毎日新聞 2012年11月17日 東京朝刊
「生きる力」の基本であるコミュニケーション力を、どうやって身につけるか。
北九州市の小学校教師、菊池省三(しょうぞう)先生がこのほど上梓(じょうし)した「菊池先生の『ことばシャワー』の奇跡」(菊池省三、関原(せきはら)美和子著、講談社)を読んで感動した。
荒れた教室の子どもたちが、1年間で見事に変わっていくのだ。
菊池先生が初めて子どもたちと対面した始業式の日。
体育館での式を終えて教室に入る前、菊池先生はバスケットボールのコートの円の中に入るよう、クラス全員に声をかけた。
だが、26人全員がうまく円の中に座ることができない。
円の中に入れず立ったままの子がいても、みんな平気だ。
菊池先生は子どもたちに注意をして全員を座らせると、こう話し始めた。
「掃除時間に何も持たずにぶらぶらしたり、廊下や階段で暴れたり、今までよくないことを平気でしていた人がいますね。
1組の教室では、そのようなことは絶対に許しません。
そんな今までの自分は、ここで“リセット”しましょう。最高学年としてこれから頑張る、という人だけ立ちなさい」
このやり方は、うまい。
先生の言うことなんて絶対聞くもんか、と思っている反抗的な子にも「立つくらいはいいかな」と思わせてしまう。
この「一歩」が肝心なのだ。
とても明快である。
崩壊した教室では「死ね」「ばか」「消えろ」「キモイ」など、とげとげしい言葉が飛び交うものだ。
菊池先生は、受け持った6年1組の子どもたちに、教室にあふれさせたい言葉を尋ねた。
「ありがとう」「ごめんね」「おはよう」「いいよ」「やさしいね」「すごいね」……。
子どもたちは、ほめられること、自分を認めてもらうことに飢えていた。
菊池先生は、子どもたちの「話す力」「聞く力」「話し合う力」を高めていく。
内気だから、人前で話せないのはしょうがない−−と思わないようにさせるのだ。
ユニークなのは「ほめことばのシャワー」。友だちのいいところを見つけて、みんなの前で発表させる授業だ。
「掃除用具を片づけていたら、○○さんが手伝ってくれました。5年生のときとちがってやさしくなったと思います」
ほめる方も、人のいいところを探す目が養われる。ほめられる方も、自分にはこんないいところがあった、ということを発見する。
「ほめことばのシャワー」を浴びると、自信と安心が得られるのだ。
それだけではない。菊池先生は子どもたちに、何度もこう語りかけている。
「知恵がないものがいくら知恵をしぼっても、何も出てこない。だから本を読もう、人と会おう」
ぼくにも子どもの時、似たような体験があった。
小学校高学年の時、知能検査があった。
しばらくして、担任の先生に言われた。
ぼくはそのころ級長をしていた。
通信簿もたいていオール5。
俗に言う「優等生」だった。
でも勉強は好きではなかった。
試験の前の「一夜漬け」が得意だったのだ。
だが「IQ高くないぞ」と言われてみて「そうかもしれない」と思った。
頭がすごくいいヤツがいることは、子どもの目でもわかる。
そういう人と自分とは違うことが、この時にわかった。
先生がなぜそんなことを言ったのか、わからない。
一夜漬けで一応の成績をとっててんぐになっていたぼくの「がんばりすぎない」性格を見抜いて、発奮(はっぷん)材料にしてくれたのかもしれない。
「IQ高くないぞ」という言葉は、ぼくにとっていい「リセット効果」をもたらした。
頭がよくないから、みんなと同じことをしていてはダメだと思うようになった。
知識は少ないけれど、たくさんの本を読んで、たくさんの人に会い、いろんなことを教えてもらおうと思った。
大学受験を意識するようになった時も「IQ高くないぞ」という言葉はちゃんと残っていた。
みんなと同じことをしていては、自分のいる環境から抜け出せないと思った。
朝4時半に起きて勉強するようになった。
その意識は、今も変わらない。今64歳、いまだに4時半に起きて机に向かっている。
小学校の教室で学んだことは、一生影響すると思う。
言葉が貧困なのは、荒れた教室の子どもたちばかりではない。
ぼくたち大人社会にも、人を傷つけ、他人を尊重しない言葉が横行しているのではないか。
だが、人を勇気づけてくれるのも、人と人とがわかり合えるのも、言葉あってこそだ。言葉には使う人の心が映る。
菊池先生は、言葉の使い方の技術だけを教えているのではない。子どもたちの言葉を育て、心を育てているのだ。
先生の話をもっと聞きたくなった。
25日午前10時からの「日曜はがんばらない」(文化放送)のゲストとして、先生に電話出演してもらう。
当日の放送を楽しみにしていただきたい。
聞き逃した方、放送圏外の方は後日、ネットストリーミングで聴くことができる。
(医師・作家)