臓器移植には、4本の議員立法が出されていますが、正直 どれも中途半端な感は拭えません。
患者の家族を持つ立場からは 広く拡大解釈の可能なA案で「脳死を人の死」とみて 本人の「意思確認は不要」でしょう。評論家的には これで幼い子の臓器移植の可能性が広がり 人命が救われると評価するのでしょうが・・・・・・。
提供する立場になる「脳死と診断された臓器提供の子ども」の家族にとっては、はい、わかりましたとは言いにくいのではないでしょうか。
少なくとも 私に子どもがいれば、例え「脳死」と診断されても心臓停止が確認できるまでは「我が子の生還を祈りたいし」、もし死亡しても「きれいな身体のまま、あの世に送り出してあげたい」と思うのです。
例えどの案が成立しても、「人の死」をどう考え、不幸にもなくなった遺体・遺族に対してどう向き合うのかという、宗教的・哲学的合意は 長い時間をかけても必要でしょう。
間違っても、上記の私のように考え・思ってしまう 遺族に対してのバッシングにならない配慮だけは、考慮して欲しいと思います。
実際「脳死判定されてから蘇生された方」もいますし、アメリカなどでは「心臓死と判断され葬儀中に蘇生した」例もあります。
臓器を待つ人と提供する立場の遺族の方との合意形成のためには 新聞にあるように「死生観」の問題は避けて通れないことだけは 私たちは認識する必要があるでしょう。
昔読んだ 確か「ジョニーは戦場に行った」だと思いますが、周りからは 脳死と判断されても 本人は思考力も聴力もあり、周りの会話が理解でき その中で必死に「生きている」と主張するのですが、周りは「死」としての儀式を始める・・・。
もし、このような例が一例でもあれば、今少し 慎重に「脳研究」も進めて欲しいと思います。
正直、私は「助けられる命は助けたい」との総論は 賛成ですが、上記したように各論では賛成しがたい自分がいるのは確かです。
このような私は「人の命」の大切さを わきまえない不埒者でしょうか・・・・。
2009年06月18日
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