毎日新聞 2012年06月01日 13時54分
ノーベル賞受賞の学者や研究者が話題にのぼっている時、その学者らがなぜ勉強が好きになったのか、という記事を目にすることがある。
記憶にある一人は小柴昌俊氏だ。
確か氏は中学1年の時に先生が大好きで数学が好きになった、と話しておられた。
先生が好きになった理由に氏が触れていたかどうかは覚えていないが、間違っていても努力を認められたとか、独創性を褒められたとか、恐らくそんなところでは、と推察する。
それでは逆に先生に怒られるとどうなるか。すぐに浮かぶのは司馬遼太郎氏のこんな話だ。
中学1年1学期の英語のリーダーに、New Yorkという地名が出てきたので、この地名にはどんな意味がありますか、と先生に質問すると、「地名に意味があるか!」と怒鳴られた。
氏は家へ帰る途中、図書館に寄って地名の由来を調べたそうで、「私の学校ぎらいと図書館好きはこのときからはじまった」とエッセーにある。
良くも悪くも子どもたちにとって先生の存在がいかに大きいかを物語る話であろう。
さて、大阪市で教育行政への政治関与を強める教育行政基本条例が成立するなど、教育のあり方がまたまた議論を呼んでいるが、こういう時によく思い出すのが全米でベストセラーになった「こころのチキンスープ」に登場する数学教師の話だ。
その教師は「数学を教えているのではなく、子どもを教えているのだ」と考え直し、すべてのことに完全な答えを求める教え方を改めた。
そしてある日、エディという生徒の成績がずっと良くなっているのに気付く。どうして?と尋ねると、彼は答えて言った。
「先生に習うようになってから、自分が好きになったんです」
教えるとはどういうことか。示唆に富む話である。ともすれば教育は学力テストの結果や制度のありようなどをもとに語られがちだが、それ以前に先生が子どもとどう向き合うかが問われているわけだ。
その点では親も同じながら、100点を取って喜び勇んで帰って来た子どもに、こう言ってヤル気をなくさせる母親もいたりする。
「100点は何人いたの?」「みんな良い点だったんでしょ」
子どもは「頑張ったんだねえ」と認められると、自分が好きになり、本当に頑張って大きく伸びるというのに。
(専門編集委員)