっち上げた者とを、同じ「自己責任」でくくってよいはずがありません。
言わずもがなの話です。