大江健三郎氏の「広島ノート」を中学時代に読み、喉に小骨がひっかかっているような気持ちが未だ拭えません。
また、選挙めあてでしょうが昨日の「原爆症認定訴訟」の国の方針も遅いとしか言いようがありません。
<原爆投下に関して>
・科学、化学者の姿勢として「仮説→実験→検証」という段取りがあります。
私は、アメリカの原爆開発のマンハッタン計画には、黄色人種として蔑んでいた日本人に対する「実験」
日常生活での爆発効果・被害調査を前提としたものではなかったのかと未だ思っています。
軍の日本上陸作戦の被害軽減策と科学者・化学者の「実験・検証」の誘惑、悪魔のささやきが 一致した結果の「広島」「長崎」を対象にした「人体実験だった」のではとの疑惑は捨てきれません。
・B29の焼夷弾による都市無差別爆撃で 焦土と化していた日本。その中でなぜ 軍港の広島・長崎・古都の京都・奈良などを 無差別爆撃から外していたのか・・・・。
日本政府が終戦の仲介をスイスやソ連に打診していたのにも関わらず、原爆投下にふみきったのか??
早期戦争終結のためなどという理由ではないことだけは確かです。
原子爆弾そのものの威力検証を黄色人種で長期に米軍に多大な被害を与えた「日本人」にこそ 戦後を見据えて「実験・検証」をしたかった、一時「悪魔」に支配された国が 米国だったのでしょう。
放射能被爆の被害が 64年たっても消えない「悪魔の兵器」を マンハッタン計画に携わった科学者・化学者は 人間としての理性を失って 悪魔に魂を売り渡したとしかおもえません。
日本の731部隊、俗称石井部隊の細菌研究・人体実験なども 人間としての良心より「実験テーマ」を追求した医学者の恐ろしさでしょう(殆どが戦後も大学教授に復帰した医師達です)
科学・化学の発達と兵器のより殺傷力を備えた発達??は表裏一体です。
国家指導者や政府の「理性ある歯止め」が無くなったときの悲劇が 広島・長崎原爆投下であると思います。
<防空戦闘機の出撃記録は・・・>
・戦記などでは B29のような重武装の爆撃機でも 編隊を組み相互で機関銃で援護し合わない限り、戦闘機からは機体を守るのは難しいと言われます。
・原爆投下したエノラゲイなどに対する 防空戦闘機部隊の出動の記録が不明なのはなぜかという素朴な疑問が湧くのです。 松山には、最新式戦闘機で熟練パイロットのそろった「紫電改」部隊があったし、その他の部隊も合ったはずです。
可動機がなかったのか、意図的に迎撃しなかったのか・・・
喉に小骨が引っかかっている点が そこなのです。
日本の防空隊は B29の搭乗員に恐怖を与えるほど 果敢に奮戦しています。機体性能の貧弱さをパイロットの「祖国を守る」意思で 克服して、いろいろな戦闘法をとり 撃墜数でも相当な戦果を挙げています。
なのに、広島と長崎の原爆投下機への迎撃記録を 私は読んだことがないのです。
これは機材の問題なのか、命令の指揮系統の問題なのか、政治的判断なのか・・・・。
当時産まれたばかりの人で64歳、働き盛りの人では80歳・90歳になろうとしている「慰霊の日」
慰霊碑の言葉「二度と過ちはくり返しません」は、科学・化学者に対する強烈なアンチメッセージだと思います。
権力者が戦勝者が 学者が 人間としての理性を忘れた時、「悪魔」に心が操られるのでしょう。
私たち一人一人も「人間としての良心・理性」を考える日として 絶対に風化させてはいけない日だと思います。
2009年08月06日
広島原爆慰霊の日(64年め)
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{うちのこどもたちだけ?}
ちゃいねは小学校の時はこの時期に平和学習した覚えがあります。
平和への思い・・・わすれてはいけないと思ったちゃいねでした
私は、事実を知ること・歴史を当時の状況で知ることが 次の「平和」を産むと思っています。
日本の歴史で誇れる人達は現地の兵卒に多いのです。ビルマやタイ、ベトナムなどの義勇軍として戦後独立戦争の技術指導や指揮官として活躍した人も多いのです。東南アジアで親日家が多いのも、政府ではなく脱走兵扱いされながらも現地に残った人達の犠牲・功績が大きいのです。
いつまでも「王様は裸だ」と事実を見る目は曇らせたくないと思います。