「命令とはいえ…」 元日本兵、「始末」を後悔
毎日新聞2013年06月22日10時59分
(最終更新 06月22日 13時00分)
「全部始末せよ」。
上官の命令は絶対だった。
沖縄戦末期、米軍の激しい攻撃で追い込まれた旧日本軍の陣地。
陸軍の通信兵だった片山省(しょう)さん(90)=兵庫県洲本市=は負傷兵が休む小屋に手投げ弾を投げ込んだ。
米軍の捕虜となれば秘密が保てないと、信じて取った行動だった。
20万人の犠牲を出した沖縄戦の組織的戦闘が終わった23日、沖縄は「慰霊の日」を迎える。
「命令とはいえ、えらいことをした」。
卒寿を迎えた今も、片山さんには68年前の出来事が心に重くのしかかる。
「4月になれば『米軍が上陸したな』。
6月と聞くと『沖縄戦の終結やな』。
そりゃ、毎年そう思います」。
沖縄から遠く離れた淡路島。
片山さんは6年前に妻に先立たれ、独りで暮らす。
1944年1月、徴兵で満州の陸軍部隊に入り、訓練を受けた。
9月、送られた先は沖縄。上官は「お前たちは玉砕要員だ」と言った。
翌年4月、米軍が沖縄本島に上陸。
雨のように降り注ぐ砲弾の中、連絡文を手に部隊間を走った。
「毎日何十人と死んでいった。
ああ、今日は命があったと。
生きた心地がせんかった」
6月中旬、本島南部に追い込まれた部隊に総攻撃の指示が下った。
「通信兵のお前らは全てを始末して撤退」。
それが上官の命令だった。
「俺は歩けない。涼しい所に連れて行ってくれ」。
壕(ごう)に残った同じ隊の兵に頼まれた。
太ももを撃たれていた。壕を出て約50メートル引きずり、道端で手投げ弾を手渡した。
壕の中の無線機や暗号機は全て破壊した。
近くには負傷兵を収容した小屋があった。
「生きてるのか、亡くなってるのか、何人いたかも分からない。
とにかく爆破せねばと」。手投げ弾を投げ入れた。
「爆発音は聞いていません。米軍がドンドン撃ってくるから。砲弾の嵐でした」
糸満市の摩文仁(まぶに)の集落に着くと、敗走兵が集まっていた。
米軍が迫る。断崖で数日過ごし、考えた。
自決か、戦うか、投降か。
「司令官が自決したという話もあり、戦闘はもう終わったと感じた。
捕虜になるのは恥だが、今さら死ねんと思った」。
崖を降り、投降した。
戦後、淡路島に戻り、定年まで中学校の教師を勤め上げた。
孫もできた。
定年後、沖縄を訪れ、「始末」を命じられた地に立ち、思った。
「あの時、みんな一緒に出て行って、捕虜になっていれば……。
むごいことをした。戦争はもう二度としちゃいかん」
戦争は2度と起こしてはいけないけど、世界のどこかで、今でも戦争が起こってる
想像を絶します。
軍隊による国土防衛は 殆どムリです。いつ・どこでは 侵略を意図した国が選択できるのですから・・。
使えない軍隊と定義するより 国土国民防衛隊として自衛隊を位置づければ 装備も違ってくるはずです。