「いじめ根絶」の憂い
2012年7月25日 東京新聞 私説・論説
大津市の男子中学生の自殺問題をきっかけに再びいじめの根絶が叫ばれている。
つらつら思うに、いじめのない学校なんてできっこない。
できたとしても恐らくどこか不健全だろう。
大人の世界に目を転じれば、職場でのパワハラやセクハラは後を絶たない。
そんな大人が偉ぶって子どもの世界のいじめの追放を訴えたって、子どもは見すかしていて白けるだけだ。
教育行政の親分の文部科学省がいじめ問題専門チームを作るそうだ。
もはや配下の教育委員会やその子分の学校は頼りなくて任せておけないらしい。
子分の手に負えないいじめがあると親分が出張る。さて責任はどっちが取るのかしら。
ともあれ、いつの世もいじめと真っ正面から格闘するのは現場の先生だ。
けれども、その先生に知識や技術を伝える「教師」は多くいるが、黙って成長を見届ける「育師」がいない。
そう嘆いていたのは心理学者の故河合隼雄氏だった。
いじめやけんかを止めに入って育ちの肥やしを奪うのが「教師」。
一線を越えるのは許さないが、育ちの肥やしの具合を確かめつつ見守るのが「育師」。
そんなふうに理解している。
根絶不能のいじめを成長の糧に昇華させられる先生が求められる。
たっぷり時間をかけて子どもに寄り添う「育師」の力量。
親分は学力アップ一辺倒の多忙な「教師」ばかりを養成したがる。
それでいじめが大事件になる。 (大西隆)
2012年07月25日
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