毎日新聞 2012年11月02日 13時07分
日本語には体の各器官の感覚反応や動きを伴った言葉がいろいろある。
例えば腹なら、「腹に据えかねる」「腹の皮がよじれる」、
口なら「口が滑る」「口が曲がる」といった具合で、挙げていけばきりがない。
欲しくて欲しくてたまらない時の「喉から手が出る」といった言葉などは、その語感とともに肉体の体験がどうかかわってこういう言葉になったのだろう、と思わずにはいられない。
ぼくらが口にする言語は、幼児期の「アーア」「ウーウ」といった音(声)から始まり、そのうち「ワンワン」「ブーブ」と擬音化される経過をたどる。
頭の働きがどの段階で言語に影響をもたらしているのかはともかく、そんな幼児語もやがては目や耳など内臓系と離れた外の器官の働きを得て、言葉数を増やしていったに違いない。
そう考えると、詩人の多くが身体感覚に根差すオノマトペ(擬声語・擬態語)にこだわっているのも、人間存在のそもそもに迫ろうとしてのことと理解できる。
詩人の谷川俊太郎氏と和合亮一氏の対談本「にほんごの話」では、意味以前の言葉や肉体の奥底からわいてくる言葉について、るる語られている。
谷川氏はこんな話もしている。
<詩を作るときには「何を書く」というのを頭から追い出さないと駄目だ、というふうに思っています。だから、左脳をシャットダウンしてしまう。もっと脳よりも下、丹田(たんでん)で考える感じかな>
ついでながら、身体感覚に富んだ言葉の中で、ぼくのお気に入りは「腑(ふ)に落ちない」である。
頭では理解できても、何か納得しがたい、得心がいかないという話は、とりわけ昨今の政治家に多い。
衆院選挙がいずれ近いとあって、ああも言い、こうも言い、口はいたって滑らかだが、腑に落ちる話などとんと聞かない。
まかり間違って、彼らの話が体内のどこにもひっかからず、すとんと落ちてきたりすると、胃の腑がひっくり返るのではなかろうか、と案じている。
(専門編集委員)