2025年01月04日

女性の悲鳴が聞こえても全員無視…「事なかれ主義」が招いた「実際に起きた悲劇」

女性の悲鳴が聞こえても全員無視…「事なかれ主義」が招いた「実際に起きた悲劇」
住吉 雅美

価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。
法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。

※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。

もし「一億総ヒーロー化」法が施行されたら

道を歩いていて、いろいろ困っている他人、たとえば怖いお兄さんたちに絡まれている他人と遭遇した時、あなたは自ら積極的に助けるだろうか? 

状況にもよるだろうが、おそらく自分一人で助けると断言できる人はそういないと思われる。
せいぜいこっそり警察に通報するとか、周りに多数の味方がいるような場合ならちょっと後ろの方で一緒に助けに入る、といったところだろう。

2018年に、新幹線車中で突如ナタを振り回し乗客を襲った者を自らの危険も顧みず身体を張って止め、無念にも絶命された勇気ある男性がおられたが、このように崇高な義務感をもって救助行動をすることは、一般人にはなかなかできない。

にもかかわらず、こういう時には誰もが積極的に救助しなければならないという法律ができたらどうだろうか? 
『僕のヒーローアカデミア』のオールマイトみたいな命がけで人助けをするヒーローになれ、と求められたらどうだろう。
実はそういう法律が施行されているところがあるのである。

発端は1964年、ニューヨークの住宅街であった。
キティ・ジェノヴィーズという女性が帰宅途中に男に襲われ、悲鳴を上げたが、周辺の数ある住宅からは誰も出てこない。
誰も出てくる気配がないとわかった男は彼女に30分も暴行を加え続け、結果、彼女は無残にも殺されてしまった。

ところが、その後に驚くべきことがわかった。
彼女が死に至るまでに、住宅の中にいた38人もの人々が彼女の悲鳴をたしかに聞いていたのだ。
しかも警察に通報する人もいなかった。
「窓から外を見ても、特に何事もなかったから」との理由だった。
おそらく巻き込まれたくなかったのだろう。

この事件は「キティ・ジェノヴィーズ事件」と呼ばれ、ニューヨーカー、そして全米に衝撃を与えた。
他人への無関心、事なかれ主義がここまでひどくなったのかと人々は嘆いた。
この事件が契機となり、アメリカでも危険に陥っている人を救助することを、市民に法的に義務づけてはどうか、という議論が持ち上がった。

「ビビリ」や「ヘタレ」に救助義務は重い?

新約聖書の「ルカによる福音書」にこういう話がある。追いはぎに遭って身ぐるみ剝がされ、しかも大怪我を負わされた人を通りがかりの誰もが見て見ぬふり(中には聖職者もいた)する中、一人のサマリア人が助け、自宅に連れてゆき介抱した。
サマリア人は翌日には被害者を宿屋に連れて行き、自分が費用を払うからこの人を介抱してあげてくれと主人に頼んだ、という話である。

これは「善きサマリア人」と呼ばれるたとえ話で、ここから「善きサマリア人の法(Good Samaritan Law)」という法原則が英米法に定着した。

「善きサマリア人の法」とは病者、負傷者その他窮地に立たされている人を救うために無償で善意の行動をとった場合、たとえ結果が失敗であっても救助者の責任を問わない、という内容の民事上の法理である。
今日ではカナダの各州、アメリカで施行されている。
救助義務の義務づけはドイツやフランス、イタリア、スペインにも見られる。

ここではより一般的に、救助義務を法律で強制することの是非について考えてみよう。
法が制裁をもって救助義務を国民に直接強制するとした場合、どういうことになるだろうか。
それは道徳なき社会を矯正するために法を道具として使うということだが、各個人には救助するか否かを選択する自由があるべきなのに、それを根底から否定することになってしまう。

たしかに、窮地にある人を勇気をもって救助する行為は気高く美しい。
だが、自分の身が可愛いから余計なことに巻き込まれたくないとか、たとえ小心者、冷血漢、ビビり、ヘタレと罵られようが、自分の事情を最優先することに価値をおく生き方だってあってよい。
別に人はヒーローとして生きなくたってよいのだ。

また、救助義務の起源がキリスト教であるところから、非信者にとって受け容れられない宗教的道徳を一般的に強制することは、信仰の自由に反するという考えもある。

むしろ、「救助しない自由」も認めつつ、それでも「救助する自由」を選ぶ人に安心して救助活動ができるような支援をするために法律を使う、という方がよいのではないか。
つまり、救助行為に伴う損失を補塡もしくは軽減するような法律を整備するのである。

救助活動の際に怪我をしたら、その治療や休業などによる経済的負担に対して費用償還すること、救助の際にやむを得ず行なった破壊や毀損などについて行為者を免責することなどである。

こういう法制度がしっかりしていれば、救助しようかどうか迷う人の中には背中を押される人も出てくるかもしれない。

健康で勤勉で勇気があって他人に優しい……みんながそういう人ならいい。
でも、そんな人々だけからなる国なんてたぶんないし、そんな国にそもそも法律はいらないだろう。

この世はダメ人間だらけ。
法律はダメ人間に無理難題を押し付けちゃいけない。そうしたらみんな壊れちゃうから。
この世の法律とは、ダメ人間をそのままに、いかにして害をなさぬように導くか、その技だと考えてはダメですか?

さらに連載記事<「真面目すぎる学生」が急増中…若者たちを「思考停止」させる「日本の大問題」>では、私たちの常識を根本から疑う方法を解説しています。ぜひご覧ください。

*本記事の抜粋元・住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)では、自由・平等・人権・アナーキズムなど、様々なテーマから「当たり前を疑う思考」を解説しています。
ロンドンブーツ1号2号・田村淳さんも「こんな授業を受けたかった!」と大絶賛。楽しく学べる、法哲学の入門書です。
posted by 小だぬき at 12:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「人権」が「超あいまい」で「非常に危険」な概念だと断言できる「恐ろしい理由」

「人権」が「超あいまい」で「非常に危険」な概念だと断言できる「恐ろしい理由」
1/3(金)  現代ビジネス

クローン人間はNG? 私の命、売れますか? あなたは飼い犬より自由?

価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。
法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。

※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。

人権は人類の中だけで通用する

人が、他の動物でなく人間であるがゆえに生来持つものとされるのが人権である。
人類は自分たちだけに人権という特別な権利を与えた。
そして他の動物には、自分たちの生存や快適な生活を脅かさない限りでの道徳的権利を認めてきた。

人間は自らを「霊長類の頂点」と勝手に余裕綽々で思い込んで、他の諸動物たちに慈悲をたれているのである。

人間が自分たちに与えている人権と、動物たちに認めている権利とは、根本的に違う。
厳密には、現状では動物という種に「福祉」を認めているだけなのだ。

動物の権利とは、人間の視点から存続させることが望ましいと考えられる種を存続させるために、その種全体に対して与えられるものである。

たとえば鯨、イルカ、マグロ、トラ、イリオモテヤマネコ、トキ、サーバルキャット等々、種として今後も残って欲しい生き物については福祉もしくは道徳的権利を認め、人間はそれらを保全する道徳的義務を負う(とはいえゴキブリには福祉を認めず殺しまくっているが)。

但しあくまでも「霊長類の頂点」人間様の都合が最優先である。
あくまでも種として、しかも人間の生活に支障を来さない範囲で存続して欲しいと虫のいいことを求めるので、繁殖しすぎたり住宅地に入り込んだり畑を荒らしたりするようになると、今度は人間が間引きをする。
エゾシカやニホンジカがいい例だ。
間引かれる個体には動物権はない。

それに比べると、人権には個別性がある。
つまり個人が国家や他人、多数者に対して「私を押しつぶすな、差別するな、人として平等に扱え」と主張する根拠となっている。
だから個人は、人間集団の中での平等要求、普遍性要求も持っている。

人権はそもそも、キリスト教的自然法思想(とくにロック)に端を発している。
その思想によれば、人は生まれながらに生命・自由・財産への自然権を持っており、それは国家というものが成立する以前から存在する権利であった。
その自然権こそが人権の母胎なのだといわれている。

したがって、地球上に人類を脅かすより高知能の生命種がまだいない現在のところ、人類という種を存続させるために人権が主張されているわけではない。
人権とは、あくまでも人類の内側でのみ通用する、個人やマイノリティの「切り札」なのである。
だから、それは人間社会の中で生きる限りにおいてこそ、一人一人にとって大切な、守られるべきものなのだ。

北海道の山中で自分に襲いかかるヒグマに対して「私には人権としての生存権があるんだぞ」と喚いても無駄である。
かりにそのヒグマに言語が理解できたとしても「だから何? お前ら人間だって俺らを撃つべさ」と返されてガブリだろう。

人権は恣意的に認められてきた

しかし歴史的事実としては、人権ははじめから万人に認められていたわけではなかった。
ヨーロッパでは、当初はそもそも人と見做されない奴隷が存在したし、はじめに国王に反抗してその権力を制限し、自らの特権を認めさせたのは貴族だけであった(1215年のマグナ・カルタ)。

その後、イギリスでは権利請願(1628年)、権利章典(1689年)を経て市民にも人権が認められ、アメリカのヴァージニア権利章典(1776年)において人間が生来もつとされるロック型の自然権が実定法化された。
そして、アメリカ独立に触発されたフランス革命と人権宣言(1789年)に至って身分制は解体され、「すべての人」が人権において自由でありかつ平等であると謳われた。

しかし革命時、〈すべての人〉は文字通りの万人ではなかった。
人間と訳されているフランス語hommeは英語のmanと同じく同時に男性を示すもので、革命政府は実は男性、しかも白人男性にしか人権を認めなかったのだ。
革命に歓喜して「これからは女も男と平等の人権を持てる!」と思い込んで女性の権利について演説した女性は、革命政府によってギロチンに送られた。

近代の入り口では、人権は白人の成人男性だけのもので、女性と植民地の人々には認められていなかったのである。
後者の人々にも人権が認められるには、第二次世界大戦の終結を待たねばならなかった。

戦後は国際的な人権の実定化によって、人権の持ち主の範囲が広がり、その内容も拡張された。
世界人権宣言(1948年)、国際人権規約(A・B規約)(1966年)、人権差別撤廃条約(1969年発効)等々によって、開発途上国の視点にたつ経済的・社会的権利、旧植民地などの視点に立つ民族自決権などの集団的権利までも認められるようになった。

とはいえ、条約や宣言があっても、現実の差別や権利の不均衡が完全に解消されているわけではない。
また、元はキリスト教に端を発している自然権・人権の観念であるから、現代に至っても全世界の人々すべてが受け容れているわけではないという限界がある。

人間が、人間に対して人権を認める場合も、動物に対して福祉もしくは道徳的権利を認める場合も、普遍的ではないのである。
人間の中でも歴史の過程でその都度支配的な層が、自分たちに好都合なように権利を認めるからである。

現在は地球上で人類が支配する世界がまあ安定しており、余裕があるから、一応万人に人権が、そして人類にとっていろんな意味で存続してほしい動物種に道徳的権利が認められている。
だが、もしそんな余裕がなくなってきたら……?

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住吉 雅美
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