日本社会を支配する「暗黙のルール」…日本人が呪縛されている「恐るべき慣習」の正体
3/5(水) 現代ビジネス
なぜ日本は停滞からなかなか抜け出せないのか? その背景には、日本社会を支配する「暗黙のルール」があったーー。
社会学者・小熊英二さんが、硬直化した日本社会の原因を鋭く分析します。
※本記事は小熊英二『日本社会のしくみ』(講談社現代新書、2019年)から抜粋・編集したものです。
「社会の慣習」とは何か
本書が対象としているのは、日本社会を規定している「慣習の束」である。これを本書では、「しくみ」と呼んでいる。
慣習とは、人間の行動を規定すると同時に、行動によって形成されるものである。
たとえていえば、筆跡や歩き方、ペンの持ち方のようなものだ。
これらは、生まれた時から遺伝子で決まっているのではなく、日々の行動の蓄積で定着する。
だがいったん定着してしまうと、日々の行動を規定するようになり、変えるのはむずかしい。
人間の社会は、その社会の構成員に共有された、慣習の束で規定されている。
遺伝子で決まっているわけではなく、古代から存在するものでもないが、人々の日々の行動が蓄積され、暗黙のルールを形成する。
それは必ずしも法律などに明文化されていないが、しばしば明文化された規定よりも影響力が大きい。
ただしそれは永遠不変ではなく、人々の行動の積み重ねによって変化もする。
こうしたものは、自然科学の対象ではなかった。
自然科学は永遠不変の法則を探究する。
日々の行動の蓄積によって変化するようなものは、自然科学の対象にならない。
自然科学にあこがれて始まった社会科学も、永遠不変の法則を人間界のなかに探ろうとした。古典経済学は、その1つである。
アダム・スミスは、人間は交換によって利益を追求する永遠不変の天性があるのだ、という公理を設定した。
公理は設定するものであって、証明することはできない。
アダム・スミスも、この公理を証明しようなどとはしていない。とはいえこうした公理を出発点に据えたことで、経済学は自然科学を模倣した学問になりえた。
社会の「暗黙のルール」を探る
だが社会学という学問は、そうではなかった。
ウェーバーやジンメル、デュルケームといった社会学の始祖たちが研究対象にしたのは、1つの社会が共有している暗黙のルールだった。
古典経済学では説明できない人間の行動も、こうした暗黙のルールから説明できると彼らは主張したのである。
有名な例は、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』である。
ウェーバーは、当時のドイツの農場労働者が、経済学的には説明できない行動をとっていたことを指摘することから、この本を始めている。
賃金を出来高払いにしても、彼らは今日の生活に必要な分を稼いだら、それ以上働こうとはしなかったのだ。
これは不合理な行動にもみえる。とはいえ、明日には死ぬかもしれないなら、今日のうちに明日の分まで働くのは馬鹿げている。
明後日にどうなるかわからない社会で、出来高払いで労働効率があがったら、その方がむしろ不合理だ。それが合理的な行動なのは、未来が安定して続くという信念が、共有されている社会においてだけである。
ここからウェーバーは、資本を蓄積しようとする行動は、特定の未来観を暗黙のルールとして共有した社会からしか生まれないと考えた。
そこから彼は、キリスト教各宗派の未来観を調べ、プロテスタントの一派を信じる社会から資本主義が発生したと主張した。その研究の方法論としては、宗教テキストを個別的に分析して、その社会の根底的な原理を探る方法がとられた。
なおウェーバーの著作で、日本語で「倫理」と訳されているドイツ語はEthikである。
これは「エチケット」の語源としても知られる古代ギリシア語のエートスの派生語で、日々の行動の蓄積で体得された規範を指す。
ペンの持ち方やスプーンの使い方といった「エチケット」も、日々の行動の蓄積で体得し、暗黙のルールとなるものだ。
ウェーバーは、こうした集合的な慣習が、ドイツ人が生まれた時から身につけている民族性Volkscharakterであるなどとは考えなかった。
だが同時に、これが人々の行動を規定しており、一朝一夕では変えられないとも考えていた。
このような、1つの社会が共有している暗黙のルールを探る研究は、さまざまに行なわれてきた。
有名なものを挙げるなら、教育学の領域で知られるピエール・ブルデューの仕事、社会保障の領域で著名なイエスタ・エスピン‐アンデルセンの仕事などがある。
とはいえ、1つの社会を規定している「しくみ」を何と呼ぶかについては、統一的な名称はない。
ウェーバーはエートスEthikと呼び、ブルデューはハビトゥスhabitusと呼び、エスピン‐アンデルセンはレジームregimeと呼んだ。だがいずれも、日本語としてなじみのある言葉ではない。
そこで本書では、暫定的にこれを「しくみ」と呼ぶことにした。
日本の読者を相手に、ラテン語や英語を使う必要もないだろうと考えたからである。
さらに連載記事<なぜ日本は「停滞」から抜け出せないのか…その「根本的な原因」>では、日本社会を支配する「暗黙のルール」の正体に迫っていきます。ぜひご覧ください。
小熊 英二(社会学者)