毎日新聞 2013年03月05日 東京地方版
大阪市で30年間、引きこもりを続けた40代の男性が、生活を支えてくれた姉を逆恨みして刺殺するという事件があった。
地裁は、男性が発達障害であることを理由に「社会に受け皿がない」として、求刑の懲役16年を上回る懲役20年の判決を宣告した。
しかし控訴審では一転、「出所後は公的機関の支援があり受け皿はある。
量刑は重すぎて不当」と求刑を下回る懲役14年が言い渡された。
発達障害があることで刑を重くしたり減刑したりしてよいのかという問題もあるが、10代の息子が引きこもりぎみと相談に来た女性は、「30年間の引きこもりですか。ウチもそうなるのでしょうか」と暗い顔をした。
実際、診察室には、引きこもり歴35年とか40年の子どもを持つ親も来ている。
“子ども”とはいってもすでに50代、両親は80代というケースもある。
しかも、「いつか立ち直るはず」と見守り続け、つい最近になってからいよいよ自分たちも高齢になったので、とはじめて相談に来るという例もしばしばだ。
そんな“引きこもりのベテラン”たちと実際に会ったり、メールのやり取りをしたりする機会もある。
そこで感じるのは、「親が心配しているほど社会性がないわけではない」ということだ。
多くの人はたくさんの本を読み、テレビやラジオ、インターネットからいろいろな情報や知識を得ている。
小説を書いている人もいれば、抜群のユーモア感覚を持っている人もいる。
無責任な意見かもしれないが、「この人の30年はムダじゃなかったんだ」と思うことも多い。
ただ、この人たちの能力や知識は、すぐに職業や収入に結びつくものではない。
仕事となると毎日、同じ時間に同じ場所に通う体力や、気の合わない同僚ともうまくつき合う要領の良さなども必要となるからだ。
自分の世界で好きなことをやり続けてきた人にとって、満員電車での通勤や職場での作り笑顔は意味がなく、不純なことのように見えてしまう。
つまり、彼らはピュアすぎるのだ。
10代のピュアな心のまま、40代、50代になった引きこもりの人たち。
社会は彼らがそのまま自分の能力を生かせる場を用意すべきなのか、それとも、彼ら自身に「もっと世俗的になれ」と指導すべきなのか。
診察室でいつも頭を抱えてしまうが、高齢の両親には「これがただの気休めに終わりませんように」と祈りながら、こう伝える。
「息子さんには見どころはあるのです。それをうまく生かしきれないまま、ここに至ったのです」