[朝日新聞掲載]2012年04月13日
1972年秋から6カ月間、愛知県豊田市にあるトヨタ自動車工場で期間工として働いた。
当時、34歳。その体験を基に書いたのが『自動車絶望工場』だ。
そこには合理化を進める企業と疎外される労働者の姿があった。
若者たちの「夢」は日々、「絶望」へと変わっていった。40年たった現在も、その構造は変わっていない。
◇
青森県六ケ所村について書いた記事を読んだ見ず知らずの農民から寄せられた手紙が、トヨタの工場で期間工として、働くきっかけになりました。
手紙の主は青森からホンダの工場に出稼ぎに来ていました。その彼と会った時に「どこの自動車工場が一番、きついのか」と尋ねたら「トヨタだ」と答えたんです。
労働の合理化に興味を持っていて、どういうふうにきついのかを知りたかった。それで一番きついトヨタの工場で働いてみようと思ったのです。
このルポの前に、公害の取材で九州に6カ月、滞在していたため、お金がなかった。期間工として働けば、お金が入るというのも理由の一つでした。
トヨタにいた時は何度も辞めようと思っていました。寮に帰ると階段も上れないほど疲れている。「今日、辞めると言おう。今日こそは……」と思いながら日々を過ごしていました。期間満了の6カ月を残して辞めたら、本は書けないぞと思っていたから、最後まで続けられたんだと思います。
タイトルに「絶望」という言葉を入れたのは、大きな工場で働くという夢が、実際に働くことによって「絶望」に変わっていくと感じたからです。
寮で同じ部屋で暮らしていた工藤クンの気持ちをどこかに反映したというのもあります。
同郷だった21歳の工藤クンとは偶然、職安で出会いました。彼の「身上調査表」の志望動機の欄には「貴社の将来性」と書かれていました。
仏壇づくりから転業したかった彼は「本工に採用されたい」という希望を持っていたのです。しかし働き出してから4カ月後、工藤クンは工場で倒れました。結局、首になって田舎に帰されました。本工どころか、「期間満了」さえできなかったのです。
数年後、工藤クンを見舞いに病院に行きました。リハビリを受けていた彼は、わたしのことを思い出せませんでした。それから何年かして、彼の実家を訪ねてみると、家は無くなっていました。もう彼の行方はわかりません。
今年1月、労働ペンクラブのメンバーと、日産の神奈川県・追浜工場の見学に行きました。工場は自動化が進んでいましたが、やはり無機質で硬い時間が流れていました。時間に人間が押し込まれて、その中で動いている。あの当時と何も変わっていません。
製造業は、ますます不安定労働に依存するようになっています。
以前は期間工しかなかった。いまは、期間工の下層として、派遣労働者が大量に採用されています。期間工の寮は無料で風呂もついていましたが、派遣はそれすらない。状況は悪化し、労働構造はさらに複雑化しています。
「ルポライター」は、ほぼ絶滅危惧種になりつつあります。でも、僕はこれからも「ルポライター」であり続けたい。
「いつか作家になりたい」という憧れを持っていた、かつてのルポライターたちは、「作家」という言葉がついた「ノンフィクション作家」に肩書を変えていった。
僕は逃げ遅れたんです。いまさら逃げても仕方ないでしょう。「ルポライター」という肩書のなんとなく、うさんくさい感じがいいと思っています。僕は、これまでずっと片隅のことを書いてきたわけで、僕自身も同じように地味な所に居続けたいと思うのです。(聞き手・山田優)
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かまた・さとし 1938年、青森県生まれ。新聞・雑誌記者を経てフリー。90年に『反骨―鈴木東民の生涯』で新田次郎文学賞、91年に『六ケ所村の記録』で毎日出版文化賞。
2012年04月15日
〈時の回廊〉鎌田慧「自動車絶望工場」 夢も希望も奪い去る労働
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