2025年02月02日

冤罪の原点「免田事件」が私たちに問うもの

冤罪の原点「免田事件」が私たちに問うもの
本人が死去しても晴れない「冤」を雪ぐために
高峰 武 : 元熊本日日新聞記者・熊本学園大学特命教授
2025/02/01 東洋経済オンライン

「被告人は無罪」――たった6文字の言葉だが、冤罪を訴え続けている一人の人間にとっては何ものにも代え難い、万斛(ばんこく)の思いがこもる言葉であろう。

2024年9月26日、静岡地裁(國井恒志裁判長)は「袴田事件」の再審判決公判で確定死刑囚の袴田巌さん(88)に無罪を言い渡した。
事件発生から58年、死刑確定してからでも44年が経過していた。何という時間の長さだろうか。

事件の発生は1966年6月。静岡県清水市のみそ製造会社の専務宅から出火、焼け跡から専務ら4人の遺体が見つかった。
強盗殺人、放火事件として捜査した静岡県警は同年8月、元プロボクサーで同社従業員の袴田さんを逮捕。袴田さんは公判で無罪を主張したが、静岡地裁は1968年に死刑判決、1980年に最高裁で確定した。

その後、事件は複雑な経過をたどる。
2度目の裁判のやり直し・再審請求で静岡地裁が再審開始を決定、袴田さんを釈放したものの、東京高裁が取り消す。
これに対して最高裁が差し戻したため東京高裁で審理がやり直され、再審開始となったのだった。

2024年9月の再審無罪判決で國井裁判長は捜査陣による「証拠の捏造」を挙げたが、検察はこれに強く反発、控訴を断念した際の検事総長談話でも「重大な事実誤認」と最後まで納得しなかった。

検察はその後、事件を検証する「報告書」を公表したが、事件の根底を剔抉(てっけつ)するに十分なものではなかった。
無辜(むこ)の人を罰しない司法をどう作り上げるか、死刑制度はこのままでいいのかなど、冤罪事件が浮き彫りにする課題への取り組みは待ったなしである。

原点としての免田事件

「被告人は無罪」という言葉を、確定死刑囚として日本で初めて聞いたのは免田栄さんである。
1983年7月15日のことだ。
私はその時、判決言い渡しがあった熊本地裁八代支部で地元熊本日日新聞社の社会部記者として取材していた。

死刑が確定した後に再審無罪となったのは袴田さんで戦後5人目だが、その嚆矢(こうし)が免田さんなのである。
免田さんの後、財田川事件(香川県)、松山事件(宮城県)、島田事件(静岡県)、そして今回の袴田事件と続く。

免田事件はどんな事件だったのか。

 1948年12月30日未明、熊本県人吉市の祈祷師(きとうし)白福角蔵さん方で一家4人が殺傷されているのが見つかった。夫婦2人が死亡、幼い姉妹が重傷を負った。
捜査は難航したが、聞き込みなどから不審者として免田さんが浮上、翌1949年の1月16日、強盗殺人容疑で逮捕される。

免田さんは公判で無罪を主張したが、1950年3月、死刑判決が下される。
1952年1月、最高裁で確定した。
以後、免田さんは再審請求を繰り返し、6度目の請求で、上記した再審無罪となったのだが、逮捕時23歳の青年だった免田さんは無罪判決時は57歳。自由を奪われた時間は1万2599日に及んだ。

「初」という意味では2つの「初」を免田事件は持つ。
わが国で初めての確定死刑囚の再審無罪、そして1949年1月1日に施行された戦後の新しい刑事訴訟法下での重大事件第1号。私たちが事件を「冤罪の原点」と呼ぶのはこのためである。

再審無罪判決の後、免田さんとの交流を続け、再審公判、判決をともに取材した熊本日日新聞社の同僚の甲斐壮一さんを中心に若い仲間と『検証・免田事件』(日本評論社)を皮切りに4冊の本を出版してきたのだが、2018年に免田さんの妻・玉枝さんから「自宅にある資料を冤罪防止に活用してくれないか」と相談を受けた。

その時、免田さんは93歳、玉枝さんも80歳を超え、福岡県大牟田市の高齢者施設に入っていたので、申し出の趣旨はよく分かった。
取り急ぎ、免田さんの自宅に雑然と置かれた資料を持ち帰ったのだが、2人で始めた整理・保存の作業は驚きの連続だった。

ロートル記者の再出発

こんな公文書があった。
1952年、死刑が確定した直後、福岡刑務所から遺体の引き取りなどを確認する文書は、その事務的な書きぶりゆえに免田さんの死に現実味を帯びさせていた。
免田さんが再審請求をしたので死刑の執行が止まった、とする通知もあった。

今、法務当局は死刑執行と再審請求は関係ないとの立場だが、ここには恣意的運用を続ける法務行政の姿がある。

その他の資料群も圧巻だった。
No3とだけ書かれた綴りは、第1回公判から死刑判決までの公判調書と証人調書、891ページ。すべて手書きである。

なぜ自分が死刑になったのか。裁判記録を写すことで一語一語、確認したのだろう。
疑問の箇所には「誘導尋問」などと赤線が引かれてあった。このほか、家族にあてた400通の手紙もあった。

34年に及ぶ死刑囚としての実相。
一部を除いて、正直、知らなかったものばかり。
免田事件をともに取材したRKK熊本放送の牧口敏孝さんも加え、3人で免田事件資料保存委員会をつくったのだが、言葉を換えれば3人のロートル記者の社の垣根を越えた再出発だった。

免田事件とは何か。その答えは免田さん自身の言葉の中にあったのだが、それに気付くまでには長い時間が必要だった。

まずは最初の問題意識。言葉で言えば、司法上の免田事件、と言うこともできようか。

なぜ、捜査が誤ったのか。ここにあったのは、@見込み捜査、A自白の強要、B物証の軽視――だ。
怪しいと警察が思った者を引っ張ってくる。
そしてシナリオに沿った自白を強要する。
免田さんによれば、一番最初の手書きの自白は警察官が手を添えて書かせたもの。
「メンタサカイ」と署名が片仮名になっているのはそのためという。

物証の軽視では、再審判決が「古色蒼然たる物的証拠」として無罪の柱にしたのは第一審からあった物証と3次再審での未開示記録などだった。
免田さんはよく言っていたものだ。「一人の警察官の仕事は最高裁判決に類する」と。 

次は、なぜ34年間も間違いが正されなかったか、である。

実は間違いに気付いた裁判官はいたのである。
1956年、3回目の再審請求を受けた熊本地裁八代支部の西辻孝吉裁判長は、独自の調べも行い、免田さんのアリバイを認定して再審開始を言い渡した。しかし福岡高裁がこれを取り消す。
「裁判の安定」を壊すというのがその理由だった。

「間違っていたら正す」

誰のための「裁判の安定」か。
それまで「開かずの門」とも言われた再審の扉が開くのは、1975年の最高裁の「白鳥決定」まで待たねばならなかった(「白鳥決定」とは、証拠の総合評価と「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が再審にも適用されるとし、再審開始の要件を柔軟にする判断を明示したもの)。

実は、免田さんの再審開始決定を出した西辻裁判長と「白鳥決定」を主導した団藤重光・元最高裁判事が私の取材に同じ言葉を語っている。
「もし間違っていたならそれを正すのが司法の信頼をつくることになる」。
しかしこの言葉は果たして今の司法の世界で多数派になっているのかどうか。

免田さんは裁判記録を書き写しながら言葉の勉強もしていた(写真/免田事件資料保存委員会)

社会の側の問題もある。免田さんは無罪判決後、2つの行動を起こす。

一つは自分の再審無罪判決に再審を申し立てた。異例のことだ。
趣旨は、再審法をめぐる不備を指摘するものだった。

もう一つは、自分に“人並みの年金”がないのはなぜか、と問い続けたことだ。
年金は事前納付制で国民にはあまねく周知したというのが国の説明だったが、死刑囚だった免田さんには年金制度の説明を受けた記憶はない。

2013年、死刑囚で再審無罪になった人に国民年金が払われる特例法がようやくできたのだが、これとて社会の側が動いた結果ではなかった。

「水俣病が起きて差別が起きたのではなく、差別のあるところに水俣病が起きた」

これは、水俣病問題と50年にわたって向き合い続けた原田正純医師の言葉である。
人を人として思わなくなったところに水俣病が起きた、というのであるが、その伝で言えば、人を人と思わなくなったところに免田事件が起きた、ということでもある。

それは他ならぬ免田さんから教えられたことであった。
2013年、米寿のお祝いの会を熊本市のホテルで開いたのだが、その時、免田さんがこう言ったのだった。

「再審は人間の復活なんです」

長年、免田事件の取材を続けてきたのだが、このことに気付くのが遅れてしまったというのが正直な感想だ。
免田事件しかり、水俣病しかり、ハンセン病しかり、強制不妊しかり。
ここには「人として扱われなかった」、「戦後憲法の傘の中になかった」、こういう人たちの存在があったのである。

免田さんは2020年12月5日、95歳で死去、玉枝さんも2024年10月18日、88歳で死去した。
免田事件資料保存委員会をつくった後、『生き直す 免田栄という軌跡』(弦書房)、『検証・免田事件〔資料集〕』(現代人文社)を出版したが、新たな資料集を出版すべく今、作業を進めている。

私たちの手元には、免田さんが獄中で読んだ1100冊の本がある。
どんな時期にどんな本を読んだのか。「死刑囚の読書日記」とでも呼ぶべき例のない解読作業はもう少し続きそうだ。加えて新しい資料も出てきた。

私たちは司法の役割を否定するものではない。しかし、間違うことがある。それはいくつもの事例が教えていることだ。

再審制度をめぐってようやく国会議員の間で改正に向けた具体的な動きが出てきた。
戦後80年を迎えるが、刑事訴訟法の再審の条項だけがほぼ戦前のまま残されている。
確定死刑囚が5人も無罪になるという事態を放置していいはずがない。しかもそれ以外にも少なくない冤罪被害者がいる。

私たちは昨年、一昨年と熊本大学で免田事件をめぐる集会を開いたのだが、この会場に事件の現地、熊本県人吉・球磨地域から来た人が挙手をして「今でも免田が犯人と思っています」と語った。
しかもこの声は2年続けて上がった。冤罪は死んでも晴れない。冤を雪(すす)ぐことの困難さがここにはあった。

一方で、希望の種はある、とも思うのだ。
免田事件でも、死刑判決の間違いに気づいた裁判官は前記したようにいた。
袴田事件でも一審段階で無罪の心証をとった裁判官はいたのである。
その「目」をどうやって多数の「目」にするのか。それは私たちが問われていることである。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする