女性の悲鳴が聞こえても全員無視…「事なかれ主義」が招いた「実際に起きた悲劇」
住吉 雅美
価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。
法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。
※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
もし「一億総ヒーロー化」法が施行されたら
道を歩いていて、いろいろ困っている他人、たとえば怖いお兄さんたちに絡まれている他人と遭遇した時、あなたは自ら積極的に助けるだろうか?
状況にもよるだろうが、おそらく自分一人で助けると断言できる人はそういないと思われる。
せいぜいこっそり警察に通報するとか、周りに多数の味方がいるような場合ならちょっと後ろの方で一緒に助けに入る、といったところだろう。
2018年に、新幹線車中で突如ナタを振り回し乗客を襲った者を自らの危険も顧みず身体を張って止め、無念にも絶命された勇気ある男性がおられたが、このように崇高な義務感をもって救助行動をすることは、一般人にはなかなかできない。
にもかかわらず、こういう時には誰もが積極的に救助しなければならないという法律ができたらどうだろうか?
『僕のヒーローアカデミア』のオールマイトみたいな命がけで人助けをするヒーローになれ、と求められたらどうだろう。
実はそういう法律が施行されているところがあるのである。
発端は1964年、ニューヨークの住宅街であった。
キティ・ジェノヴィーズという女性が帰宅途中に男に襲われ、悲鳴を上げたが、周辺の数ある住宅からは誰も出てこない。
誰も出てくる気配がないとわかった男は彼女に30分も暴行を加え続け、結果、彼女は無残にも殺されてしまった。
ところが、その後に驚くべきことがわかった。
彼女が死に至るまでに、住宅の中にいた38人もの人々が彼女の悲鳴をたしかに聞いていたのだ。
しかも警察に通報する人もいなかった。
「窓から外を見ても、特に何事もなかったから」との理由だった。
おそらく巻き込まれたくなかったのだろう。
この事件は「キティ・ジェノヴィーズ事件」と呼ばれ、ニューヨーカー、そして全米に衝撃を与えた。
他人への無関心、事なかれ主義がここまでひどくなったのかと人々は嘆いた。
この事件が契機となり、アメリカでも危険に陥っている人を救助することを、市民に法的に義務づけてはどうか、という議論が持ち上がった。
「ビビリ」や「ヘタレ」に救助義務は重い?
新約聖書の「ルカによる福音書」にこういう話がある。追いはぎに遭って身ぐるみ剝がされ、しかも大怪我を負わされた人を通りがかりの誰もが見て見ぬふり(中には聖職者もいた)する中、一人のサマリア人が助け、自宅に連れてゆき介抱した。
サマリア人は翌日には被害者を宿屋に連れて行き、自分が費用を払うからこの人を介抱してあげてくれと主人に頼んだ、という話である。
これは「善きサマリア人」と呼ばれるたとえ話で、ここから「善きサマリア人の法(Good Samaritan Law)」という法原則が英米法に定着した。
「善きサマリア人の法」とは病者、負傷者その他窮地に立たされている人を救うために無償で善意の行動をとった場合、たとえ結果が失敗であっても救助者の責任を問わない、という内容の民事上の法理である。
今日ではカナダの各州、アメリカで施行されている。
救助義務の義務づけはドイツやフランス、イタリア、スペインにも見られる。
ここではより一般的に、救助義務を法律で強制することの是非について考えてみよう。
法が制裁をもって救助義務を国民に直接強制するとした場合、どういうことになるだろうか。
それは道徳なき社会を矯正するために法を道具として使うということだが、各個人には救助するか否かを選択する自由があるべきなのに、それを根底から否定することになってしまう。
たしかに、窮地にある人を勇気をもって救助する行為は気高く美しい。
だが、自分の身が可愛いから余計なことに巻き込まれたくないとか、たとえ小心者、冷血漢、ビビり、ヘタレと罵られようが、自分の事情を最優先することに価値をおく生き方だってあってよい。
別に人はヒーローとして生きなくたってよいのだ。
また、救助義務の起源がキリスト教であるところから、非信者にとって受け容れられない宗教的道徳を一般的に強制することは、信仰の自由に反するという考えもある。
むしろ、「救助しない自由」も認めつつ、それでも「救助する自由」を選ぶ人に安心して救助活動ができるような支援をするために法律を使う、という方がよいのではないか。
つまり、救助行為に伴う損失を補塡もしくは軽減するような法律を整備するのである。
救助活動の際に怪我をしたら、その治療や休業などによる経済的負担に対して費用償還すること、救助の際にやむを得ず行なった破壊や毀損などについて行為者を免責することなどである。
こういう法制度がしっかりしていれば、救助しようかどうか迷う人の中には背中を押される人も出てくるかもしれない。
健康で勤勉で勇気があって他人に優しい……みんながそういう人ならいい。
でも、そんな人々だけからなる国なんてたぶんないし、そんな国にそもそも法律はいらないだろう。
この世はダメ人間だらけ。
法律はダメ人間に無理難題を押し付けちゃいけない。そうしたらみんな壊れちゃうから。
この世の法律とは、ダメ人間をそのままに、いかにして害をなさぬように導くか、その技だと考えてはダメですか?
さらに連載記事<「真面目すぎる学生」が急増中…若者たちを「思考停止」させる「日本の大問題」>では、私たちの常識を根本から疑う方法を解説しています。ぜひご覧ください。
*本記事の抜粋元・住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)では、自由・平等・人権・アナーキズムなど、様々なテーマから「当たり前を疑う思考」を解説しています。
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