2013年6月10日 東京新聞夕刊
「パパのおくりもの」や「老人党宣言」などユーモアと風刺に富んだ著作で知られる作家で精神科医のなだいなだ(本名・堀内秀(ほりうちしげる))さんが六日死去していたことが分かった。八十三歳。東京都出身。自宅は神奈川県鎌倉市。
一九五三年に慶応大医学部を卒業。
医師として病院に勤める傍ら、幅広い文筆活動を展開した。
ペンネームは、スペイン語で「何もないと、何もない」を意味する。
同人誌「文芸首都」に参加。「海」や「トンネル」などで計六回芥川賞候補となったが受賞は逃す。
六五年のエッセー「パパのおくりもの」で注目された。
独自の平和論を展開した「権威と権力」、医師としてアルコール依存症の問題を扱った「アルコール中毒−社会的人間としての病気」など、多くの著書を残した。
二〇〇三年、インターネット上の仮想政党「老人党」を結成。
「老人はばかにされている。政治へ怒りを率直にぶつけ、選挙を面白くしよう」と呼び掛け、話題を集めた。
党結成の精神を著作「老人党宣言」に記した。
エッセー「娘の学校」で婦人公論読者賞、評論「お医者さん」で毎日出版文化賞。明治学院大教授を務めた。
他の作品に「人間、この非人間的なもの」など。
雑誌「中央公論」六月号に「人生の終楽章だからこそ“逃げずに”生きたい」と題する文章を掲載し、膵臓(すいぞう)がんであることを告白していた。
自身のブログは六日未明まで更新を続けた。
◆ユーモアで世直し 旗振り
<評伝> 「怒れる老人」は、亡くなる直前まで誰からも束縛されず、病に屈することもなく、ただ自分が自分であることを主張し続けた。
現代社会に向ける鋭い視線は、古今東西の哲学や歴史に裏打ちされ、本質を見抜いた。
自由と理性を体現した言論人だった。
十年前、神奈川県鎌倉市の自宅で初めて会った。
小泉政権が米国のイラク戦争を支援し、市場経済主義で弱肉強食、格差拡大政策を進めていたころだ。
「老人や弱者いじめの政治にもう我慢ならん」と、インターネット上でバーチャル(仮想)政党の「老人党」を立ち上げた。
自民党政権を許した責任は老人にある。
政権交代で官僚支配、米国依存を打破する。
失うものが何もない老人が世直しの声を上げようと、旗を振ったのだ。本紙は特報面で「世直し!老人党」を連載した。
「本当に困っている人を助けるのが政治」と言い切った。
政権交代は六年がかりで実現したが、民主党政権のばらまき政策を「政治哲学がない」と批判。
政権交代がふつうになれば「投票する老人や弱者の声を政治家は無視できなくなる」と言い続けた。
原発脱却や環境保護、護憲活動でも気を吐いた。株優先のアベノミクスを欺瞞(ぎまん)と喝破し、与野党に「強い国ではなく、賢い国にしよう」と注文した。
一九六五年の著書第一作「パパのおくりもの」は、自身の子供に語りかけるエッセーの手法をとりながら、文明や社会を批評。
政治家への苦言はいまでも永田町に通用する内容だ。
軽妙でエスプリに満ちた文章はその後の評論、小説、エッセーなど幅広い著作に一貫していた。
ラジオの「全国こども電話相談室」の相談員も務めた。
思想を優しい言葉で伝える独自路線を切り開いた。
精神科医を現役引退した後も、社会問題に正面から向き合い、執筆活動のかたわら市民団体の招きであちこちを講演して回った。
なださんを追い続けるうち、怒りの裏側に深い人間愛と失敗を許す寛容さ、違いを認める包容力を感じ、うつになりがちな心がいやされた。
二〇一一年に前立腺がんを発症。手術不可能と告知された後も、ブログで「痛みを和らげながら知的活動を維持していく」と宣言。
亡くなった六日も家族や世直しへの思いをつづっていた。
とりあえず主義を標ぼうし、「完璧を求めず、とにかくやってみて、ダメなら直せばいいさ」が口癖だった。 (立尾良二)
最後まで自分の考えをブログにしたためた
素晴らしい人だったのですね
お悔やみ申し上げます。
した。私が生きる指針にしていた方が亡くなるのはとても辛い事です。
お元気ですか?ご無沙汰しています。
「なだいなださん」・・・子だぬきさんのお陰さまで、
なお一層身近に感じた方でした。
残念でなりませんが、寿命は致し方ないとしか言い様がありません。
ご冥福を祈ります。
なださんは亡くなりましたが、その思想は受け継がれると思います。
久しぶりに「娘の学校」を読み返しましたが、今でも十分に通用する本です。
「老人パワー」を取り戻したい小だぬきです。