若い人には 記憶にもないのでしょうが、日本航空ジャンボ機が群馬県御巣鷹山に墜落して24年の歳月が立ちます。
その前の年から 航空機事故が続き「旅客機」に対する安全神話が崩れそうになった時の出来事、
・航空自衛隊のF86戦闘機の戦闘訓練に全日空機を使い、空中衝突全員死亡事件。
・羽田沖で「逆噴射」と機長が叫び、墜落した事故。
・大韓航空機、ソ連戦闘機による撃墜事件
日本だけでなく諸外国でも「旅客機」事故が頻発している中で 日本航空大阪行き123便墜落事故がおきました。
この事故については 未だに米軍撃墜説が消えないほど不可解な事故として鮮明に記憶に残っています。<小だぬきが大阪の研究会のため 3日前に日本航空ジャンボ機に乗り、事故当日の朝 夜行「銀河」で帰宅した夕方に起こった事故だったのです>
16時出発?の123便が 羽田離陸後 30分ほどでダッチロール(制御不能飛行)に入り 突然レーダーから消え 墜落が確実になっても 墜落した場所が特定できず 埼玉県・群馬県県警も確認出来ないとき、最初に発見・救援部隊出動の打診をしたのが米軍だったことから 「米軍関与」説が消えないでいます。
夜、群馬県御巣鷹山と確認されても 登山道もなく救難部隊の現場到着が大幅に遅れたこと。
警察・消防・自衛隊が出動し 凄惨な遺体や肉片を丁寧に集めた主力が自衛隊普通科部隊であったのにも関わらず、報道は警察発表のみ。
幸にも 3名の生存者が発見され、習志野の空挺団所属ヘリコプターで空挺団隊員に救助される場面を見て、自衛隊の姿がやっと見える状態でした(当時の反自衛隊報道主流のマスコミによって)
そのときの検証報道が後になり報道され、自衛隊の持つ災害対処能力が やっと認知されることになります。
歌手の坂本九さんや墜落する中で必死に家族への遺書を書いたサラリーマンの方の姿が 報道されて悲しみを深くしたものです。
520名の犠牲者を出した記録は、8・12連絡会(被災者家族の会)から 「おすたかれくいえむ」と題して毎日新聞社から出版され、多くの人の記憶に刻まれたものです。
小説家の横山秀夫さんが「クライマーズ・ハイ」の題で小説にし、映画・テレビでもご覧になった方が多いと思います。
事故調査委員会はジャンボ機の隔壁破損が原因と結論を出しましたが、パイロットの交信記録や突然の制御不能、初動の米軍の早さなどから いまだ「謎」として残っている事故です。
犠牲者・遺族には 申し訳なかったのですが、24年前の私の搭乗機でも起こりえたのかとゾーッとして しばらく搭乗機体を調べ ジャンボを外した記憶が 鮮明によみがえる 8/12 です
2009年08月12日
御巣鷹山事故?から24年・・・
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昼食のため外に出た際、その事故を知りました
その時の事は、私も、今でも鮮明におぼえております
飛行機が墜落するという事、たくさんの人が犠牲になるという事、全く信じられませんでした
最初は原因がよくわからず、機長のせいだと言われ、機長の家族の方はたいへん苦しまれたそうです
捜索に参加された方の中には、PTSDで苦しんでいる方がおられるそうです
何年経っても、終わらないものがありますね・・・
昼食ではなく、夕食でした
自分たちの活動を正当に評価されない中での捜索活動。遺族の中の手記でも自衛隊員達の真摯な姿に胸を打たれたとの記述があります。私も組合の執行委員でしたが、より過酷な任務を黙々とこなしている自衛隊員に頭が下がる思いでした。
遺族も捜索担当者も亡くなった方も 民間の事故で一挙に520名も犠牲がでることに愕然としたものですね。
PDSTが一番酷かったのが 救出された3名の女性だったのではないかと思います。ハゲタカマスコミの報道には腹がたったものです。
特にチーフパーサーだった落合さんに対するインタビュー質問の下劣さ。
まるで乗務員が生き残ったのは変だと言わんばかりの報道。
精神的に追い詰められた彼女は、日航も退社するハメになりました。
今は 健やかに笑いが出る平穏な日常が戻っていることを祈ります。
慰霊の日で 一番辛い思いを未だにもっているのは 生存された3名かもしれないと思います。「生き抜いてくれて良かった」と思いやる社会に この国がなるのはいつのことか・・・。