毎日新聞 2013年08月20日 東京地方版
熱中症で命を落とす人が相次いでいる。
特に一人暮らし、夫婦二人暮らしの高齢者が目立つ。
訪問診療を多くしている内科医の知人が、かつて話してくれたことがあった。
「都会のビルの谷間に古くから残っている住宅密集地には、どの家のドアを開けてもお年寄りが一人、あるいは二人で暮らしている。
最新のビルのふもとでテレビだけが友だち。
ムッとした部屋の中で誰とも話さずに一日中、座っているだけという人がいるかと思うと、往診しながらやるせない気持ちになってしまうね」
その人たちは「住み慣れた場所がいい」「独りが気楽」と言いながらも、実は「迷惑をかけたくない」という思いが強いという。
子どもがいても「大丈夫だから」と寄せつけない。
民生委員やケアマネジャーが訪ねてきても同じ。
「自分のことは自分で何とかしなきゃ」という「自助の精神」が、体に染み込んでいるのだ。
そういう話を聞くたびに、「人の助けを借りるのは、本当に迷惑をかけることなのか」と考え込んでしまう。
一生懸命、生きてきて年を取り、体の自由が利かなくなったり配偶者を失って独りになってしまったりする。
それはごく当たり前のことで、失敗でも恥でもない。
そうなった時に「私はこれからどうしたらいいんですか。
後はどなたかお願いしますよ」と、正々堂々とSOSを発信して、社会が「本当にお疲れさまでした。
どうぞご心配なく」と手を差し伸べる。
そして、体のケアも受けながら、なるべく快適に暮らせるような環境を提供する。
高齢になってからの心配がなければ、誰もが若いうちにもっと大胆に起業したり消費したりもできるはずだ。
「高齢者がひっそりと家へこもり、熱中症で亡くなるだなんて本当にひどい。
そういうニュースが世界に流れることこそ、恥ずかしいと思うべきじゃない?」と怒っていたら、若い知人に「でも、増え続ける高齢者へのサービスを、これ以上手厚くするとしたら、その財源はどうなるんですか」と言われた。
なんでも「財源は? 原資は? 費用対効果は?」と発想するのがイマドキ風なのかもしれないが、果たしてそれは正しい態度なのか。
世の中には「何をさておいても」ということがあるのではないか。
「迷惑をかけたくない」と家へこもる高齢者の多くは、何も要求せず何も申し立てないので、その人たちに代わって、ここは私が大いに怒りの声をあげたいと思う。