人間はなぜ学ぶのか
著者
比嘉 昇(ひが・のぼる)
夢街道・国際交流子ども館 理事長
公立の小中学校の校長を歴任し、2002年に不登校の子どもたちのフリースクール夢街道・国際交流子ども館(京都府木津川市)を設立。
(WEDGE 2012年07月03日掲載)
2012年7月3日(火)配信
「先生、俺たちは何で9教科も勉強せなあかんのや!」
かつて、奈良の東大寺近くの中学校に勤務していた時、ある生徒が授業中、私にこんなことを問うてきたことがありました。
私は逆に、こう聞き返しました。
「ほな、君らに聞くけど、朝8時半になって奈良公園の鹿は何で学校に行かへんのや」
こんな禅問答のやりとりをしながら、私は最後に「君たちは“人間らしい人間”になるために学校に通っているんだよ。250万年と言われる人類の誕生以来、人間が生き抜いてきた歴史の中で、生きていくために必要なことを、9教科に分けて学んでいるんだよ」と言うと、生徒たちは、「フゥーン」という表情で矛を納めてくれました。
■生きるために「学ぶ」
「学ぶ」の語源は「真似ぶ」だと言われています。
火を恐れていた人類は、木と木の摩擦が火を起こすことを学び、それを利用することを覚えてきたのです。そして、動物の肉を焼いて食べることを発見し、脳を発達・進化させてきました。
人類はこのように、先人たちの生活を知り、知恵を受け継ぎながら、人類が生き延びるための術を、「学ぶ」ことを通じて会得してきたのだと言っても過言ではありません。
■子ども館設立の想い
私は10年前、京都府木津川市で、小・中・高校の不登校の子供たちの居場所・学びの場として、「夢街道・国際交流子ども館」という、フリースクールを開設しました。
定年前に3年間、校長として勤めていた中学校は、偏差値が奈良県下で常にトップグループの学校でした。
しかし、学校の体制に不満を持つ子どもや家庭に居場所のない子どもたちの一部は校内暴力でストレスを表示していました。
その一方で不登校の子どもたちを一人も学校に復帰させることができませんでした。その無念の思いから、退職金をすべてつぎ込み、子ども館を開きました。
私は日々、ここで子どもたちの成長を見守っていますが、4年前にやってきたAが先日、こんなことを言ってきたのです。
「大学で心理学を学びたい」
Aは小学校4年生から不登校になり、自宅にこもって、学びから遁走を続けていました。
Aが再び学校へ行くようになったのは、高校(単位制)に入学した春からです。
そんなAが子ども館にやってきたのは、中学2年生の時でした。
ゲーム三昧に明け暮れていたためか、バーチャルな世界と現実のリアルな世界の区別がつかない境界線を彷徨い、当時のAの言動は、現実離れしていたことが今でも忘れることができません。
「勉強しなさい」から逃げるために
あえて塾へ通っていた
「勉強しなさい」Aが不登校になった理由はさまざまです。しかし、この言葉が決定的だったということがわかったのは、Aが子ども館にやってきてしばらくしてからのことでした。
Aはある日私に、家族からの「勉強しなさい」のコールから逃れるために、「あえて塾へ通っていた」ことを告白したのです。
一合の升に一升の水を注げば溢れることは誰にでもわかることです。
しかし、それを知らない大人に育てられ、Aは沈没してしまったのでしょう。
「早く芽を出せ柿の種」とばかりに、Aは叱咤激励されて学校での授業の他にも塾での猛勉強にも耐えてひた走っていました。
しかし、とうとうオーバーヒートして、子ども館へ駈け込んで来たのです。
人間不信、大人不信のるつぼ
「誉めてあげれば子どもは明るい子に育つ」
「愛してあげれば子どもは人を愛することを学ぶ」
「認めてあげれば子どもは自分が好きになる」
「見つめてあげれば子どもは頑張り屋になる」
『子どもが育つ魔法の言葉』(PHP社)の著書があるドロシー・ロー・ノルカ氏はこう述べています。
Aはノルカ氏の言う教育と真逆の育てられ方なかで、「臥薪嘗胆」とも言える辛苦の人生を歩いてきたのでしょう。
子ども館に辿り着いたAは当初、私をはじめ、子ども館のスタッフら、我々大人たちに向ける不信の心持ちを引き連れ、話しかけても判然とせず、心を開いてくれることは極めて表面的でした。
この背景には中学生というプライドもあったのでしょう。
他者の助言を素直に聞き容れることは至難でした。
その一例として、根拠は不明ですが「自分は27歳まで生きられたらいい」という捨てゼリフを言うこともありました。
しかし、家族から「勉強せよ」と急かされていた日々から脱し、Aはひたすらマイペースで呼吸し始めました。子ども館の、不登校に悩む同年代、あるいは小学生や中学生の仲間たちは、Aを決して仲間外れにしようとしません。むしろ、同じ悩みを抱えている者同士にこそわかりあえる、暗黙の「共通言語」や「雰囲気」が存在していたのでしょう。
一つずつ、少しずつ積み重ねていく大切さ
5年間ほどひきこもっていたA。
世の中と関わらず、人間不信、大人不信のるつぼで呼吸していたAは、「一つずつ、少しずつ積み重ねていく」ということが苦手でした。
こうした事情を勘案し、Aには個別指導のスタイルで、積み重ねが必須である英語と数学の授業を始めました。
高校生になった今でも、Aが「わかった」と納得するまでこのスタイルが続いています。
また、大学進学を希望するまで意欲を取り戻したAが学習習慣を身につけていく土台となったのが、生活習慣の確立です。
朝きちんと起きる。
3食しっかり食べる。
身体を動かす
――つまり、人間が人間らしく生きていくための基礎的な営みを大切にしていくことです。
このプロセスは、子ども館の仲間やスタッフたちから、Aが人間らしい人間になることを「真似び」、不登校になる前の、本来の自分に戻るための期間だったといっても過言ではありません。
その結果、Aはふたたび生きる意欲を取り戻し、人間らしい人間になるために、学ぶ意欲がふつふつとわいてきたのでしょう。それが「高校にも行く」という発言に表れているだけでなく、「大学で心理学を学びたい」という発言にも結び付いたのだと思います。
Aの変貌ぶりは、青年の、否、人間の本性を大人が信じて待ち、じっくりと受け止めてあげれば、自ら生きていく意欲に点火するものであることを示してくれていると言えるでしょう。
子どもは大人のペースで生きられるとは限らない
翻って現代社会の子どもたちは、どのような環境下で学んでいるのでしょうか。
「速く・確かに・一直線に」とばかりに、子どもたちに脇目も振らずに進むことを求め、しかも、それが「子どもたちの幸せにつながる」と信じ切っていないでしょうか。
しかし、Aが示すように、子どもは決して、大人のペースで生きられるものでありません。
花の成長を無視し、あまりにも多く水を注ぎ過ぎると根腐れしてしまうように、子どもの教育も同様であることを、決して忘れてはならないし、してはいけない行為でしょう。
それは、哺乳類の中で、人間が1番の未熟児で生まれてくるということからも言えることではないでしょうか。
母体で十カ月ほど過ごし、誕生してから20年という、長い長い歳月を経なければ、1人前の大人になれない動物は人間だけです。
「学び」の原点を振り返り、学び続ける
繰り返しになりますが、だからこそ、私たち人間は、「学ぶ」必要があるのです。
また、子どもを大人へと導く、「教育者」ともいうべき、我々大人たちも、「学び」の原点を振り返り、学び続けなければならないのだと思います。
私たち大人は、子どもたちにいま、何を教え、何を教えようとしているのでしょうか。学校の勉強の背景にある「根っこ」を改めて問い直す必要がありそうです。
かつてフランスの哲学者・サルトルのパートナーであったボーボワールは、「女は女に生まれない、女になるのだ」と言いました。
「女」という言葉を「人間」に置き換えると、こうなります。
「人間は人間に生まれない、人間になるのだ」