2024年10月31日

オーバーコミュニケーション社会が引き起こす人格崩壊 氾濫する「匿名の言論」

オーバーコミュニケーション社会が引き起こす人格崩壊 氾濫する「匿名の言論」
10/29(火) Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE

 世界の有名観光地などで、観光客が地域住民の生活を圧迫するオーバーツーリズム(観光公害)が問題になっています。
日本でも京都などで大きな問題になっており、他人事ではありません。

 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、オーバーツーリズムについて「コミュニケーションの過剰による社会的弊害」の一つであると指摘し、「オーバーコミュニケーション」の問題であるといいます。若山氏が独自の視点で語ります。

ビュルツブルクのユースホステル

 若いとき、ヨーロッパをヒッチハイクで放浪していて、ドイツのビュルツブルクという街のユースホステルに泊まったことがある。
古い城館を改装したようなユースであった。
スペインにはパラドールという古い城館や修道院を改装した公的なホテルチェーンがあって、きわめて魅力的な施設となっているが、それに似ていた。

 一方、日本の伝統建築は木造であるから、このような再利用が難しいのであるが、それでも最近は小さな木造の古い家を改装して、インターネットをつうじた簡易な宿泊に利用することが人気である。
外国人観光客も、日本文化のデリケートな性格を理解しはじめたようだ。

 さてそのビュルツブルクのユースホステルで、ヨーロッパを周遊中のドイツ人若者二人と相部屋になった。
僕が日本から来た大学院生で、人生に疑問を感じてヨーロッパを放浪しているのだというと、話がはずみ、彼らはそのときのドイツ社会をオーバーエデュケーションだと批判した。
ドイツでは大学などへの進学率が過剰に高くなっているということで、なるほどそういう批判もあるのかと、僕はこの言葉が不思議に頭に残ったのだ。

 最近は、オーバーツーリズムがよく話題になっている。
観光地に人が来すぎて、地元の人が迷惑することである。

 しかしオーバーコミュニケーションという言葉はないのではないか。
最近考えはじめたことだが、いわば僕の造語である。

オーバーコミュニケーションとは何か

 ツーリズムも、エデュケーションも、一種のコミュニケーションであるととらえられるかもしれない。
そういう意味でのコミュニケーションは、人類の知的進歩をうながすことであり、過剰となって弊害をもたらすということは、これまでの常識では考えにくかった。

 しかし昨今の、SNS上における誹謗中傷、学校のいわゆるイジメ、監視カメラの氾濫と顔認証、AIの発達とその悪用、闇バイトのサイトを使った匿名流動型犯罪などを考えると、単なる「情報過多」という言葉ではとらえられないような、コミュニケーションの過剰による社会的弊害が現れているように思えるのだ。

 ここでは、オーバーツーリズムもオーバーエデュケーションも、また過度の都市集中も含めて、オーバーコミュニケーションという現象について考えたい。
遠隔地を結ぶ情報技術によって都市集中に歯止めがかかるという見方もあるが、それはものごとの表面しか見ない意見であって、長期的にはコミュニケーションツールの発達はリアルの都市集中を促進するものだ。
19世紀以来の人口爆発は、都市人口の爆発であり、都市集中は交通技術と情報技術の発達と並行する。これまでにも述べてきた加速的な都市化現象である。

 そして今、人類の社会全体がオーバーコミュニケーションという都市化の過剰に陥っているのではないか。

テレビ・パソコン・スマホが人間を衰退させる?

 東京の地下鉄などでは、スマホを見ながら列車を乗り降りする人を多く見かける。
彼らは周囲に迷惑をかけていることに気づかない、あるいは気づかないふりをしている。

 かつて大宅壮一はテレビの普及を「一億総白痴化」と評した。
僕の友人は「テレビでハクチ化、パソコンでオタク化、スマホでサル化」と評する。
極端な表現だが一理ある。
要するにそういったコミュニケーション手段によって「人格」が微妙に変化しているのだ。

 人は社会的動物であり、人間相互のコミュニケーションが文化文明の基本である。
文字というものが成立してから、法律や契約が成文化されることによって、確固たる国家システムが誕生した。
1960年代、マーシャル・マクルーハンは、活版印刷の時代からテレビの時代に移ることによる人間の社会的性格の変化をメディア論として展開した。
そしてその後、人間の社会では、パソコン、携帯電話、インターネット、スマホ、AIというかたちで、コミュニケーションのツールだけが加速的(爆発的)に発達している。

 もちろんこうしたコミュニケーション手段の発達は人類の文明の発達であるが、その過剰は、人類の一人一人を衰退させているのではないか。
あるいは、表層的な言葉や映像が氾濫することによって、本当の(魂の)コミュニケーションが難しくなっているのではないか。

同調する人格

 「人格」というものは、単に個人の特性というより、個人とその社会との関係の特性というべきだろう。
社会におけるコミュニケーションの体系が個人の人格をつくるのだ。

 テレビ(特に地上波)をみていると、今の日本は周囲に同調する人が多いと感じる。
バラエティ番組ではタレントとかゲイニンとかアイドルとかといわれる人たちが、そのスタジオに満ちている空気に同調し、その空気を読めない人をバカにして笑い合っている。
報道番組のコメンテイターたちは、どこかで聞いた同じような意見を繰り返すばかりだ。
英語圏では「ステレオタイプ」というが、この言葉が日本に広がらないのは、日本ではそれがあたりまえだからではないか。
日本中の言論がステレオタイプになっているのではないか。
個性の時代といいながら個性のない時代になっている。

 安倍晋三元総理と森友学園や加計学園の問題で、「忖度」という言葉が人口に膾炙(かいしゃ)したが、日本では忖度する人格すなわち「同調する人格」でないと、うまく生きていけないのかもしれない。

 しかし物事には裏がある。今の日本には、「同調する人格」の裏返し、すなわち匿名化する人格も問題となっているのだ。

匿名の人格・監視される人格

 SNS上の誹謗中傷は、ここに書くのもはばかられるほど過激である。
サル化した人たちが発する匿名の言葉は、本当のサルの爪以上に凶暴だ。
今の日本には「同調する人格」とは逆の「匿名の人格」が存在するのである。
その「匿名の人格」による「匿名の言論」の氾濫が、本当の言論によるコミュニケーションを機能不全に陥らせる。
最近、EUが巨大IT企業に厳しくなっているもそのことを感じているからだろう。

 そして同時に、監視カメラと顔認証などの個人特定手段が社会に浸透している。
中国やアメリカの犯罪は、監視カメラとプロファイリングで捕捉されているようだ。
われわれのような普通の日本人も、ネット上の買い物や閲覧したサイトなどが記録されている。
犯罪が匿名化すると同時に権力も匿名化している。

 今われわれは「匿名の人格」からの攻撃にさらされながら、政治権力と情報資本によって「監視される人格」としても生きていかなくてはならない。

 人間の社会に、人類がこれまでに積み上げてきた人格とはまったく異なる人格が出現しているのだ。
やや大袈裟だが、この混乱を「人格崩壊」と表現したい。

気候崩壊と人格崩壊

 人類は都市化する動物であり、不可逆的かつ加速的に都市化する。
しかし人類社会には、時に都市化の過剰という現象が見られるものだ。
エジプト文明にも、ローマ帝国にも、中国歴代王朝にも、日本の藤原王朝にも、都市化の過剰現象が見られ、社会体制の衰退につながった。

 工業生産によって排出される炭酸ガスが地球を覆い、地球を沸騰させ異常気象を招来する。「気候崩壊」だ。
同じように、インターネットを利用する情報機器が社会に浸透し、オーバーコミュニケーションの弊害をもたらす。「人格崩壊」だ。
前者は、肉体的都市化の過剰であり、後者は頭脳的都市化の過剰である。
人類は、外からの文明攻撃ばかりでなく、内からの文明攻撃にもさらされている。

 昨今先進国に現れている排他的国家主義の伸長は、単なるグローバリズムに対するものではなく、このオーバーコミュニケーションに対する反動ではないか。
彼らに言い訳を与えるわけではないが、プーチンやネタニヤフやトランプや金正恩の行動が示しているのは、コミュニケーションの拒否ではないか。
「サル化」による人格崩壊と無関係ではないような気がする。

 多くの人も、多くの国も、どうしたらいいのか分からなくなっているように思われる。
僕らにできることは、とりあえず、自然を大切にし、孤立を大切にし、アナログを大切にすることだろう。

 半世紀以上も前の、ビュルツブルクのユースホステルの一室には、本当のコミュニケーションが成立していたような気がする。
あのドイツ人若者二人は、今何を思っているのだろうか。

posted by 小だぬき at 08:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ネガティブなことに向き合うときこそ笑いや遊び心を加えよう

ネガティブなことに向き合うときこそ笑いや遊び心を加えよう【人気エッセイストが提案】
10/29(火) 毎日が発見ネット

センスよく暮らしたい、おしゃれだと思われたい、そう考えている方はたくさんいると思います。
でも、センスっていったい何で、どうやったら身に付くのでしょう? 
『センスいい人がしている80のこと』(扶桑社)は、50種類の仕事、約50か国を旅してきた作家・有川真由美氏が「センスいいな」と思った魅力的な人のこと、感性を磨くためにやってきたことを満載した1冊です。
今回はその中から、センスがいい人がしていた「作法」についてご紹介します。
マネしやすいことばかりなので、日々の生活に取り入れてみるのもいいかもしれません。

※本記事は有川真由美著の書籍『センスいい人がしている80のこと』から一部抜粋・編集しました。

愚痴を「笑いのネタ」にして話す

愚痴なんて言わないほうがいいとわかっていても、「だれかに愚痴らなきゃ、ガス抜きができない」「少しでもつらい気持ちを聞いてほしい」ということがあります。

そんなときは、いいではありませんか。愚痴っても。

ただし、愚痴には流儀があります。
愚痴の言い方にも、センスのよし悪しが出るのです。

センスのよくない人の愚痴は、目を三角にして口が歪み、怒りや悲しみに満ちています。
「こんな会社、やってられない。幹部がひどい人ばかりで......」とだらだら続くので、聞いているほうも不快な感情が伝染して、引きずってしまいます。

センスのいい人は、愚痴を笑いのネタとして楽しく語り、早めに切り上げます。
「そうきたか!って、もう笑うしかない。私、この会社でずいぶん精神力が養われたと思う」と、ポジティブに締めるので、聞くほうも安心して乗ってきます。
「私も夫との生活を長く続けて、悟りを開いた境地よ」と、明るく愚痴れるわけです。

そんな人は、嫌なことをそのまま愚痴るのは"野暮"だと思っています。

ユーモアのセンスや遊び心をまとって、相手を楽しませることが"粋"で美しいことだと、どんなことも笑いに変換するのです。
たとえばサラーリマンの悲哀を詠った川柳も、クスリとする笑いがあって、カッコいいとさえ感じるほど。

「粋とは、痩せ我慢の美学」と聞いたことがあります。
いい意味で格好をつけて、相手に喜んでもらうことで自分も救われ、品格も育っていくのでしょう。

身近な人に言いにくいことを言うときも、茶化すのではなく、真面目でありながら少しだけユーモアを交えて和ませる。
最後は「期待してます」とにっこり終わらせ、後味さわやか。
ネガティブなことに向き合うときは、ひとさじの笑いや遊び心を加えるのが作法といえます。

そもそもユーモアとは、つらいことを乗り越えるために生まれたものなのです
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする