毎日新聞 2012年08月20日 東京朝刊
戦争の真っ最中に通った(中国東北部の)大連の女学校は、図書室に英国や米国の文学全集が残り、のんびりしていました。
敗戦を迎えた年も、宮崎知子さんという友達とノートにお話を書いて交換していました。
思い返せば、私のお話はてるてる坊主やお人形が出てきて、当時から童話に近いものでした。
敗戦後も、引き揚げるまでの約1年半、大連で暮らしました。
最初の数カ月は危険で、女性は外出できず学校にも通えませんでした。
早く学校に行きたかったけれど、お話という糧をたくさんもらった時期でもあります。
一人っ子だったので、ずっと家にいると本を読むか文章や絵をかくしかすることがないんです。
(能の台本を書いた)謡本(うたいぼん)やダンテの神曲など難しい大人の本も、家にあったものは全て読みました。
敗戦で、学校で教わるモットーは「アジアのために戦う」から「この戦争は間違っていた」へと180度変わりました。
あまりの転換に「先生方も反対のことをよく平気で言えるな」と思いました。
そんな中でも、元から戦争にあまり触れず、心や魂の持ちようについて話していた先生はおっしゃることが変わらず、救われました。
2年で国語を習った杉田政子先生もその一人です。
杉田先生が自由題の作文を宿題に出した時、全く書けないことがありました。
困り果てて、「夜中に目が覚めたらこんな影があって怖かった」「こんな音が聞こえた」と、ただ感じたままを書きました。
私は駄目だと思ったのに、先生は自分の言葉で書いてあるとほめてくださった。
「きれいに書かなくていい、まっすぐに書けばいいんだ」と驚きました。
その時です、自分の言葉で語る面白さを知ったのは。
たくさんの人にもらったものが、今の私を作っています。
戦争も私を作っている過去の一部ですから、書かないわけにはいきません。
中国の人から見て私たちが侵略者であることや開拓の歴史が子供の頃はよく分からず、大人になってから国会図書館に通って調べました。
傷つけられる側に我が身を置く想像力が大切だと痛感しました。
いじめのような現代の問題でも同じではないでしょうか。【聞き手・林田七恵】
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1931年、旧満州(現中国東北部)生まれ。
「車のいろは空のいろ」で日本児童文学者協会新人賞、野間児童文芸推奨作品賞。「ちいちゃんのかげおくり」で小学館文学賞。