2025年02月04日

宗教が「誰にとっても必要」である理由…多くの人がわかっていない「人間の真の幸福」

宗教が「誰にとっても必要」である理由… 多くの人がわかっていない「人間の真の幸福」
2/3(月) 現代ビジネス

「恨み」、「嫉妬」、さらには金銭欲にとりつかれた「ケチ」といった心理的苦悶、死への恐怖… こうしたさまざまな苦しみの解決方法を、仏教ではその苦しみごとに説いています。

それは、宗教がじつは「誰にとっても」必要とされることの理由へとつながります。

仏教哲学の第一人者である竹村牧男さん(東洋大学元学長)がわかりやすく説明してくださいます。
【*本記事は、竹村牧男『はじめての大乗仏教』(1月23日発売)から抜粋・編集したものです。 】

「恨み」も「嫉妬」も「ケチ」も、心の苦しみ

心理的苦悶は、たとえば仏教におけるさまざまな煩悩・随煩悩の心や善の心の説明に接し、心のはたらきようを学び理解し、そのうえで適切な対応を進めていくことで、何らかの軽減が可能かと思われます。

大乗仏教のなかに、心のありようを詳しく分析している唯識説というものがあります。

唯識とは、世界はただ識のみにおいて成立していると説くもので、インド大乗仏教思想の、一つの主要な流れを構成しました。
唐の時代の玄奘三蔵がこれをインドで学び、中国に導入して法相宗が成立するのですが、その法相宗の根本聖典に『成唯識論』という書物があります。
インドの世親(Vasubandhu)の著『唯識三十頌』の詳細な注釈書です。
『唯識三十頌』には、唯識説のあらゆる教理がわずか三十の詩に盛り込まれているのです。

今、その『成唯識論』の煩悩・随煩悩の説明のなかから二、三紹介しますと、
たとえば恨みの心とは、「あるとき怒りの心を発して、以来、憎しみの心を懐いて捨てられず、怨みを結ぶ心であり、恨まないというよき心を邪魔し、身心を熱く悩ますように作用する。すなわち、恨みを結んだ者は、心に耐えることができなくて、つねに熱く悩むからである」とあり、

嫉妬の心とは、「自分の名声や実利を求めて、他人が栄えることに耐えられず、妬みかつその人を忌避しようとする心であり、嫉妬しないというよき心を邪魔し、憂鬱になり心がふさぐよう作用する。
すなわち、嫉妬の者は、他人が栄えることを見聞すると、深く憂慼の心を懐いて安隠でないからである」とあります。

けち(慳=ものおしみ)の心とは、「財と教えとに深く執着して、それらを他人に恵み与えることができず、隠しもち惜しむ心であり、ものおしみしないというよき心を邪魔し、なんでも溜め込むことになるよう作用する。すなわち、ものおしみしケチな者は心に多く惜しみがちで、財と教えとを蓄積して、捨てることができないからである」とあります。

その他、煩悩の心は六つ(その中の悪見を開けば十)、随煩悩の心は二十が分析され、善の心としては十一が分析されています。 その内容は、「第四章 世界の分析」の心所有法の説明(本書、120~122頁)をご参照ください。

心理的苦悶を軽減、解消していくためには、これらの説明その他、心理学をはじめとする関係資料を参考にしながら、自己に波立つさまざまな心をうまく統御しながら苦悶を放ち、平静な心をたもつことが大切でしょう。

しかし、自分の心を自分で制御していくことは、かなりむずかしいことであることも事実です。
自分で自分の心をどうにかしようとするとき、自己は二つに分裂することになり、本当の自己が見失われ、ますます収拾がつかなくなる可能性さえあります。

むしろ自分で自分をどうこうしようとは思わず、その感情はそれとして、ともかくそのつどしなければならないことに集中していくことによって、自然と心が調って来るという事情もあるかと思います。
これは有名な森田療法(森田正馬が開発した神経症の対処方法)の極意でもありましょう。

またこの心理的苦悶に関しては、自分だけで悩むのではなく、親や先生や上司や同僚・友人など、他者の助けがあるとき、苦しみの症状は軽減するでしょう。

なお、苦は実際には上記の分類により必ず単独に起こってくるというわけではなく、むしろ常に複合的に絡まっていると思いますので、対処の方法も複合的になるであろうことは容易に察せられるものと思います。
特に心理的苦悶は、いずれの苦にもつきまとっているに違いありません。

いつかは必ず死ぬ… 実存的苦悩

最後に実存的苦悩とは、一言で言えば死の問題に発するものです。
あるいは、必ず死ななければならない自己をどう受け止めるかの問題です。
死ななければならない自己を深く認識したとき、その自己にいったいどういう意味があるのかが、切実に問われてくることでしょう。

もっとも、死とは寿命の終了という現象に関してのみ、見出されるものでもありません。
むしろ社会的にひどいいじめを受けたり、周りから無視されたりしたとき、自己の死ということを覚えずにはいられないことでしょう。
事業の失敗とか、失恋とか、もはや立ち直れないほどに打ちのめされたときには、死を想わずにはいられないでしょう。
こうして、人生の途次において、生きている自分とは何なのかが、深く問われてくる機会もあるものです。

上述のさまざまな苦については、医療・経済・行政の改善や自心の制御などによって、何らか解決されることもあると思います。
しかしこの死の苦痛、実存的苦悩の問題は、どんな社会的な仕組み、社会的な措置によっても解決されることはありません。

結局、この問題の解決は、ただ宗教のみが授けてくれるものです。
岸本英夫が宗教を定義して、「究極的な問題の解決にかかわる」と述べていたことも、これに関わってのことです。

そうだとすると、宗教は人間存在にとって、非常に重要なものと言わなければなりません。
自分が死ぬ、このことは誰にとっても真実であり、ゆえに誰にとっても苦悩であるはずです。
自己を見つめれば見つめるほど、そのことに突き当たるはずです。
ここに、その問題の解決を提供する宗教の大きな意味があるのです。

逆にこの問題の解決を得られれば、根本的な安心に到達し、その結果、他の身体的、経済的、社会的な苦しみも、受容できたり軽減したりすることでしょう。
じつは人間にとっての真の幸福のありかは、実存的苦悩の解決ということにあることを想うべきです。

宗教の本質がそこにあるとして、ではこの問題はどのように解決されるのでしょうか。
死の問題を解決するとして、この世での寿命が際限なく延長されることは、あり得ない話でしょう。
来世によき再生があるとすれば、たしかにこの問題の解決につながるに違いありません。
そのことが信じられるのであれば、そういう安心もありうるのだとは思います。

しかし、自分が来世にどこに生まれるかは、現世において生きている我々にとっては、まったく不明で、もしかしたらきわめて苦しい世界(地獄など)に生まれるかもしれず、また人間として生まれるとも限らず、動物(畜生)などになってしまうのかもしれません。
あるいは現代という境位にあっては、神、仏が信じられないのと同様、生死輪廻や極楽往生ということ自体も、なかなか信じられないことでしょう。
そうしたなかで、死の問題の解決はどのように得られるのでしょうか。

死の恐怖とは、自己が無になることに基づくのであり、ではこの自己にどういう意味があるのか、との苦悩に基づくものでしょう。
そこで、この世における自己の意味が自分に何らか了解・納得できたら、一つの宗教的な安心が得られるということになります。

そのように、宗教とは、まさに自己とは何かを究明するものなのであり、したがってやはり宗教は本来、誰にとっても重要、必要なものなのです。

"Self-Affair Investigation" の道...... 西田幾多郎の宗教論

このことを明確に指摘しているのが、日本最大の哲学者・西田幾多郎です。 以下、このことに関わる西田の言葉を、その最晩年の論文「場所的論理と宗教的世界観」から引用しておきましょう。

*

道徳の立場からは、自己の存在ということは問題とならない。
如何に鋭敏なる良心と言えども、自己そのものの存在を問題となせない。
何となれば、如何に自己を罪悪深重と考えても、道徳は自己の存在からであるが故である。
これを否定することは、道徳そのものを否定することに外ならない。
道徳と宗教との立場が、かくも明に区別すべきであるにもかかわらず、多くの人に意識せられていないのである。 (『西田幾多郎全集』〔旧版〕第十一巻、岩波書店、三九三頁)

*

西田は、道徳(あるいは倫理)と宗教とは、立場がまったく異なっていると指摘します。
道徳の世界では、どのように行為すれば善と認められるかが課題であって、その前提に自己の存在は自明のこととして、何ら疑われていません。
しかし宗教の世界では、どう行為するか以前に、その自己の存在そのものが問題となり、自己とは何かの深い了解が追求される世界だというのです。

宗教の問題は、我々の自己が、働くものとして、いかにあるべきか、いかに働くべきかにあるのではなくして、我々の自己とはいかなる存在であるか、何であるかにあるのである。

…… 人は往々、唯過ち迷う我々の自己の不完全性の立場から、宗教的要求を基礎づけようとする。
しかし単にそういう立場からは、宗教心というものが出て来るのではない。
相場師でも過ち迷うのである、彼も深く自己の無力を悲しむのである。
また宗教的に迷うということは、自己の目的に迷うことではなくして、自己の在処に迷うことである。 (同前、四〇六~四〇七頁)

ここに、前に指摘された道徳と宗教の違いについて、解りやすくかつはっきりと説かれています。

人生のある場面で、どうすればよいのか、そのことに関して深く迷い、自己の無力を嘆くとしても、そこではいまだ自己そのものがそもそも何であるのかの問題意識はなく、それだけでは宗教の境域に達してはいません。
宗教の世界ではその自己そのものが問題となり、自己とはいかなる存在であるか、また自己のありかはどこか(自己が何に依拠して存在しているのか)が大きな疑問となるのだと強調しています。

言い換えれば、生老病死という根本的な苦しみを抱いている自分、死というものを迎えなければならない自己とは、一体どういう存在なのか。
自己の意味はどこにあるのか。 それが宗教の問題だというのです。
そのように、道徳(生き方)よりもっと手前にある問題として宗教というものがあるのだと、西田は指摘しています。

西田は他にも、「それ(宗教)は対象認識の知識的問題でないことはいうまでもなく、我々の意志的自己の当為(すべきこと)の道徳的問題でもない。
我々の自己とは何であるか、それはどこにあるのであるか、自己そのものの本体の問題、その在処の問題である」(同前、四一二頁)と説いています。

禅ではよく「脚下照顧」(足許を照らし顧みよ)といい、「己事究明」(自己というものを究明する)ということをいいます。
宗教とは、この「己事究明」の道そのものに他なりません。

神がいるにせよいないにせよ、信仰の道にせよ修行の道にせよ、自己とは何かを深くうなずけたとき、実存的苦悩は解消し、苦の根本が解決されるが故に、他のさまざまな苦しみも解消され、あるいは耐えられたりすることでしょう。
ただ一回限りのこの人生において、これ以上に大事なことはないと言ってもよいのではないでしょうか。

とすれば、本来、宗教は誰にとっても重要なことなのです。
真の宗教は、けっして忌避すべきものではなく、むしろ真剣に問い、取り組むべきものなのです。
わたしは宗教というものを、以上のように考えています。


竹村 牧男(仏教学者)
posted by 小だぬき at 02:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

豊昇龍の「早すぎる」横綱昇進で露呈…わずか10分で終了した、横綱審議委員会の「無意味さ」

豊昇龍の「早すぎる」横綱昇進で露呈…わずか10分で終了した、横綱審議委員会の「無意味さ」
2/3(月)  現代ビジネス

大関・豊昇龍の横綱昇進が決定した。
今回の横綱昇進については、審判部の中でさえ見送りを支持する声が多数を占めたという報道も出ている。

その理由や背景に関して、前編記事『「格下相手に3敗」豊昇龍の横綱昇進は早すぎるのではないか…慎重に判断すべきだった「2つの理由」』で詳述しているが、横綱昇進の条件を満たしていても2023年1月には終盤戦に3敗目を喫したことを受けて貴景勝の昇進が見送られたケースもあり、必ずしも昇進させねばならないわけではない。

ここで私が疑問に感じているのは、横綱審議委員会のことである。

特に気になるのは今回の決定が全会一致だったということだ。
今回の議案は審判部の中でも意見が割れていた。
だが横綱審議委員会のメンバーは9人居るにもかかわらず全員が賛成というのは一体どういうことなのか。

ファンの間でさえ慎重論が少なからずあるのに、このメンバーの間では同じ見方が通ってしまっている。

そして、この会議はなんと10分程度で終了しているという点だ。

本当に「最後の砦」と言えるのか?

議論を尽くしたうえで、様々な視点から慎重派と昇進派が議論を行い、その結果全会一致ということであれば内容次第では理解できないことは無い。

ただ、ものの10分で会議が終了しているのだから、ほとんど意見交換されていないということだ。
私が最も驚いたのはこの点だった。
これほど議論を尽くさねばならない議題なのに、横綱審議委員会を形式的に開催し、そして終了させてしまったわけだ。

仮にどんなに成績が優秀でも、品格に優れていても、 横綱昇進が重い意味を持つ決定であることは先にも述べた通りだ。
だからこそその是非はどんなに小さな可能性であったとしても検討すべきことである。

横綱というのは孤独な地位なのだ。
年6場所制に移行してから歴代横綱は実にその半数が昇進後に何らかの不祥事を起こしているのである。

周囲の力士はおろか、師匠や後援者でさえ物申しにくい関係性になってしまう。
仮に意見したとしても横綱自身が自らを律していなければ衝突が起きかねない。
実力以外の部分、特に品格の部分については昇進時の精査が必要なことは確かなのだ。

昇進後に周囲と微妙な関係性になりうるという意味においても、相撲内容や成績面をチェックするという意味でも、横綱審議委員会が果たす役割は本来大きいのだ。
最後の砦としての組織なのだから、機能すればこの上なく頼りがいがあると言えるだろう。

しかし、今の彼らは果たしてどうだろうか?

10分で横綱昇進の議事を終える組織が最後の砦なのだろうか?

横審の存在意義とは

振り返ると最近の横綱審議委員会はその職責を果たしているとは言い難いと常々感じてきた部分があった。
それは、照ノ富士の現役続行に向けて否定的な姿勢を見せることは無かったことである。

照ノ富士は立派な横綱ではあったのだが、引退までの2年間は千秋楽まで出場したのは3場所のみだった。
その3場所は全て優勝しており、役力士が登場する終盤戦に強さを見せていたという側面はあるにしても、四分の一しか皆勤しない横綱に対して9人居る横綱審議委員が激励はおろか苦言すらなかったのは疑問だ。

照ノ富士を守るという意識が働いている部分はあったのかもしれないが、横綱審議委員は横綱という地位を守るという視点も必要だと思う。
何故なら横綱の推挙や激励などという形で保たれるのは横綱の強さだからだ。

膝を痛め、糖尿病を患いながら満身創痍で横綱の職責を果たす照ノ富士を目の当たりにしながら苦言を呈すのは難しいことだとは思う。
一人のファンとして言いづらいことだし、相撲ファンから批判を受けることもあるだろう。

私だってやりたいかと言われたらやりたくはない。
ただ、言いづらいことを言い、否定的な側面も考えながら決定を下すという、誰しもやりたくないことを遂行するのが横綱審議委員会なのだ。

そして横綱審議委員会そのものに疑問を抱いたのが、豊昇龍の横綱昇進に際してある委員が「モンゴル横綱は全員が全員、横綱の品格ではなかったでしょ?」と発言したことだ。

ヘイトスピーチとの指摘も

この発言はヘイトスピーチであると指摘する声もある。
品格に欠ける行為をモンゴル出身横綱が行ったことは確かにあった。
だが、豊昇龍の昇進に向けて人種を一括りにしてこのような発言をするのは、デリカシーに欠けると私は思う。

日米野球の観戦に訪れたことが原因で引退に追い込まれた横綱、拳銃を一時期所持して処分を受けた横綱、生活態度を咎められて失踪しそのまま廃業した横綱。品格に欠ける行為は日本人力士だって過去に行ってきたのだ。

組織として機能を果たしていないどころか、相撲の評判を落としかねない発言をする委員さえ居る横綱審議委員会。
現実的にはこのまま存続するとは思う。
ただ、私たちが横綱審議委員会を審議するという目線を持たねば形式的に存続する団体になることは間違いないだろう。

審議らしい審議を受けないまま横綱に昇進した豊昇龍は気の毒と言わざるを得ないが、ファンの不安を吹き飛ばすような今後の活躍に期待したい。

そして横綱審議委員会には品格を持ち合わせる組織であることを願いたい。

西尾 克洋(相撲ライター)
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする