2009年01月16日

私の大切な人F

私が 初任で赴任したT市のI小学校。校長さんら同僚にまで恵まれた7年間でした。

初任1年目は、1年1組担任。当時は殆どの学年が7クラスという大規模校。法学部を出てから1年間の明星大学の通信教育で2種免許を取った「ヨチヨチ歩き」、しかも教育実習を無理矢理 元担任のM先生が教頭をしている学校に2月中旬より3月中旬までお願いし 駆け込み免許申請をしたばかりで4月から1年生担任。
当時は、恐いもの知らずで「1年目の教員として1並びも縁起がいい」などと無鉄砲だったのですが、今考えると「なんと大胆な人事なのだろう」と思います。

職員会議・朝の朝礼の司会が 1年生から・・・、ということは私がトップ。学年7名の名前さえ覚えていないのに50名以上の職員の名前など覚えられるハズはありません。それを助けてくれたのがH先生。小声で「◇先生」などと教えてくれました。当時は 頼れる姉さんと思っていたH先生が 後に年下と知り愕然?とした覚えがあります。昨夏に「学年同窓会」の音頭をとってくれたのもHさんでした。

この学年は「何も知らないやんちゃ坊主の私」を家族のように扱ってくれました。姉御のHさん・Kさん・Gさんや恐い母親役のH"先生、ケンカ相手のNさん、なぜか相談役に私がなったIさんなど 今の現場では考えられないほどの人間関係で助けられました。

当時から「人畜無害」「安心」と男として見られず、歓送迎会などで酔いがまわった◇さんを 駅近くの私のアパートに休息させても「安心してベ゛ットに横になり眠ったり」、学年旅行なども7人相部屋で平気などという関係でした。今考えると20代男性としては考えられない「擬似家族」の心境だったのでしょうね。

この関係が なんとです「1年生・2年生・3年生」そして次の「1年生・2年生・3年生」の6年間基本的に続くのですから、私の教員生活の土台を築いてくれた仲間達です。

当時、組合の青年部や書記局、執行委員をしていたのですが、彼女らの支え無しには到底できなかったことと思います。

母親役のH"先生の旦那様が 事務所の採用担当で私の「成績・面接」なども担当されたとのことも後日知りました。冷や汗です。

採用試験で知り合いになった男子4名で試験結果などを話している時、女子受験者から「あ〜ぁ、やっぱりひっかけ問題に見事にひっかかっているわ」などと 解説され、筆記試験に暗雲が立ちこめ、面接でも当時の一張羅であったチェックの背広に赤ワイシャツなどというとんでもない服装の上 今の教育に望むことはなんですか?の質問に「夜間中学の認可が是非必要です」とか当県に赴任できますか?の質問に
「現在住んでいるK市の内定も貰っています。3月中に採用が決まればK市で働きたいです」などと平然と答えたのに採用決定通知が電話であり、「現時点K市からは何もいってきません。よろしくお願いします」と答え、明日 赴任校の校長面接にこれますか?で「ハイの即答。」

今考えても、採用倍率が20倍以上あった当時、キツネにだまされている(今流では 振り込め詐欺?)心境でT市教育委員会へ。本当に面接室に通され「交換人事もあることだから、T市のために5年は最低働いてもらえますか?(他県交換人事は、翌年廃止)」に「お願いします」と答えた上、「これから面接して頂く◇校長には、住居の手配もさせています。お知り合いがいないようでしたら その住居でよろしいですか?」と言われ「ありがとうございます」が精一杯の答え。その後の校長面接は「今から大家と住居の案内をするから 私の自転車の後に乗りなさい」と案内された上、学校に行き 学校要覧や沿革史をもらい帰宅。今の受験生には「本当に??」などと言われそうですが、後日裏話を聞くと「型破りなイキのいい男子が現場の希望だった」と言われ、妙に納得したものです。
今だったら 間違いなく採用不可だったでしょう。

人世って、人との出会いや場で救われる時があるのだなぁと思った瞬間でした。

その私がいま 精神障害2級の「うつ患者で休職」というのも 考えれば「破天荒な新卒から初任者指導教員になったあたりから・・・」というのも 面白いのかオカシイのか・・・・・。

最後にその学校で5年生担任になった時のメンバーも「私の大切な人」。後日、報告をしたいと思います。

posted by 小だぬき at 11:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 私の大切な人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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