民主主義に合わない「日本人の国民性」
11/21(木) Meiji.net
塚原 康博(明治大学 情報コミュニケーション学部 教授)
民主主義とは、政策や社会に関する決定にみんなで関わり合う政治体制のことです。
しかし、戦後日本は民主主義の国であるにもかかわらず、自分の気持ちや考え方が、国・自治体の政策にまったく反映されていないと感じることはないでしょうか?
もしかすると「日本人の国民性」が影響して、日本では民主主義がうまく機能していないのかもしれません。
◇自己主張を抑制し「周りの空気」を読む国民性
私は経済学を中心にとした公共政策の研究に長年取り組んできました。
しかし、経済学の本場であるアメリカの文献から読み取れる理論や分析の手法を日本のデータに当てはめてみても、どこかチグハグな印象が受けることが多々ありました。
研究を始めた当初はデータのとりかたに問題があるのかと考えていたのですが、長く続けていくなかで、そこには「国民性」という要素が関係しているのではないかと考えるに至り、2022年には多角的な考察をまとめた『日本人と日本社会 社会規範からのアプローチ』という本を上梓しました。
グローバル化や情報化の進展もあって、世界の人々の生活様式は標準化の方向に進んでいるように捉えられがちです。
しかし、何を価値基準として重視しているかを考えてみると、やはり国によって社会規範が異なるがゆえに出現する「国民性」の違いが、その国の制度や人々の行動に影響を与えているのは事実だと思います。
たとえば、日本の現在の政治制度は議会制民主主義ですが、一言で民主主義といっても、日本社会に当てはめた場合にうまくいっていない部分があるというのは、昨今の「政治とカネ」の問題や「有権者の政治不信」をみても納得されるでしょう。
たしかに民主主義は、権威主義体制や独裁などと比べれば優秀です。
ただし、それが機能するにはいくつかの必要条件があります。
その問題意識において「日本の民主主義には何が足りないのか」という根本に立ち返って考えてみたいと思います。
まず、民主主義が機能するためには、一人ひとりが平等に政治に参加して、「自分の意見をもち、それを主張すること」が必要です。
異なる意見をもった人の間で議論が戦わされ、議論の末に意見が集約されて、政策が決定されます。
ところが日本では、この大前提がうまくいっていません。
というのも、日本人は周りに受け入れてもらうために、自己主張を抑制しがちだからです。
自己主張は、異なる意見をもつ人との対立や軋轢を生じる可能性があるので、それを避けるために「周りの空気を読む」ように育てられるからかもしれません。
自己主張を控えがちな日本では、議論を戦わせて有益な意見や政策に到達するよりも、周りとの良好な人間関係を維持することが優先されます。
つまり、日本人は自分で考えたり人と議論をすることに慣れていないのです。
そもそも自己主張ができないと、議論を通じてよりより政策をつくったり、妥協点をさぐろうとしても、最初の段階でつまずいてしまいます。
◇総花的な政策が、かえって選挙民への大きな負荷に
一方、日本には四季があり、多くの自然災害を経験してきたため、「感覚」が発達しているとよく指摘されます。
また、日本は周りの国から隔離された島国であり、狭い居住区域に密集して住んでいるため、人間関係に敏感であり、「他の人にどうみられているかが行動基準になっている」ともいわれます。
言い換えれば、自分の生活圏の人間関係が何より重要であり、それ以外では互いに迷惑をかけない相互不可侵の人間関係を構築しています。
つまり、同質性の高い狭い世界で受け入れられることで、安心・安定・安全を得ているのです。
この「同質性の高さ」は、集団行動などでは良い面を発揮しますが、そこに異質なものが入ってくると排他的になるというデメリットがあります。
自分たちと異なる意見を排除してしまうと、理想的な民主主義に必要な意見の多様性は担保できません。
また、排除までいかなくとも、人間関係で荒波を立てず、他人に見られているという圧力を優先して多数派の意見に合わせてしまう傾向もまた「日本人の国民性」です。
ゆえに議論がなかなか深まらないという弱点があります。
民主主義で全会一致にならないときには多数決が行われます。
民主主義が機能して、政策論議が活発になされ、その結果、多数の人がよいと思う意見に集約されれば、不利益を被る人が出たとしても社会を大きく変える政策が採用されることがあります。
しかしながら、日本では政治家も「日本人の国民性」を身に着けており、選挙民に対しては対立や軋轢を避け、腫れ物を扱うように対処しています。
税負担などの耳の痛い話には触れず、給付などの耳障りよい話を強調するのが典型的です。
政治公約も薄く国民全体の利益になるような総花的なものが多くなっていきます。
総花的なのは与党だけでなく野党も同じで、実は大きな枠で見ると政策にそこまで際立った違いはありません。
日本共産党においても、党の綱領では、最終的には社会主義的な変革が掲げているものの、選挙では政治的に中道の福祉国家的な政策を打ち出しています。
一方の諸外国では、成長、分配、環境などのどれか1つに力点を置いた政策を掲げた政党が存在したり、国民の特定の階層の利益を優先する政策を掲げたりする政党が存在しますが、日本政治は国民全体へ配慮する国民性をもっており、政治家はその地位にふさわしい行動が求められるために、どの政党も似たような総花的な政策を掲げがちになると考えられます。
また、政策が総花的な場合には、すべての政策の内容を理解することが難しくなり、これらの政策が果たして実行可能なのか、実行できたとして総合的な帰結がどうなるかを予想することが難しくなります。
総花的な政策についての判断は、選挙民にとって大きな負荷となるのです。
このような場合に、選挙民が選挙に行かなかったり、政策以外の事柄(スキャンダルなど)を目安に投票するのだと思われます。
◇なぜ政治に不満があっても大規模デモが起きないのか?
「国民に忖度する政治」の帰結として、負担を先送りにして、国民全体への利益供与を優先するため、政府のGDPに占める財政赤字は先進国中でも、突出した大ききに達しており、将来世代への多大な借金の先送りが危惧されています。
IMF(国際通貨基金)の「World Economic Outlook」2024年4月によると、GDPに対する一般政府の債務残高の比率は、欧米の主要先進国が概ね100%から120%であるのに対して、日本のそれは、2倍以上の250%を超えています。
負担や変化が必要な場合でも、それは大きな痛みをともなうため、国民がそれを必要であると理解していても、日本人は安心・安定・安全に大きな価値を置くので、国民レベルでそれを徹底することには拒否反応を示します。
政治家はそれを忖度し、大きな負担や変化をともなうような政策を公約にあげず、それが実行されることはありません。
他方で、日本政治では政策以前の事柄が問題となっており、民主主義において重要な政策論議が後退していると言えます。
たとえば、政治資金パーティーで得た収入の一部を政治資金収支報告書に記載せず裏金として使っていたとされる、いわゆる「裏金問題」の解決に多大な時間を要していますが、マスコミ各社の世論調査をみると、政権が示した解決案に国民はあまり納得していません。
ところが、マスコミには「不満がある」と答えているにもかかわらず、現実には政権を脅かすほどの大規模なデモが各地で起きたり、このような状況を一新するような新たな政治勢力の結集が生じているわけではないのです。
その背景にもまた、「本音と建前」を使い分ける「日本人の国民性」が反映されているように思われます。
中根千枝やルース・ベネディクトが指摘しているように、日本社会は、日本独自の上の者が下の者を配慮し、下の者が上の者を慕う「序列社会」「階層社会」であり、社会の各地位に就いた人は多少のブレはあったとしても、その地位にふさわしい役割を果たすものであり、概ね実際もそうしているという信念を日本人はもっています。
このような考え方は、政治家の地位にある人にも適用されるので、日本人の多くは、政治家が決定的におかしなことをするとまでは考えておらず、それが政治家への強すぎない反発を説明していると思われます。
◇「日本の民主主義」を改善させるためには
民主主義が「日本人の国民性」にうまく適合していないなかにあって、これから日本政治はどこへ向かうのでしょうか。
国民全体に配慮するものの、負担や変化は先送りする政策が継続されることの行く末は、政府の財政赤字や債務残高の拡大であり、やがて国債発行を通じた資金調達が困難になると予想されます。
その場合の解決策の1つは、外圧の利用です。
歴史的に日本では、国が大きく変化するときには明治維新や敗戦などの外的要因がありましたが、現代の日本政治の場合もそうなることが予想されます。
具体的には、IMFから融資を受ける条件として、痛みや変化をともなうに経済や財政の健全化政策を受け入れるということです。
ただし、これは日本で民主主義がうまく機能しないことの帰結への対応であって、日本で民主主義がうまく機能しないという根本の問題への解決策ではありません。
では、日本で民主主義が機能するためにはどうすべきか。繰り返し説明しているように、その根には「日本人の国民性」の問題がありますので、急に改善することは難しいでしょう。
周りに配慮し、自己主張を抑制しようとするので民主主義は合わず、普遍的な価値基準をもたず、もっぱら生活圏の中の人間関係の維持に注力する「日本人の国民性」は、政策論議に適合していません。
それでも、民主主義を通じて政策を決定していくしか、ほぼ選択肢はないのです。
改善策のひとつとしては、学校教育によって民主主義の基本をしっかり根付かせることです。
日本では、政治や政党の話は人の価値判断に入り込み、対立や軋轢を生む可能性があるので避けられる傾向にあり、学校教育中でも正面から取り上げられることは少ないです。
この点については、政策を政治や政党とは切り離し、純粋にその政策の意味や効果を学校教育の中で議論することを習慣づけるべきでしょう。
その際に意見の違いは、それを発する人、すなわち人間関係とは分けて考えて、純粋に政策効果のみの観点からの意見であることを認識させる必要があります。
このような教育や習慣を身につけていないと、ただ投票率を上げたとしても、よい政策が選択されるとは限りません。
また「日本人の国民性」を背景とした総花的な政策を打ち出す政治については、選挙でもっと政党(候補者)間の違いが分かりやすく示されれば、選挙民も判断しやすくなるだろうと思われます。
そして、政策の効果を知るには、専門家による政策効果の分析が不可欠です。
この分野の研究を厚くして、政策効果の判断材料となるような分析が多く存在し、選挙民がそれを利用できる状況にあることが必要です。
いずれの改善策も「日本人の国民性」がゆえに実行は容易でありません。
しかし、ここで議論したように、日本における民主主義の問題点やその帰結について考えてみることは、日本の民主主義の改善へ向けた第一歩として大きな意味をもつと私は考えます。
塚原 康博(明治大学 情報コミュニケーション学部 教授)