長距離鉄道通勤者にとっての「知恵」として欠かせないのが、各駅のトイレの場所・エスカレータの位置、4月以前は喫煙所の場所。
私の場合は、行きも帰りも先頭車両に乗ることが「好都合」でした。
笑われるかもしれませんが、「出物腫れ物所嫌わず」というように トイレの場所は必至の知識でした。
鉄道を利用していると「人身事故のため遅滞とか運転停止」とかに出会うことが多くあります。
初めは、自殺のためなどと聞くと 「人の迷惑を考えてから 死んで欲しいな」などと怒りの感情の方が多かったのですが・・・・・
職場の同僚の話によると数年前から 小だぬきの心配発言が増えていたとのこと。
@ 死にたい気持ちは分かるけれど、時間帯を選んで欲しいな・・・
A もっと綺麗な死に方があるハズなのに・・・
B 時々、電車に吸い込まれそうな感覚になるよね・・・・
自殺を肯定するような発言が、初発症前にあり、京浜東北線の人身事故と聞くたびに顔を見て
小だぬきでなくホットしたと、言われ出した頃が 受診のタイミングだったのかもしれません。
今日は縁起でもないですが「自殺願望」について書きます。
この症状は、私に限ってかもしれませんが
「死にたい」と思うのではなく 何かの場面で「ここで飛び込んだらラクかな・・・」とか「睡眠薬の残りのハルシオンを飲んだら寝たままラクになれるかな・・・」などと 深い考えではなく「ラクになれるかな・・・」程度で実行してしまう恐怖なのです。
高校生のとき 鉄道自殺が学校近くであり、酷い自殺死体の状況や肉片を見ているだけに、鉄道に飛び込むことだけは その情景を思い出して止めることはできました。
問題は、不眠の時 内科で出されていた「ハルシオン」が大量にのこっていたため平成18年の3月にとうとう200錠以上をまるでお菓子を食べるがごとく飲んでしまったのです。
胃が最初に反応して 嘔吐感で吐き出したのと 次の日内科主治医に申告したときの胃洗浄の苦しさと血液検査、ラクになれるどころか「地獄の苦しみ」でした。
幸い嘔吐感のおかげで殆どが排出されていたので 後遺症は残らなかったのですが、あの時の気持ち悪さと苦しさは記憶に刻まれています。
また、ハルシオンそのものも 時間の経ったものが多く 効力が弱くなっていたのでしょう。
よくTVドラマや報道で 「死を望んで」とか「人世に絶望して」などと書かれていますが、私自身の体験からいうと「死ぬ」ことを前提にではなく「今より少しでもラク」になれればとの思いで 一歩踏み出してしまうのです。
この「自殺願望」との闘いは、数ヶ月を要したのですが、やっと「寿命がくれば誰でもイヤでも死ななくてはならないのだから、寿命までは生き抜こう!!」との気持ちになれました。
法学部で法医学講座を履修すると 各死体の特徴や性病などの特徴を学ぶのですが、それも「自殺願望との闘い」の武器になってくれたと思います。
あえて今なら断言できます。自殺したら「将来の幸せ・楽しみなどの可能性」を自ら絶つことになります。
どんな時でも「明けない夜はない」「やまない雨はない」と信じて「どっこいいきている」道をえらびましょう。
2009年05月07日
この記事へのトラックバック
「私は幸せになりたいとか、良い生活をしたい、とか思わない。ただ、『死にたい』と思わないようになりたいだけなんだ」
絶句してしまいました・・・
でも、「死にたい、死にたい」と思っていたわけですから、ありがたい一言でもありますよね
「死にたいと思わないようになりたいだけなんだ」一歩も二歩も前進の言葉ですね。
体験者として「何故死にたがるか」いまはわかりません。私の場合は「現実逃避でラクになりたいだけだったから」
「死にたい」という時は、話しを聞いて、甘えたいのシグナルとも思えるのですが、自傷行為になったら即座に大学に連絡してくださいね。
消えてしまいたい、投げ出したい願望は
あるかもしれません。
何もかも投げ出したい・・・
でも、そう思えば思うほど
苦しくなっていくし・・・
妹の子供たちみていると、
母がいない寂しさとても伝わるし・・・
今、ここにいるだけで、ありがたいかも。
あまりしっかりした親じゃないけれど
いまのちゃいねで許してもらっています。
まったり乗り切りたいです。
いいときもある、そうでないときもある
ま、いいか
どんな困難や辛さがあっても 明日の幸せのための準備期間と思いたいものです。
妹さんのお子さんたちも 子どもなりに母親の死を受け止め 前進して行くと信じましょう。
「どっこい生きている」ことによって きっと未来は開けると信じたい小だぬきです。
お題目をみて、読まないでおこうと思いつつ
つい、一通り読んでしまいました。
どこかに共感するところが私にもあった頃は、人生でどこかであったと思います。
でも、客観的に考えると「自殺」って馬鹿げてると言われそう、みんな「生きるため」に毎日をいきているんだって言われる声が聞こえそうです。
私自身、そう思ってやってきたから共感できるが、表面では、100%否定する言動をとってしまうのかなって思います。
実際、残された遺族からすると発する言葉がなくなってしまうんですね。こうしてあげればとの後悔が募るんだと思います。
まとまりなくなり、ごめんなさい。
「他人を大事にできる人は、自分をも大切にできる人」
お互い、「どっこいいきている」ことを大切にていきましょうね。