毎日新聞 2013年01月26日 東京朝刊
東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市で昨年11月、新しい在宅ケアのネットワークを作るための、初めての勉強会が開かれた。
介護や看護、医療の専門家約100人が集まった。
うわさを聞いた市民たちが、さらに50人ほど加わった。
ぼくはこの勉強会に、ボランティアで講演を頼まれた。
町の復興とは、建物や商店街をつくるだけではない。
「年をとっても安心」という在宅ケアのネットワークをつくることも大切だ。
高齢者にやさしい町は、障害者にも、子どもたちにもやさしい町になる。
在宅ケアを充実させることで、若者の雇用の機会も広がる。
勉強会の翌日、仮設住宅の巡回診療に行くと、認知症で寝たきりの母親を、息子さんが介護していた。
キャンプ場の管理人をしていたが、震災後、仕事がなくなった。
やがて、介護施設で働くことになった。
息子さんが働いている時間は母親を見る人がいないため、娘さんが仕事を辞めて介護することになった。
娘さんの子どもは、震災後に不登校になったという。
震災の傷は複雑で深い。それでも、介護と子育てに真正面から取り組んでいた。
新しい在宅ケアのネットワークは、こういう家族に寄り添い、身近なパートナーになってほしい。そう思った。
ところで、ぼくが陸前高田を訪ねたのは、勉強会で講演するためだけではなかった。
実は、あるケアマネジャーの女性を応援したかったのだ。
彼女に会ったのは昨年夏。広島で開かれた日本ケアマネジメント学会で講演した際、楽屋を訪ねてきた。
仕事を続けるかどうか、迷っている、という。
聞けば、3人の子どもを残して最愛の夫が津波で亡くなった。
家も流された。眠れない夜が続き、仕事中に自動車事故を起こしてしまった。
7カ月入院。3回の手術を受け、右腕を失った。
一度に多くのものをなくし、仕事に気持ちが向かわない−−。
ぼくは、あえて厳しい口調で言った。
「仕事を辞めてはダメ。仮設住宅で介護をしている人も、介護を受けている人も、つらい状況にいる。
苦しい思いをしているあなたなら、困難のなかで生きる人たちの気持ちがわかるはず。
苦しいだろうけど、仕事を続けていれば、回りまわって自分のためになる時が必ず来る」
その後、彼女が被災した要介護者のためにいい仕事をしていると知った。
約束通り応援に行った。
勉強会の後の懇親会で、彼女と再会した。
ハグをしたとき、義手に触れた。
彼女はこの手で、悲しみを抱えた被災者の皆さんを支えているのだ。
エライなあ、と思った。
この町では、1500人以上の人が亡くなっている。
行方不明や災害関連死まで入れると2200人近い。
みんな悲しみを持っている。
勉強会を通じて、こうした人たちがつながることが大事だ。
企画したのは、市の保健師さん。
彼女も被災者だった。
家を新築し、あと1週間で引き渡しという時に、津波が来た。
新築した家も、住んでいた家も流された。
一度も泊まっていない新築の家のローンだけが残された。それでも負けていない。
勉強会後の懇親会では、県立高田病院の院長、石木幹人先生と隣り合わせになった。
「諏訪中央病院の地域医療が、ずっと気になっていた。
町の再生に役立てたい」と話してくれた。
後で分かったが、石木先生も奥さんを津波で亡くしていた。
なんてことだ。
みんな悲しみを抱えながら、歯を食いしばって生きているのだ。
仮設住宅の一角に、しゃれた建物を見つけた。
昼はデイサロン。
夜はみんなが自分でお酒を持ち込み、即席の「居酒屋」になる。
仮設住宅に住む人たちの孤立化を防ぐ、地域の拠点だ。
外は荒涼として寒々しい。
津波の爪痕がまざまざと残っている。
でも、デイサロンの中からは楽しげな笑い声が聞こえる。
のぞいてみると、おばあちゃんたちが10人ほど集まり、おしゃべりに興じていた。
あまりの明るさに、ついバカな質問をしてしまった。
すると、みんな一斉に「全員、全員」と笑い出した。
「家を流されなければ、ここにはいないのよ」
それはそうだ。でも、おばあちゃんたちは明るく、家を流されたことさえ笑い飛ばしている。
復興は遠いけれど、心は負けていない、と思った。
陸前高田の景色は、震災直後とほとんど変わっていない。
もうすぐ2年になろうとしているのに。
市長さんに話を聞きに行くと、高台移転を計画しているという。
時間はかかるが、必ずいい町をつくるという。
みんな、あきらめていない。
あたたかい町づくりをしよう、と情熱を持つ人たちが大勢いるのは、この町の大きな希望だ。
ぼくも、なんとか応援を続けたい。
(医師・作家)